Romanian Midfielder

インテルとバルセロナに属した海外移籍の開祖
 ニコラエ・シマトック - Nicolae Simatoc
38-41 リペンシア・ティミショアラ 44-3
41-43 カルメン・ブカレスト 3-0
42-45 CAOオラデア(HUN) 32-1
1944 ヴァサス・ブダペスト(HUN) 9-3
45-47 カルメン・ブカレスト 19-0
47-49 インテル(ITA) 17-3
49-50 ブレシア(ITA) 30-8
1950 ハンガリア・ローマ(ITA) 0-0
50-52 バルセロナ(SPA) 34-2
52-53 レアル・オヴィエド(SPA) -
1920年5月1日生まれ 初代表:1940年9月22日ユーゴスラビア戦
8試合−無得点 ラスト:1946年10月13日アルバニア戦
バルセロナに属したハジとポペスク、インテルに属したムトゥとキヴというスター選手より先駆けてルーマニア史上初のメガクラブに所属した知られざるプレイヤー。リペンシアのユースチームで14歳からプレーして順調に成長すると19歳で1部にデビューを果たす。翌シーズンからはリーグ上位のクラブで主力としてのチャンスも与えられて、3シーズン過ごしたティミショアラから首都のカルメン・ブカレストへの移籍に成功。しかし戦争により情勢不安定のため2シーズンに渡り国内リーグが中断し、非公式なカップ戦や短期の代替リーグがカルメンでの2シーズンとなり有望な才能は停滞した。42/43シーズンにリーグが開かれていたハンガリーリーグのオラデアに移るとそこで活躍し初年度はリーグ2位、翌年にはリーグ制覇の一員となることができた。しかし3年目にはハンガリーもリーグ中断の決定がなされて、ヴァサスを経てカルメンへの帰還も計2シーズンは再度非公式な舞台での環境となった。リーグが再開された後の47年には国内の政情変化によりイタリアへ渡る決意をして、フリーで強豪のインテルへの入団を果たす。インテルでの2シーズンはチームの低迷期でもあり、12位という不甲斐ない成績から自身の活躍も披露できずに2部のブレシアへと都落ちした。ここでの30試合8得点の復活し、同時に属していた公式試合出場はないが東欧からの亡命組で組織されたハンガリア・ローマでの出会いがキャリアを好転させた。このチームを率いていたフェルディナンド・ダウチク監督とその義理の息子でハンガリー代表のスター選手だったラズロ・クバラが前年にスペイン選抜と親善試合した際に評価されていたことからバルセロナからオファーを受けて、シマトックも監督に請われてスペインへ移るチャンスを得た。バルセロナの初年度となった50/51シーズンは28試合出場したが、それ以上に初戦となったソシエダ戦での1得点3アシストやクラシコと呼ばれる伝統のレアル・マドリッド戦でも活躍したことが印象を与えた。翌年には蒼々たるメンバーの中でケガでポジションを失った事もあり、6試合の出場にとどまったが、カップ戦の2連覇とリーグ制覇の2冠に輝いた。代表ではワールドカップなどの世界大会が長らく中断していた期間だったこともあってインパクトのある記録は残っていない。(2009.12.6更新)

ルーマニア初の欧州ベストイレブン
 ヨシフ・ペツショフスキ - Iosif Petschovschi
39-40 キネズル・ティミショアラ(B) -
39-40 CAMティミショアラ 2-0
40-42 キネズル・ティミショアラ(B) -
41-44 CAオラデア(HUN) 25-0
44-46 CAクルージュ(HUN) -
46-49 ITAアラド 59-24
50-51 フラムラ・ロスィエ・アラド 35-10
52-54 CCAブカレスト 50-19
55-57 フラムラ・ロスィエ・アラド 46-17
57-61 UTAアラド 87-18
1921年7月2日生まれ 初代表:1945年9月30日ハンガリー戦
32試合−11得点 ラスト:1958年9月14日東ドイツ戦
戦時のルーマニアにおいて抜群のスキルと強さを持ったうちの一人で、最も得意としたポジションは攻撃的MFであったが、GKも務めたことがあるほどポリバレントなオールラウンダー。地元のティミショアラの2部でデビューすると戦時色が強くなってきた1942年からは当時ハンガリー領に属していたCAオラデアで3シーズンを過ごして(ハンガリー名ではヨゼフ・ペレニー)、43-44シーズンにはハンガリーリーグを制した。翌年は同じくハンガリー領のCAクルージュへ移籍するも4試合後に第2次大戦により中止。ハンガリーでは77試合に出場したとされている。戦後にはアラドにプレーの場を移して初年度に12得点を決めてリーグ制覇に貢献。トータルで5シーズンに3度のリーグ制覇とカップ戦優勝1度を残して、1952年にCCAブカレストに移籍するとここでも初年度にリーグとカップの2冠を収めて翌年のリーグ制覇も含めると結局8シーズンで所属したチームに6度のタイトルをもたらした。以後は再度アラドに移って40歳まで現役としてプレーした。代表ではオラデアにタイトルをもたらした1942年にハンガリー代表に選出されて3試合に出場。戦後にルーマニア国内に移るとともにブランクを経てルーマニア代表に選出された。1947年にはポーランドとの親善試合で相手チームの勝利に金を賭けていたことが発覚して3ヶ月の出場停止処分になっている。1950年代にはキャプテンとして2度のワールドカップ予選を戦ったが、本戦出場はならなかった。しかし1952年には国内の「マスター・オブ・スポーツ」の栄誉を受け、1955年にはヨーロッパのメディアが選ぶ欧州ベストイレブンに選ばれた。アラドのスタジアムには彼の銅像が建つほど今でもレジェンドとして愛されている。(2009.11.13更新)

代表を1970年W杯に導いた司令塔
 ラドゥ・ヌンヴェイラー - Radu Nunweiller
62-63 ヴィトルール・ブカレスト 1-0
63-76 ディナモ・ブカレスト 295-38
76-78 コルビヌル・フネドアラ 37-2
1944年11月16日生まれ 初代表:1966年9月21日東ドイツ戦
42試合−2得点 ラスト:1975年4月17日スペイン戦
目を見張る個人技と正確なパスセンスが光るインサイド・フォワード又はハーフウイングで欠くことのできない70年代を代表するMF。ゲームビジョンには確かなものを持っていて、献身的な動きでドブリンとドゥミトラケの持ち味を大いに引き出して1970年メキシコワールドカップ出場に貢献。クラブでは1957年にディナモユースでキャリアをスタートして、U-18代表チームとして一年限定で作られたヴィトルール・ブカレストに参加して62年にリーグ1部にデビュー。すぐさま戦力としてフィットして司令塔として強力なディナモの攻撃陣をコントロールし、全ての攻撃はラドゥから始まると位置づけた。ディナモでのデビューから順調に4シーズンを経た67-68シーズンには肝炎を患い、リーグでは13試合に留まり、優勝したカップ戦はすべて欠場することになった。翌シーズンには回復したラドゥは以前と変わらずリズムで活躍し、予選を戦う代表にも召集されていった。後に代表監督のアンジェロ・ニクレスクも1970年ワールドカップ予選を突破できた最大の要因はラドゥを核としたチーム作りに着手し、それを成功へと導いた彼の功績に負うところが大きいと述べているように大活躍を見せた。本大会ではそれまでのチームの中心だったドブリンが監督との確執で出場しない中で、全3試合に出場し知名度を上げた。大会後もディナモの中心として牽引してさらにリーグ優勝3度、3度のチャンピオンズカップを含む16試合に出場している。80年にスイスに移住して以来20年間はスイスリーグの監督を歴任している。またスポーツ一家の7人兄弟の6番目であり、長男から順にコスティン、ドゥミトル、イオン、リカ、ヴィクトル、ラドゥ、エドゥワルドである。有名どころでは、三男イオン、四男リカ共にディナモ・ブカレストそして代表選手である。(2009.12.29更新A)

老いてなお盛んだったペネトレイト・ウインガー
 エメリッヒ・デンブロフスキ - Emerich Dembrovschi
61-65 フォレスタ・シゲト(C) -
65-67 ビクトリア・ロマン(C) -
66-70 ディナモ・バカウ 83-26
70-74 SCバカウ 94-31
74-81 ポリテニカ・ティミショアラ 209-51
1945年10月6日生まれ 初代表:1968年10月27日ポルトガル戦
27試合−9得点 ラスト:1973年9月26日東ドイツ戦
柔軟多様なスキルで右サイドを疾走した国内屈指のゴールスコアラーで威力のあるシュートで距離を感じさせない攻撃範囲に定評があった。17歳でトップチームに昇格したのは地元の弱小クラブだったため、しばらくは目立たない選手ではあったが、66年に移籍したバカウでいきなり1部昇格に尽力すると、1部でも十分に上位を争うクラブへと変身させた。68年から始まったワールドカップ予選第1試合でデビューすると全6試合に出場し、本選出場を決めたギリシャ戦で決勝ゴールを決めヒーローになった。またこの69/70シーズンにはリーグでは11得点、フェアーズカップ(後のUEFAカップ)では知名度の薄いクラブで7試合5得点の大活躍でベスト8に貢献している。この勢いのまま本戦にも全3試合にスタメンフル出場してゴールも記録。グループリーグ突破はならなかったが、ブラジルやイングランド相手に躍動した姿はベストイレブンに選出する関係者もいたほど。続いて出場した1972欧州選手権予選でも活躍して予選ラウンドを突破、クォーターファイナルでハンガリー相手に決着が着かずプレーオフで敗退。大会の方式が準決勝からが本大会という今では考えられないスタイルだったため、いちおう予選敗退ながら欧州ベスト8になっている。30歳になってから移籍したティミショアラでも衰えることなく活躍し、特に33歳で迎えた78/79シーズンに得点ランキング4位となる13ゴールを決めたのには脱帽するしかない。翌年はリーグでは中位のクラブにあって決勝でステアウアを破って国内カップを制した。(2009.12.30更新A)

レアルがなりふりかまわず欲しがった伝説の魔術師
 ニコラエ・ドブリン - Nicolae Dobrin
  1947年8月26日生まれ   180cm 77kg   通算代表歴:48試合−6得点
  初代表:1966年6月1日西ドイツ戦   最終代表:1980年4月27日東ドイツ戦
ルーマニア国内で体操のナディア・コマネチと人気を二分した国民的英雄かつヨーロッパトップスターの一人で、あのハジが理想の選手として手本にしたレジェンド。たくみなフェイントと神出鬼没な動きで相手DFを翻弄した司令塔で、サイドからのスムーズな攻撃のリズムを作り出すことに秀でていた。天才肌のプレイヤーで1970年メキシコワールドカップ予選中に代表トレーニングキャンプへの参加を拒みポーカーに興じていた事が発覚して一年ほど代表から締め出されていたこともあるように、指揮官にとっては少々扱いづらい存在だった。この事が原因で監督との確執は根強く残り、国民のスターであることから本選のメンバーには名を連ねたが出場機会を与えられることはなかった。クラブではほとんどをアルジェシュで過ごし、72年と79年の2度のリーグ制覇(現在までクラブ唯一)とクラブをリーグ上位の強豪へと躍進させた。特に72/73チャンピオンズカップでのレアル・マドリッド戦では、当時全世界のサッカー界の噂であった「鉄のカーテンの向こうに存在すると伝えられていた幻の天才」の西欧へのお披露目となり、その噂に違わないプレーでアルジェシュを勝利に導き、その存在はヨーロッパ全土に響き渡った。当時のレアルのサンチャゴ・ベルナベウ会長が時の独裁者であったチャウシェスクに移籍を直談判するも不可能に終わった。その年の12月にはレアル所属MFヘントの引退試合にドブリンは招かれ、1日限りのレアルの選手としてスタジアムの観衆は1プレーごとに歓喜の声を上げたという。試合後にはベルナベウ会長がドブリンに対して亡命をもちかけたが、それも叶わぬ夢に終わった。世界に名を轟かせていたビッグクラブの会長がなりふりかまわず熱望した選手がこのドブリンだったのである。狭き国内では66年、67年、71年の3回でルーマニア最優秀選手に輝き、出場408試合はリーグ歴代11位の記録になっている。引退後はその功績をたたえてアルジェシュのホームスタジアム名はニコラエ・ドブリン・スタディオンと命名されている。その後はアルジェシュのGMとしてムトゥ、コマン、ネアガ、ディカを育てあげていたが、2007年10月26日に肺ガンのため死去。国をあげての悲しみにつつまれたのは当然として、2日後のスペインリーグでレアルのホーム戦においてサンチャゴ・ベルナベウ・スタジアムにはドブリンへの哀悼の辞が横断幕で掲げられ、テレビやラジオでは当時の映像なども含め特集番組が組まれ、往年の名選手が多くその悲しみにくれたという。レアルに所属することはなかったが、今もレアルの歴史にその名を残すルーマニアの早すぎた天才。(2007.11.26更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
61-62 ディナモ・ピテシュティ 1-0 A14
62-63 ディナモ・ピテシュティ 0-0 B1
63-64 ディナモ・ピテシュティ 13-1 A10
64-65 ディナモ・ピテシュティ 17-0 A8
65-66 ディナモ・ピテシュティ 20-2 A4
66-67 ディナモ・ピテシュティ 20-2 A12 6-1(6G)
67-68 アルジェシュ・ピテシュティ 24-8 A2 2-1(2G)
68-69 アルジェシュ・ピテシュティ 25-6 A12 4-0(4G)
69-70 アルジェシュ・ピテシュティ 24-18 A10
70-71 アルジェシュ・ピテシュティ 24-4 A9
71-72 アルジェシュ・ピテシュティ 23-5 A1
72-73 アルジェシュ・ピテシュティ 21-5 A3 4-4(4G)
73-74 アルジェシュ・ピテシュティ 28-11 A8 1-1(2G)
74-75 アルジェシュ・ピテシュティ 16-6 A7
75-76 アルジェシュ・ピテシュティ 28-4 A11
76-77 アルジェシュ・ピテシュティ 27-4 A11
77-78 アルジェシュ・ピテシュティ 25-9 A2
78-79 アルジェシュ・ピテシュティ 22-9 A1 4-1(4G)
79-80 アルジェシュ・ピテシュティ 31-2 A3 4-0(4G)
80-81 アルジェシュ・ピテシュティ 1-0 A3
CSトゥルゴビシュテ - B1
81-82 CSトゥルゴビシュテ 13-5 A9
82-83 アルジェシュ・ピテシュティ 5-0 A4
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1970年ワールドカップ出場(0試合)
ルーマニア最優秀選手:
1966年 1967年 1971年 その他5回ベスト5にランクイン

類まれな戦術眼でタクトを振ったレジスタ
 ヨーン・ドゥミトル - Ion Dumitru
67-72 ラピド・ブカレスト 110-11
72-80 ステアウア・ブカレスト 212-47
80-82 ポリテニカ・ティミショアラ 46-2
82-83 ウニベルシタテア・クライオバ 4-0
83-84 CFRティミショアラ(B) -
84-86 ポリテニカ・ティミショアラ 33-1
85-88 ラピド・ブカレスト 37-3
1950年1月2日生まれ 初代表:1970年2月9日ペルー戦
57試合−12得点 ラスト:1980年10月15日イングランド戦
安定した守備と国内最高と言われたパスセンスで誰とでも息のあったプレーを見せた柔軟性抜群のMF。20歳ながら1970年メキシコワールドカップ直前の親善試合でデビューしてそのまま本選メンバーに選ばれ、本選でも全3試合にスタメン出場して国内のみならず世界レベルでもその実力を証明。以後は不可欠の選手として中盤でコンビを組んだディヌとは抜群の連携を見せ、ディヌ引退後も若きボローニを支えてキャプテンとして存在感を示した。クラブではステアウアで2度のリーグ制覇とラピド、ステアウア、クライオバで4度のカップ優勝を経験し、総出場数442はリーグ歴代7位を記録。また73年、75年でルーマニア最優秀選手に選ばれている。(2005.6.18更新)

代表史上初の100キャップを記録した人格者
 ラディスラウ・ボローニ - Ladislau Boloni
  1953年3月11日生まれ   176cm 72kg   通算代表歴:108試合−25得点
  初代表:1975年6月4日デンマーク戦   最終代表:1988年6月1日オランダ戦
ルーマニアで初めて代表100キャップを記録した選手でハジ以前のルーマニアサッカーのカリスマ的存在。プレースタイルは左足のエレガントなテクニックと正確なロングパス攻撃をリードするレジスタ。また同時に強力なロケットシュートを武器とするシューターでもある。特に77年のギリシャとの代表戦で見せたハーフラインからの超ロングシュートは圧巻。14歳でディビジョンCのキミカに入団した頃にはすでに広く知られるような将来を約束された選手であり、期待に応えるように成長していった。17歳にはティルナベニのスタジアムで試合観戦中だった父親が心臓発作で急死するという悲劇を乗り越えて、移籍したASAでは1年目で昇格に貢献。その後20代の全盛期に14シーズンに渡り活躍。強豪とは言えない波のあるクラブだったためここでの優勝経験はなかったが、75年にはUEFAカップ出場、77年にはルーマニア最優秀選手に輝いている。代表では不可欠の存在であり、84年欧州選手権予選では最多の8試合に出場し、堅守のチームにあって2試合で決勝ゴールを決めて、最終戦でギリギリ1ポイント差でスウェーデンを振り切り、14年ぶりの国際舞台本選出場に多大な貢献を見せた。この活躍で83年に自身2度目となるルーマニア最優秀選手に選ばれる。30代になってから移籍したステアウアではリーグ3連覇とチャンピオンズカップ制覇し、ようやく栄冠を得ることができた。総出場数484試合は歴代3位の記録。落ちついた性格で信頼が厚く、サッカー以外に歯科医としても有名である。引退後はフランスのナンシーの監督を経て、2000年欧州選手権で身を引いたイエネイ監督の後を継いで代表監督になったが、協会の体制に嫌気がさして2002年ワールドカップ日韓大会予選途中に辞任している。その後ポルトガルのスポルティング・リスボン、フランスのレンヌで監督をしている。スポルティング監督時に見出した現在のポルトガル若手スターのC・ロナウドやR・カレスマなどからは今も師と仰ぐほど尊敬されている。名前についてはドイツ語のOの上に点が2つ付いたものが正式であり、「オ」ではなく「エ」と発音されるためベレニと呼ぶのが正しい。(2005.6.18更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
68-69 キミカ・ティルナベニ 16-0 C5
69-70 キミカ・ティルナベニ 22-0 C8
70-71 ASAトゥルグ・ムレシュ 19-2 B1
71-72 ASAトゥルグ・ムレシュ 27-1 A4
72-73 ASAトゥルグ・ムレシュ 26-0 A12
73-74 ASAトゥルグ・ムレシュ 31-3 A12
74-75 ASAトゥルグ・ムレシュ 24-1 A2
75-76 ASAトゥルグ・ムレシュ 33-4 A3 2-0(2G)
76-77 ASAトゥルグ・ムレシュ 33-11 A4 2-0(2G)
77-78 ASAトゥルグ・ムレシュ 31-3 A12 2-0(2G)
78-79 ASAトゥルグ・ムレシュ 32-3 A9
79-80 ASAトゥルグ・ムレシュ 26-6 A15
80-81 ASAトゥルグ・ムレシュ 31-6 A13
81-82 ASAトゥルグ・ムレシュ 31-10 A15
82-83 ASAトゥルグ・ムレシュ 32-7 A8
83-84 ASAトゥルグ・ムレシュ 30-7 A14
84-85 ステアウア・ブカレスト 24-3 A1 1-0(2G)
85-86 ステアウア・ブカレスト 31-9 A1 9-1(9G)
86-87 ステアウア・ブカレスト 28-10 A1 1-1(2G) 86欧州S
87-88 ステアウア・ブカレスト 14-2 A1 4-1(8G)
ラシン・ブリュッセル(BEL) 16-0 A18
88-89 ラシン・ブリュッセル(BEL) 0-0 B12
USクレテ−ユ(FRA) 11-2 B10
89-90 USクレテ−ユ(FRA) 32-4 B12
90-91 USクレテ−ユ(FRA) 27-0 B16
91-92 USクレテ−ユ(FRA) 18-0 B17
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1984年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:
1977年・1位、1983年・1位。その他5回ベスト5にランクイン

ステアウアで輝いた偉大なダイナモ
 トゥドレル・ストイカ - Tudorel Stoica
71-72 ポリテニカ・ガラツィ(B) 4-0
72-74 CSUガラツィ(B) 52-0
74-75 FCMガラツィ 4-0
75-89 ステアウア・ブカレスト 368-43
89-90 レンヌ(FRA・B) 17-0
90-91 ステアウア・ブカレスト 1-0
1954年9月7日生まれ 初代表:1979年10月14日ソ連戦
15試合−0得点 ラスト:1987年11月18日オーストリア戦
代表でもクラブでも90分間フルに走り回って守備的な役割をこなすダイナミックなMFで、ステアウア黄金時代の偉大なキャプテン。代表ではディヌとボローニという2大巨頭が中盤を占めていたためクラブほどのインパクトは残せてない。地元のガラツィでクラブのトップチームにデビューしてから、10代の3シーズンを2部で過ごした。最後の74/75シーズンは4試合だけの出場だったが、翌年には強豪ステアウアに移籍して主力としてリーグとカップの2冠に貢献。ここから4シーズンはさらにリーグとカップを1度ずつ制して代表にも選ばれるようになった。しかし78/79シーズンからの5シーズンは主力ながら1度もタイトルが取れず、長きジレンマの中で代表からも遠ざかっていき、84年の欧州選手権本戦もエントリーを逃した。復活を果たしたのはキャプテンになってからの84/85シーズンで、6年ぶりのタイトルとして国内2冠に輝いて4年ぶりの代表復帰も果たした。以降はクラブでは5シーズンでリーグ5連覇、カップ4回優勝、86年のチャンピオンズカップ優勝、87年の欧州スーパーカップ優勝、88年のチャンピオンズカップでベスト4、89年準優勝と歴史に名高いステアウア黄金期を迎えた。結局代表では7試合の出場に留まったが、ステアウアでの出場数368試合は歴代在籍414選手の頂点に立つクラブ歴代1位。惜しむらくは86年の決勝戦を累積警告で出場できず、副キャプテンのヨヴァンが掲げたトロフィーを見るしかなかったことだろうか。またハジの後継者として伸び悩んだアリン・ストイカの父として有名でもある。(2009.12.12更新B)

ポジション適正に長けたバイプレイヤー
 ヨシフ・ロタリウ - Iosif Rotariu
80-86 ポリテニカ・ティミショアラ 106-16
86-90 ステアウア・ブカレスト 93-28
90-92 ガラタサライ(TUR) 28-4
92-94 バキルコイスポール(TUR) 8-0
94-96 CFRティミショアラ(B) 8-2
95-96 ポリテニカ・ティミショアラ 17-6
95-96 OFKキキンダ(YUG・B) -
96-98 ステアウア・ブカレスト 42-11
98-99 ポリテニカ・ティミショアラ(B) 21-4
98-00 エクステンシブ・クライオバ 32-3
99-00 ポリテニカ・ティミショアラ(B) 12-1
01-02 ビホール・オラデア(B) 17-2
1962年9月27日生まれ 初代表:1988年6月1日オランダ戦
25試合−1得点 ラスト:1997年4月30日アイルランド戦
主に守備的MFとして活躍したが、状況によっては左のサイドバック、サイドハーフでも起用されたテクニシャン。18歳の時にポリテニカでデビューするも3シーズンはサブとしてベンチを暖める日々が多かったが、前年の降格により主力を放出した83/84シーズンにスタメンとして昇格に貢献すると、最後のシーズンには守備的ポジションながら10得点を記録して86年にステアウアから注目されて入団。公式戦デビュー前にトヨタカップのメンバーに選ばれたが出場は無し。それからはストイカ、ボローニの後継者としての期待に応えて、リーグとカップの3年連続2冠を果たし、絶頂期の89年にはチャンピオンズカップ決勝でACミランに敗れるもスタメンとしてステアウアの快進撃を支えた。翌年のワールドカップ本選にも全試合出場して名声を得た後に念願の海外移籍をトルコのガラタサライに求める。しかしここでの2シーズンはカップ・ウィナーズ・カップでは4試合に出場してベスト8に貢献するも、リーグではチャンスも少なく期待以上の活躍はできなかった。レンタル先でもポジションを奪えずに4シーズンに渡って国内など2部を転々とした。そのため92年5月のW杯予選フェロー諸島戦を最後に代表戦から遠ざかっていたが、96/97シーズンにステアウアに復帰するとリーグ2連覇の中で主力として復調。それもあり97年4月のW杯予選アイルランド戦でヨルダネスク代表監督のはからいによって、代表引退試合として約5年ぶりの代表復帰となった。引退後はハジ代表監督時代にアシスタントコーチを務めていた。(2005.6.18更新A)

一瞬のきらめきで欧州ゴールデンブーツをもぎ取った男
 ドリン・マテウツ - Dorin Mateut
80-87 コルビヌル・フネドアラ 132-36
86-91 ディナモ・ブカレスト 116-80
90-93 レアル・サラゴサ(SPA) 64-10
92-93 ブレシア(ITA) 4-0
93-95 レッジアーナ(ITA) 25-3
94-96 ディナモ・ブカレスト 37-8
95-96 スポルツール・スツデンテスク 3-0
1965年8月5日生まれ 初代表:1984年2月7日アルジェリア戦
56試合−10得点 ラスト:1991年11月20日ブルガリア戦
ポジショニングに優れ、正確なシュートが定評だった選手。地元のフネドアラでルチェスクの師事を仰いで3年目からようやく戦力として計算できるようになり、85/86シーズンの16得点を引っさげて、ルチェスクが指揮していたディナモに入団。ステアウアの後塵をはいして4年連続リーグ2位だったが、カップ・ウィナーズ・カップには4年連続出場して18試合8得点。88/89シーズンにはFWとして34試合で43ゴールを決め、リーグ得点王、欧州ゴールデンブーツ、ルーマニア最優秀選手に輝く。翌年はディナモの国内2冠と欧州カップ・ウィナーズ・カップベスト4進出に貢献した。代表では86年頃から出場し、全盛期だった88年欧州選手権予選5試合、90年W杯1試合、92年欧州選手権予選6試合に出場。その後ピークを過ぎたのか、サラゴサでは安定したプレー時間を得ていたが、移籍したイタリアのブレシアではミルチェア・ルチェスク監督の下でハジ、サバウ、ラドチョウらと一緒にプレーするも4試合のみの出場に留まった。翌シーズンのレッジアーナではエクストローム移籍後にスタメン確保も、当時イタリア代表のデ・ナポリが加入してきたことでポジション争いに敗れて、後に構想外になってしまった。クラブや代表では少しの栄光しか味わえず、どこか肩透かしの感が否めない。(2005.6.18更新A)

王様という名を欲しいままにしたルーマニアの栄光の証
 ゲオルゲ・ハジ - Gheorghe Hagi
  1965年12月5日生まれ   174cm 70kg   通算代表歴:125試合−35得点
  初代表:1983年8月10日ノルウェー戦   最終代表:2000年6月24日イタリア戦
あまりに情報と偉業が多いのと、リアルタイムで小さな情報すら網羅しているので、長文をまとめる自信がありません。
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
81-82 ファルル・コンスタンツァ 2-0 A14
82-83 ファルル・コンスタンツァ 18-17 A18
83-84 スポルツール・スツデンテスク 31-2 A4 2-0(2G)
84-85 スポルツール・スツデンテスク 30-20 A3 2-3(2G)
85-86 スポルツール・スツデンテスク 31-31 A2 2-3(2G)
86-87 スポルツール・スツデンテスク 16-5 A4 4-1(4G)
ステアウア・ブカレスト 14-10 A1 86欧州S
87-88 ステアウア・ブカレスト 31-25 A1 8-4(8G)
88-89 ステアウア・ブカレスト 30-31 A1 9-6(9G)
89-90 ステアウア・ブカレスト 22-10 A2 3-1(4G)
90-91 レアル・マドリッド(SPA) 29-3 A3 4-0(6G)
91-92 レアル・マドリッド(SPA) 35-12 A2 10-3(10G)
92-93 ブレシア(ITA) 31-5 A14
93-94 ブレシア(ITA) 30-9 B3
94-95 バルセロナ(SPA) 16-4 A4 2-0(8G)
95-96 バルセロナ(SPA) 19-3 A3 5-3(10G)
96-97 ガラタサライ(TUR) 30-14 A1 3-1(4G)
97-98 ガラタサライ(TUR) 33-12 A1 6-0(6G)
98-99 ガラタサライ(TUR) 27-14 A1 8-3(2+6G)
99-00 ガラタサライ(TUR) 19-12 A1 7-2(2+6G) 8-2(9G)
00-01 ガラタサライ(TUR) 25-11 A2 10-2(14G) 00欧州S
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(4試合)・1994年ワールドカップ出場(5試合・3得点)・1998年ワールドカップ出場(4試合)
1984年欧州選手権出場(2試合)・1996年欧州選手権出場(3試合)・2000年欧州選手権出場(3試合)
1994年ワールドカップ・ベストイレブン受賞
ルーマニア最優秀選手:
1985、87、93、94、97、99、2000年・1位

ルーマニア20世紀最優秀選手
ルーマニアリーグ得点王:84/85、85/86

風貌から想像できないほどの足技を持ったテクニシャン
 ダヌーツ・ルプ - Danut Lupu
85-87 ドゥナレア・ガラツィ(B) -
86-90 ディナモ・ブカレスト 90-17
90-91 パナシナイコス(GRE) 10-1
91-93 コリントス(GRE) 47-3
93-94 OFIクレタ(GRE) 9-1
93-94 ラピド・ブカレスト 2-0
94-95 ブレシア(ITA) 15-1
94-95 ラピド・ブカレスト 13-6
95-97 ディナモ・ブカレスト 42-7
97-00 ラピド・ブカレスト 77-13
00-01 ディナモ・ブカレスト 4-1
00-01 ラミノルール・ロムン(B) 1-0
00-01 ハポエル・タフリリン(ISL) 1-0
1967年2月27日 初代表:1989年10月11日デンマーク戦
14試合−無得点 ラスト:1998年3月18日イスラエル戦
ガニ股とふてぶてしい風貌からは想像できないテクニックと正確なキックを持った攻撃的左MFで、奔放な私生活と一転してピッチで見せるその才能は常にイングランド代表ポール・ガスコインと比較されている愛されるべきキャラクター。ディナモでのリーグ・カップ2冠と欧州カップ・ウィナーズ・カップベスト4の勢いのまま、90年W杯には2試合出場し、決勝トーナメントアイルランド戦でPKを蹴るシーンは印象的だった。パナシナイコス移籍後には盗品をルーマニアに密輸したとして懲役2年の実刑を受け、コリダロス刑務所での監獄リーグにも出場。何度かマン・オブ・ザ・マッチに輝いている。94年にはサバウと共にプレーしたブレシアで開幕前こそ、移籍していったハジに劣らないテクニシャンとして期待されたが、インパクトを残せずに、代表でも96年欧州選手権予選に4試合でてからは召集されていない。国内に戻ってからは復活し再評価を得るようになり、98W杯直前のアルゼンチン戦との親善試合でも召集の機運が生まれたが実現しなかった。前年のカップ制覇に続き、98/99シーズンには2度目のリーグ優勝を果たす。この頃のルプは絶好調で、若きラズヴァン・ラツがポジションを奪えずにいたほどだった。また現役時代通じて大酒飲みで有名であり、ロッカールームでも平気でウイスキーを飲んでいたらしい。(2005.6.18更新A)

Jリーグで知名度を上げた先駆者
 パヴェル・バデア - Pavel Badea
83-92 ウニベルシタテア・クライオバ 202-43
92-95 ローザンヌ・スポーツ(SWI) 100-12
95-96 ウニベルシタテア・クライオバ 19-4
96-98 水原三星(KOR) 86-12
98-99 ベルマーレ平塚(JAP) 23-5
1999 柏レイソル(JAP) 19-0
00-01 アビスパ福岡(JAP) 58-8
01-02 エクステンシヴ・クライオバ 13-6
02-04 ウニベルシタテア・クライオバ 37-5
1967年6月10日生まれ 初代表:1990年9月28日ソ連戦
9試合−2得点 ラスト:1992年10月14日ベルギー戦
豊富な運動量と正確な左足のキックでパス、シュート共に定評のあった攻撃的MFで、元祖Jリーグで活躍したルーマニア人として多くのファンを持つ。17歳の時に地元のクライオバでデビューしてから8シーズンを過ごす。その間つねに5位以内をキープする強豪チームにあって主力として202試合に出場。特に90/91シーズンには10ゴールを記録して初のリーグ優勝を収めて翌年にチャンピオンズカップにも出場。この頃に代表にもデビューして92年欧州選手権予選、94年W杯予選にも出場するが、所詮はハジ全盛期のチームに居場所はなかった。スイス、韓国を経験した後のJリーグ時代には司令塔、ボランチと2つのポジションから神業スルーパスを連発し、強烈なミドルシュートは何度も相手GKを恐れさせた。残念ながら所属のクラブが強豪とは言いがたかったため、成績は良いものではなかった。日本でも相変わらずオファーがあったものの、最後は故郷のクライオバで余生を過ごし、選手兼監督をしていた03/04シーズンに相手に重傷を負わせるタックルをしてしまったことから責任を感じて引退。37歳まで現役でプレーし、体力的にはまだ十分な状態だったという。現在は監督を経て現在は同クラブの会長をしている。(2009.2.10更新)

90年のPK失敗が強く残るネガティブな実力者
 ダニエル・ティモフテ - Daniel Timofte
86-89 ジウル・ペトロシャニ 31-5
89-91 ディナモ・ブカレスト 35-10
90-92 FCユルディンゲン(GER) 15-0
92-93 ディナモ・ブカレスト 26-0
94-99 サムスンスポール(TUR) 138-18
99-00 ディナモ・ブカレスト 6-0
1967年10月1日生まれ 初代表:1990年3月28日エジプト戦
22試合−2得点 ラスト:1995年2月26日アゼルバイジャン戦
非凡なパスセンスと正確なシュート能力に定評があった攻撃的MF。86年にジウル・ペトロシャニで1部デビューしてほぼ全試合に出場したが、クラブが2部降格したために2年の間は表舞台に出れない日々を過ごした。しかしディナモに移籍した89/90シーズンにリーグとカップの2冠を制覇すると90年W杯予選終了後のエジプトとの親善試合で代表デビューし、得点も決めてスターダムに躍り出た。その後2ヶ月間の代表戦で好調を維持して90年W杯のメンバーに選ばれる。3試合に出場したが決勝トーナメント1回戦アイルランド戦で5人目のPKキッカーを務めるも名手ボナーに止められて涙をのんだ。半年後にはブンデスリーガに活躍の場を求めるが、チームは2部降格してしまい自身もインパクトを残せないままディナモに復帰。92年欧州選手権予選でも3試合出場したが、マテウツの控えとしての位置であり、久々に96年欧州選手権予選で活躍したが、バックアップとしてだったので本選最終メンバーには残れず。代表では早くにピークを迎えてしまったが、クラブではトルコで6シーズンを過ごしてその地位を築いた。(2005.9.10更新A)

ボアヴィスタの再興を切り開いたファンタジスタ
 イオン・ティモフテ - Ion Timofte
88-89 CSMレシツァ -
89-91 ポリテニカ・ティミショアラ 65-19
91-94 FCポルト(POR) 69-24
94-00 ボアビスタ(POR) 145-37
1967年12月16日生まれ 初代表:1991年4月3日スイス戦
10試合−1得点 ラスト:1995年10月15日スロバキア戦
所属した全てのクラブで前線への決定的なパスとFKの職人として栄光をつかんだ天才MF。若き頃はすぐにでもサッカーをやめて技術者になることを夢見ていたが、そのテクニックに惚れ込んだポリテニカが彼を必要としサッカー選手のキャリアを続けることを説得したために本人も徐々にその意識を高めていった。ポリテニカでは全試合出場し19得点を挙げ名声を得て、92年欧州選手権予選で代表にも選ばれる。その直後にポルトガルの名門FCポルトに引き抜かれて3シーズンで2回のリーグタイトルに輝いている。ボビー・ロブソン体制になってからは新加入選手にあぶれる形で中堅のボアビスタに移籍。そしてこの頃3年ぶりの代表復帰も果たし、96年欧州選手権のメンバーにはほぼ確実視されていたが、私生活に重点を置くことを好み、それを辞退してTVで観戦したという。以降はクラブに専念してボアビスタでは96/97シーズンに国内カップを制し、98/99にはポルト、ベンフィカ、スポルティングという絶対的3強支配を崩してリーグ2位という偉業に貢献し、翌年はクラブ初のチャンピオンズリーグに出場した。代表ではポジションも利き足も同じだったハジの影に隠れてサブとしての扱いではあったが、もしハジが存在していなかったら同等の成績を残した可能性を持つ選手だった。ガラタサライの基盤をハジが作ったと言われるのと同様に、ボアビスタが1946年から現在まで続く3強独占のリーグ優勝に穴を開けた2001年の優勝の基盤を作ったのもティモフテによるものと言われ、今だにボアビスタの伝説として受け継がれている。(2005.9.10更新)

度重なるケガでチャンスは逸したハジの片腕
 ヨアン・サバウ - Ioan Ovidiu Sabau
  1968年2月12日生まれ   176cm 73kg   通算代表歴:55試合−8得点
  初代表:1988年2月3日イスラエル戦   最終代表:2001年11月14日スロヴェニア戦
運動量、テクニック共に優れて、攻守で大きく貢献したMFでハジの片腕。18歳でU・クルージュで1部デビューすると若き才能ある選手として名を馳せて3年後には国内最優秀選手の5位に入る成長を見せた。そしてこの頃に代表デビューを飾ると翌年に移籍したディナモで2冠の原動力に。デビューしてからの88、89年はW杯予選を含む全17試合に出場し本大会でも全4試合に出場した活躍が認められ民主化の流れと共にオランダのフェイエノールトに移籍。オランダ国内カップを2連覇するクラブにおいて存在感を示した。翌年には元代表監督のルチェスクが就任したセリエAのブレシアにハジ、ラドチョウらと共に加入して、94年W杯予選でもあいかわらず代えのきかない選手としてキャリアのピークを迎える。残念ながら大会直前のケガにより大躍進を見せたチームに彼の姿はなかったが、クラブではハジとラドチョウが抜けた後も若いチームを豊富な経験で支えて6年間イタリアでプレーしたため、世界的に知られるようになる。ただしケガがちという点もあって、代表では以降7年間で10キャップしか伸ばせなかった。2002年W杯予選にはハジの監督就任に伴い2年ぶりの召集を受けると、プレーオフ2試合を含む終盤の大事な3試合に出場して33歳とは思えないエネルギッシュなプレーを披露した。また美談としてキャリアを始めたクラブのクルージュがディビジョンCで苦しんでるのを見て、ラピドで確固たる地位を築いていたにもかかわらず、直訴して1シーズンをクルージュに捧げて見事B昇格に貢献した。また監督として臨んだガス・メタン・メディアスの1部昇格プレーオフで現役復帰してプレーした。選手時代から真面目な人格者として知られ、将来の代表監督になる可能性は高い。(2005.9.20更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
85-86 ウニベルシタテア・クルージュ 8-1
86-87 ウニベルシタテア・クルージュ 21-3 A10
87-88 ASAトゥルグ・ムレシュ 4-0 A12
88-89 ディナモ・ブカレスト 25-3 A2 6-0(6G)
89-90 ディナモ・ブカレスト 24-5 A1 7-2(8G)
90-91 フェイエノールト(HOL) 27-6 A8
91-92 フェイエノールト(HOL) 12-5 A3 3-0(8G)
92-93 ブレシア(ITA) 32-4 A14
93-94 ブレシア(ITA) 25-6 B3
94-95 ブレシア(ITA) 12-0 A18
95-96 ブレシア(ITA) 30-0 B16
96-97 レッジアーナ(ITA) 19-1 A18
97-98 ブレシア(ITA) 7-1 A15
98-99 ラピド・ブカレスト 22-1 A1 2-1(2+2G)
99-00 ラピド・ブカレスト 21-1 A2 1-0(2+0G)
00-01 ウニベルシタテア・クルージュ - C1
01-02 ラピド・ブカレスト 19-0 A3 3-0(2+2G)
02-03 ラピド・ブカレスト 17-1 A1 3-0(2+2G)
04-05 ガス・メタン・メディアシュ 1-0 B2
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(4試合)
1996年欧州選手権出場(メンバーには選ばれるが、ケガで出場無し)

ルーマニア最優秀選手:
1988年・3位、89年・2位、93年・5位

努力の一文字でハジの大記録を抜き去ったルーマニアの鉄人
 ドリネル・ムンテアヌ - Dorinel Ionel Munteanu
  1968年6月25日生まれ   170cm 69kg   通算代表歴:134試合−16得点
  初代表:1991年5月22日ノルウェー戦   最終代表:2007年9月12日ドイツ戦
小柄で安定したボールコントロールと豊富な運動量で中盤を支える攻撃的MF。左足のシュートは強烈で、時としてFWとして出場したこともあるほど。92年欧州選手権の第7戦でクラインのポジションを奪ってから、94・96・98・2000年の大会の予選・本選合計52試合中、51試合に出場するほど不動の選手となった。地味ではあるがここぞという時に決めるロングシュートは脅威を与えた。96年欧州選手権のブルガリア戦でシュートが上のバーに当たってゴールインしてフィールドに跳ね返ったが、シュートのあまりの早さでレフェリーも確認がとれず、ノーゴールになった場面は印象深い。クラブでは海外に移籍してからも主力として活躍して、特にドイツではルーマニア選手の能力の高さを証明した。98年こそケルンでクラブ史上初の2部降格を経験してしまったが、新監督のベルント・シュスターの下、立ち直りの光明を見つけられないでいるチームに『私はルーマニア代表だ。2部リーグなんぞで我慢できるか!』という名言を残してヴォルフスブルグに移籍した。2002年にはチームに新加入したアルゼンチンの司令塔ダレッサンドロにはじき出される形で国内復帰となったが、ステアウアではその経験からリーダーシップを発揮して、低迷を続ける強豪を久しぶりのリーグ優勝に導いた。ステアウアの契約延長を蹴って加入した昇格クラブのCFRクルージュでも弱小クラブに勝者のメンタリティーを植え付けインタートトカップ及びリーグで快進撃を続けた。代表では2002年W杯予選頃から衰え始めた黄金世代の同僚を尻目に彼だけはまだまだ十分にやれることを証明し続け、若いチームにおいて精神的支柱として支えたが、04年欧州選手権予選後に後進に譲る形で惜しまれつつ代表引退を表明した。しかし2006年W杯欧州予選であいかわらずスタイルの定まらないヨルダネスク代表がチェコ戦敗北、最下位アルメニア戦によもやの引分を喫してピンチに陥ると、ピトゥルカ監督の復帰と共に自身も請われて代表復帰した。世代交代を犠牲にしたこの起用に疑問の声もあったが、ムンテアヌも8連続スタメンして代表も復調し、9月のチェコ戦ではルーマニア史上最高の英雄ゲオルゲ・ハジの125キャップの記録を抜き、歴代1位に躍り出た。「ルーマニアの鉄人」と言えばこの人。(2006.10.23更新B)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
87-88 CSMレシツァ B5
88-89 FCオルト 31-2 A8
89-90 FCオルト 2-0 A17
インテル・シビウ 14-0 A6
90-91 インテル・シビウ 33-7 A4
91-92 ディナモ・ブカレスト 33-12 A1 4-1(4G)
92-93 ディナモ・ブカレスト 34-15 A2 4-0(4G)
93-94 サークル・ブルージュ(BEL) 34-7 A12
94-95 サークル・ブルージュ(BEL) 31-5 A15
95-96 1FCケルン(GER) 33-4 A12
96-97 1FCケルン(GER) 31-4 A10
97-98 1FCケルン(GER) 33-3 A17
98-99 1FCケルン(GER) 32-7 B10
99-00 ヴォルフスブルグ(GER) 22-3 A7 3-0(6G)
00-01 ヴォルフスブルグ(GER) 24-3 A9
01-02 ヴォルフスブルグ(GER) 33-3 A10
02-03 ヴォルフスブルグ(GER) 18-2 A8
03-04 ヴォルフスブルグ(GER) 4-0 A10
ステアウア・ブカレスト 5-1 A2
04-05 ステアウア・ブカレスト 28-1 A1 11-0(2+10G)
05-06 CFRクルージュ 21-0 A5
06-07 CFRクルージュ 5-0 A3
アルジェシュ・ピテシュティ 3-0 A16
07-08 ヴァスルイ 16-0 A
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1994年ワールドカップ出場(5試合)・1998年ワールドカップ出場(4試合)
1996年欧州選手権出場(3試合)・2000年欧州選手権出場(4試合・1得点)
ルーマニア最優秀選手:
1991年・5位、92年・3位、95年・4位、96年・5位、2000年・4位
ルーマニアリーグ得点王:92/93シーズンにランキング3位(15得点)

確かなテクニックでドイツで一時代を築いた皇帝
 ヨヌーツ・ルペスク - Ionut Angelo Lupescu
86-90 ディナモ・ブカレスト 98-11
90-96 B・レバークーゼン(GER) 138-3
96-98 ボルシアMG(GER) 44-7
98-00 ディナモ・ブカレスト 61-14
00-01 ブルサスポール(TUR) 9-2
00-02 ディナモ・ブカレスト 24-0
01-02 アル・ヒラル(S.A.) 3-1
1968年12月9日生まれ 初代表:1988年2月3日イスラエル戦
74試合−6得点 ラスト:2000年10月7日イタリア戦
80年代にディナモ・ブカレストで頭角を現し、90年の国内2冠と欧州戦ベスト4にしてから民主化後にブンデスリーガで8シーズンも活躍したMF。ドイツではリーグ優勝は味わえなかったが、94年カップ・ウィナーズ・カップにベスト8、翌年UEFAカップでベスト4に進出したチームで全試合出場。90年、94年、96年大会に予選共にほぼ全試合に出場した、いわゆる黄金世代不動の選手で初期は左のDFだったが、セリメシュが台頭してからはラインをあげてMFになった。地味ではあったが守備システムの駒としての役割は重要で、シンプルなパスさばきはセンスを感じさせた。98年W杯ではヨルダネスク監督に反旗を翻したため出場していないが、その後ディナモに移籍し司令塔のポジションで国内2冠に貢献し皇帝と呼ばれた。イエネイ政権になった2000年欧州選手権には予選・本選とも出場した。90年前半に何度かルーマニア最優秀選手にランキングされている。現在はサッカー協会のジェネラルディレクターを務めている。(2008.11.6更新A)

短期間ながらルーマニアカウンターサッカーの申し子
 イリエ・ドゥミトレスク - Ilie Dumitrescu
  1969年1月6日生まれ   174cm 64kg   通算代表歴:62試合−20得点
  初代表:1989年4月26日ギリシャ戦   最終代表:1998年6月26日チュニジア戦
90年代黄金期のルーマニアカウンターの最重要選手でサイドの斬り込み隊長。ステアウアで88/89シーズンにリーグ・カップ2冠とチャンピオンズカップ準優勝に貢献したことから代表デビューし、90年W杯にも2試合出場出場。さしたるインパクトは残せなかったものの、クラブで92/93シーズンに得点能力が開花して24ゴールを記録して得点王に輝くと共に4シーズンぶりのリーグ制覇を牽引し、翌年も得点ランキング2位となる17得点で見事に2連覇を達成した。そしてこの年の94年ワールドカップ欧州予選でも7試合4得点を記録して2大会連続出場の立役者に。本選ではハジとのコンビでセンセーショナルを巻き起こし、テクニックもありゴール前で合わせるのが上手いため、ラドチョウとの2トップやラドチョウ不在時の1トップも器用にこなした。特にトーナメント1回戦では優勝候補アルゼンチン相手に2得点1アシストの活躍で大番狂わせを演じて見せた。大会後は活躍が認められて海外クラブに移るが、目立った活躍はできず怪我にも悩まされた。その影響で期待されていた96年欧州選手権は辞退。そして徐々に消えていった。一旗挙げようと移籍したメキシコリーグでも途中出場が多かったが、98年W杯は驚きの召集を受けてグループリーグのチュニジア戦に出場。そしてこれが彼の最後の代表キャップとなった。晩年は評価を落としたが、あの94年W杯の怒濤の快進撃はもはや伝説と化し、2得点を記録した彼もやはりスターであることは間違いない。(2005.8.12更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
86-87 ステアウア・ブカレスト 2-0 A1
87-88 FCオルト 32-1 A15
88-89 ステアウア・ブカレスト 29-8 A1 7-3(9G)  
89-90 ステアウア・ブカレスト 25-7 A2 4-0(4G)
90-91 ステアウア・ブカレスト 25-6 A2 4-2(4G)
91-92 ステアウア・ブカレスト 30-9 A2 6-2(6G)
92-93 ステアウア・ブカレスト 29-24 A1 6-2(6G)
93-94 ステアウア・ブカレスト 25-17 A1 4-2(4G)
94-95 トテナム・ホットスパー(ENG) 13-4 A7
セビージャ(SPA) 13-1 A5
95-96 トテナム・ホットスパー(ENG) 5-0 A8
ウエストハム(ENG) 3-0 A10
96-97 ウエストハム(ENG) 7-0 A14
アメリカ(MEX) 13-1 A3
97-98 アトランテ(MEX) 27-3 A1
98-99 ステアウア・ブカレスト 7-3 A3 2-1(4+0G)
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(2試合)・1994年ワールドカップ出場(5試合2得点)・1998年ワールドカップ出場(1試合)
ルーマニア最優秀選手:
1992年・5位、93年・2位、94年・5位
ルーマニアリーグ得点王:92/93シーズン

ブラジルリーグも経験した中盤の仕事人
 ニカ・パンドゥル - Basarab Nica Panduru
88-91 CSMレシツァ -
90-95 ステアウア・ブカレスト 131-34
95-96 ベンフィカ(POR) 15-3
95-96 ヌシャーテル(SWI) 7-0
96-98 ベンフィカ(POR) 34-4
98-00 FCポルト(POR) 6-0
1999 ポルト・アレグレ(BRA) -
99-00 サルゲイロス(POR) 7-1
00-01 FCポルト(POR) 0-0
1970年7月11日生まれ 初代表:1992年2月12日ギリシャ戦
22試合−1得点 ラスト:1996年12月14日マケドニア戦
守備的であればチーム安定させた仕事人でステアウアの92/93シーズンからの3連覇達成時のスタメンMF。その後ポルトガルの強豪ベンフィカに移籍すると伸び悩み、半年でレンタルに出されるが、復帰後は優勝争いするチームにあってその役割を果たした。97年にカップ・ウィナーズ・カップでベスト8進出、99年はポルトでチャンピオンズリーグ出場とリーグ制覇のメンバーに。代表では94年W杯2試合を含む22キャップを誇るが、そのほとんどが試合終盤にFWに代えて守備を固める時の交代要員にしかなかった。また1999年にはルーマニア選手としてはめずらしくブラジルのクラブに在籍した。(2005.10.19更新A)

計算できる得点力を発揮した隠れ実力者
 コンスタンティン・バルブ - Constantin Barbu
92-97 アルジェシュ・ピテシュティ 146-55
96-97 水原三星(KOR) 6-2
97-99 アルジェシュ・ピテシュティ 35-34
98-00 ラピド・ブカレスト 14-9
99-01 ヌマンシア(SPA) 42-6
00-01 ラピド・ブカレスト 9-5
01-02 ヌマンシア(SPA・B) 12-2
02-03 アルジェシュ・ピテシュティ 2-0
03-04 ダチア・ミオヴェニ(B) 17-8
1971年5月16日生まれ 初代表:1997年9月6日リヒテンシュタイン戦
3試合−2得点 ラスト:1998年4月8日ギリシャ戦
FCアルジェシュで6シーズンにわたって安定した得点力を見せたストライカーで、97/98シーズンには得点王に輝く活躍でアルジェシュのリーグ3位躍進に尽くした。翌年は後半にラピドに移籍して得点ランキング2位の21得点(ラピドでは11試合8得点)でクラブ32年ぶりのリーグ優勝に貢献した。その後スペインに渡り、最初のシーズンこそスタメンの座に君臨したが、明らかにプレースタイルを崩しており、クラブも2部へ降格。代表ではアルジェシュでの絶頂期の98年ワールドカップ予選リヒテンシュタイン戦にデビューし得点も決めるが、すべてA・イリエとモルドヴァン不在時の交代要員でしかなかった。しかし出場時間合計93分で2得点を決める決定力は立派。(2005.10.19更新)

シンプルなレジスタと地味な屋台骨を兼務したスペインを愛するバランサー
 コンスタンティン・グルカ - Constantin Galca
89-91 アルジェシュ・ピテシュティ 35-2
91-96 ステアウア・ブカレスト 148-24
96-97 マジョルカ(SPA・B) 34-13
97-01 エスパニョール(SPA) 122-15
01-03 ビジャレアル(SPA) 38-1
02-03 レアル・サラゴサ(SPA・B) 24-0
03-06 アルメリア(SPA・B) 93-4
1972年3月8日生まれ 初代表:1993年9月22日イスラエル戦
68試合−4得点 ラスト:2005年3月30日マケドニア戦
94年W杯後に急成長を遂げた守備的MF。繊細なタッチと正確な左足でハジのサポート役の司令塔でプレースタイルはオランダ代表のヨンクに似ている。クラブではステアウアで4連覇のあとスペインのエスパニョールに移籍し、核として欠かせない存在になった。その後も安定した活躍を見せたが、チームの財政難のあおりを受けて、自由契約選手となってビジャレアルへ入団。そこでも同じ理由で2部のサラゴサにレンタルされてからは調子を崩した。98年のピーク時にはフランス代表のデシャンと天秤をかけられ、ACミラン、インテル、フィオレンティーナ、チェルシーらが獲得に乗り出すほど才能を認められていた。96年以降の代表ではほぼ全試合にスタメン出場しているが、2001年に代表引退している。その後1年半ぶりに代表復帰を果たすもすでにコドレア、ギオアネの存在がクローズアップされていたため、それほど歓迎されるものでもなかった。現在までの長い生活でスペインをいたく気にいっており、自身のスペイン国籍取得を目指してがんばっている。また余談ではあるが、名前のGの後のAはルーマニア特有の発音であるAの上に三角の線を付けたもののため、正式発音ではグルカ。しかし国際表記では普通のAと判断されていたため長らくガルカとして知られている。(2005.10.19更新A)

小さくまとまったルーマニア伝統のフリーキックアーティスト
 ルチアン・マリネスク - Lucian Cristian Marinescu
91-96 CSMレシツァ(B) 97-26
97-98 ラピド・ブカレスト 33-13
98-99 サラマンカ(SPA) 10-0
99-00 ファーレンセ(POR) 27-11
00-02 サラマンカ(SPA・B) 38-4
02-04 アカデミカ・コインブラ(POR) 51-8
04-05 デポル・チャベス(POR・B) 30-4
05-07 アクラティトス(GRE・B) 27-1
07-08 FCサチェレ(B) 5-0
07-08 ペトロルル・プロイエシュティ -
1972年6月24日生まれ 初代表:1996年3月27日ユーゴスラビア戦
8試合−無得点 ラスト:1998年6月30日クロアチア戦
長身で守備力にも定評のあった攻撃的MF。長く2部のレシツァでスタメンとして活躍した後、25歳で加入したラピド・ブカレストで1部デビューした苦労人。リーグ優勝には一歩届かなかったが、カップ制覇の勢いそのままに98年W杯直前のパフォーマンスによって最終メンバーに選ばれた。本選にもサブではあるが全4試合に出場し、海外移籍を成功させた。サラマンカではさほど活躍を見せないままクラブは2部降格。ポルトガルリーグは相性がいいのかコンスタントに出場し、アカデミカでは司令塔として中堅クラブを牽引した。FKが得意でいくつものゴールを生んでいる。(2005.10.19更新A)

ハジの貴重な交替選手として存在意義を示した小兵
 オビディウ・ストゥンガ - Ovidiu Stinga
90-95 ウニベルシタテア・クライオバ 116-29
95-97 サラマンカ(SPA) 50-14
96-01 PSV(HOL) 53-7
01-02 ディナモ・ブカレスト 18-0
02-04 ウニベルシタテア・クライオバ 25-4
04-05 ヘルモント(HOL・B) 19-1
05-06 ウニベルシタテア・クライオバ 27-5
06-07 ウニベルシタテア・クライオバ 5-0
1972年12月5日生まれ 初代表:1993年1月31日エクアドル戦
24試合−無得点 ラスト:1999年10月9日リヒテンシュタイン戦
クライオバ時代に高い得点能力とパスセンスを持つMFとして注目された選手で、サラマンカの最初のシーズンも11得点を記録している。代表では無得点だったが、すべて交代要員としての限られた出場時間ではしかたないことか。94年W杯、96年欧州選手権、98年W杯のビッグコンペティションにはメンバーに選ばれて、サブとして出場も果たしていたが、98年W杯のイングランド戦で74分に交代出場しながら84分に負傷退場してからは、所属するPSVは5シーズンで3回リーグ優勝に輝くなかで、2シーズンまるまるリハビリに費やすなどケガでコンスタントに活躍を残せなかった。その後は国内に戻り、ディナモでリーグ優勝の後にウニベルシタテアでは選手兼監督として強豪復活に奮闘努力している。こちらもグルカ同様に発音の問題で国際表記でスティンガとして有名。(2006.12.4更新A)

過小評価でチャンスは多くなかったもう一人のポペスク
 ガブリエル・ポペスク - Gabriel Popescu
92-95 エレクトロプテーレ 65-0
94-98 ウニベルシタテア・クライオバ 93-15
97-98 サラマンカ(SPA) 15-4
98-99 バレンシア(SPA) 25-1
99-00 ヌマンシア(SPA) 7-1
99-00 ディナモ・ブカレスト 9-0
00-02 ナシオナル・ブカレスト 55-9
2002 水原三星(KOR) 25-6
2003 水原三星(KOR) 31-6
04-05 ナシオナル・ブカレスト 11-1
05-06 JEFユナイテッド(JAP) 7-1
1973年12月23日生まれ 初代表:1996年8月14日イスラエル戦
14試合−1得点 ラスト:1998年6月30日クロアチア戦
広い視野と卓越したパスワークで中盤の多くのポジションをこなせるMF。クライオバでの活躍でセルバンと同じ試合で代表デビューを飾り、その後スペインリーグのサラマンカにさらなる活躍の場を求めた。98年W杯予選ではライバルのシェルバンがスタメンで起用されるなかで、出場した5試合全てが交代出場で限られた時間しか与えられなかったが、安定したプレーぶりで信頼を勝ち取った。シェルバンが結局は最終メンバーに残れなかった一方で、彼はメンバーに選ばれるだけでなく、4試合中3試合にスタメン出場するぐらい成長していった。大会後はスペインのクラブを転々とし、期待されたほどのプレーは見せられなかったが、国内のナシオナルに入団した頃には国内MVP級の活躍で復活をアピールした。時期的に2002年W杯予選メンバーに推す世論の後押しもあったが、ルーマニアにはびこるエージェントと代表監督の様々な関係から、1試合も出場できなかった。ルーマニアがこの大会の本選出場を果たせなかった原因の一つになるほどの問題にまで発展した。韓国リーグの強豪水原三星で10番を背負い司令塔として活躍した後に日本でプレーし、リーグ戦ではインパクトを残せずにいたが、ナビスコカップでは7試合5得点でMVPの活躍をみせてクラブ初の栄冠に輝いた。(2005.10.19更新A)

ラピド黄金期に支持された中盤に欠かせない象徴
 マリウス・マルダラシャヌ - Marius.C.Maldarasanu
91-93 フェレマイル・プロイエシュティ -
93-96 ペトロルル・テレアジェン -
96-98 ペトロルル・プロイエシュティ 47-6
98-03 ラピド・ブカレスト 134-18
02-03 ベシクタシュ(TUR) 3-0
03-08 ラピド・ブカレスト 103-10
07-10 FCブラショフ 51-4
1975年4月19日生まれ 初代表:2000年2月2日ラトビア戦
8試合−無得点 ラスト:2006年11月15日スペイン戦
昔で言う10番タイプだが守備力も問題ないため、中盤フラットの真ん中として活躍するレジスタ。国内1部にデビューしたペトロルルで頭角を現してラピドに加入した初年度にスタメンとしてリーグとカップの2冠制覇に貢献。翌シーズンも安定した力でプレーすると国内選抜で参加した2000年のキプロストーナメントで代表デビューを飾った。この年に行った国内選抜代表戦や非国際Aマッチで代表キャリアを積むが、当確ラインには届かずに徐々に遠くなっていった。その後ラピドでの好調とルチェスクのベシクタシュ監督就任に伴い、レンタルで初の海外進出を果たすが、たったリーグでは3試合の出場にとどまり国内復帰。2004年W杯欧州予選の悪夢のアルメニア戦で代替選手として4年ぶりに代表ユニフォームに袖を通すものの失意の結果となってしまう。しかしラピド内では代えの利かない選手であったことに間違いない。(2005.10.31更新)

コペンハーゲンの悪夢に翻弄されたドイツ2部の流浪人
 ラウレンティウ・レゲカンプ - Laurentiu.A.Reghecampf
94-95 ザンクト・ポルテン(AUS) -
95-96 オツェルル・トゥルゴビシュテ 29-2
96-97 キンディア・トゥルゴビシュテ 20-2
96-99 ステアウア・ブカレスト 51-3
98-99 リテックス・ロベチ(BUL) 14-4
99-00 ステアウア・ブカレスト 22-2
00-05 エネルギー・コットブス(GER) 135-17
04-08 アレマニア・アーヘン(GER) 90-18
08-09 カイザースラウテルン(GER) 2-1
1975年9月19日生まれ 初代表:2003年3月29日デンマーク戦
1試合−無得点 ラスト:2003年3月29日デンマーク戦
右サイドであればDF、守備的MF、攻撃的MF、ウイングまでこなしたユーティリティープレイヤー。まず先に2部ではあるがオーストリアリーグでプレーした稀有な経験を持ち、キンディアで国内1部デビューした。ステアウアに移籍して2連覇に貢献するとそれからは長いドイツ生活が始まる。コットブスでは地味ながらスタメンとして弱小クラブを3シーズンに渡って1部残留に留め、地元では確固たる地位を築いた。03年にはついに降格の憂き目に遭い、翌年には同じく2部のアレマニアに請われて移籍することとなった。代表ではケガ人の穴埋めとしてあの屈辱の大敗を喫した2003年3月の欧州選手権予選デンマーク戦でデビューしたが、ご存知のように老体のポペスクとフィリペスクのお粗末な守備のカバーに奮戦して彼の持ち味はまったく見せることができずに、以後召集されていない。(2005.10.19更新A)

スペインで迎えた円熟のオールラウンダー
 ラウレンティウ・ロシュ - Laurentiu Dumitru Rosu
93-00 ステアウア・ブカレスト 158-45
00-04 ヌマンシア(SPA) 125-29
04-08 レクレアティボ(SPA) 86-16
08-09 カディス(SPA・C) 12-2
1975年10月26日生まれ 初代表:1998年10月10日ポルトガル戦
38試合−5得点 ラスト:2007年6月6日スロヴェニア戦
左サイドのMFが本職だが、DF、FWもこなせるテクニシャンで、緩急自在のドリブルを武器に10代でデビューした初年度からの活躍し、イリエを欠いたチーム状況を支えてステアウアの5連覇に貢献した。代表ではイエネイ政権の重要なコマとなり、その後の2000年欧州選手権にも予選はスタメン、本選はサブのメンバーとして参加。それでも2試合に出場して存在をアピールした。大会後にはスペインに渡り、初年度こそ司令塔としてリーグ9節のレアル戦でハットトリックを決めるなど奮起したが、チームは降格して2年目からはずっと2部でのプレーとなり、代表においても2002年W杯予選に4試合プレーした後の2002年2月のフランス戦から門戸も自然と遠ざかっていった。しかしピツルカ体制の2005年に2部リーグでのハットトリックを含む当時得点王の好調状態でW杯最終予選フィンランド戦に召集され、途中出場ではあるも3年半ぶりの代表復帰を果たした。06年は5年ぶりの1部リーグでクラブの代えのきかない存在となり、代表でもピツルカ政権では重宝されて、欧州選手権予選においてスタメンで活躍するが、ケガで後半を棒にふり、本戦メンバーからも外れてしまった。(2008.11.6更新C)

諦めない信念で復活を遂げたディナモの魂
 フローレンティン・ペトレ - Florentin Petre
94-95 ディナモ・ブカレスト 7-1
94-95 UTAアラド 9-3
95-06 ディナモ・ブカレスト 247-42
06-08 CSKAソフィア(BUL) 44-20
08-09 テレク・グロズヌイ(RUS) 36-5
09-10 CSKAソフィア(BUL) 5-1
10-11 ヴィクトリア・ブラネシュティ 10-0
1976年1月15日生まれ 初代表:1998年8月19日ノルウェー戦
54試合−6得点 ラスト:2009年2月11日クロアチア戦
99/00シーズンのディナモ2冠の活躍から2000年欧州選手権のメンバーに選ばれたヤングジェネレーションのひとり。予選からコンスタントに出場を重ね、本選も2試合出場して経験をつませたという点では最も期待されていた。しかしその後に肝臓疾患になり、追い討ちをかけるように2001年の7月に休暇中に電線に釣り竿が引っ掛かり、電気ショックで重体という漫画のようなことが起こり、選手生命は絶たれた様子。と思いきや2年後には不屈の闘志で復帰を果たして03年のカムバック賞を獲得。ディナモのキャプテンとしてチームを牽引する活躍により、復帰してから現在までに03/04シーズンの2冠を含むカップ3度制覇の原動力になった。代表にも2004年2月のグルジア戦で3年半ぶりに代表スタメンに返り咲く。そして世代交代が叫ばれる中で右SHとして代えの利かない存在となり、2008年欧州選手権予選でニコリツァの影に押されながらも、安定したプレーを見せて本戦出場を果たした。小柄でややクラシカルな選手。(2008.11.6更新C)

今もなお語り継がれるディナモの誇り
 カタリン・フルダン - Catalin Haldan
94-95 ディナモ・ブカレスト 3-0
95-96 オツェルル・トゥルゴビシュテ 13-1
96-01 ディナモ・ブカレスト 135-6
1976年2月3日生まれ 初代表:1999年3月3日エストニア戦
8試合−1得点 ラスト:2000年6月3日ギリシャ戦
ディナモが生んだ有能選手で、将来的にはハジの後継者とも噂されていた若き闘将。ディナモ・ユース出身でひとまず2部で経験を積んだ後に呼び戻されて、6シーズンをディナモでプレー。ボランチの位置から的確なパスと闘志溢れる守備で常に味方を鼓舞し続けた。99/00シーズンにはキャプテンとしてクラブの2冠に貢献。代表では2000年欧州選手権のメンバーだったが、出場は無し。その2ヶ月後の8月、2部リーグのオルテニツァとのプレシーズンマッチ中にピッチに倒れ、そのまま帰らぬ人に。享年24歳。以前も試合中に気絶するなどしていたので、その当時の検査に疑問が持たれている。また現在もディナモ出身のコントラ、ニクラエ他の選手たちにはその彼の意思が引き継がれている。8年後に明るみに出た事実として、悲劇の数日前には当時セリエAのレッチェとの間にすでに契約交渉がまとまっており、ディナモの若き主将として絶大な支持を得ていただけことから、極秘裏に進まれていたらしい。(2005.10.9更新)

ヴァレンシアの亡霊が付きまとった不遇の人生
 デニス・シェルバン - Denis Georgian Serban
93-96 ファルル・コンスタンツァ 45-6
96-99 ステアウア・ブカレスト 42-15
98-99 バレンシア(SPA) 10-1
99-00 ビジャレアル(SPA・B) 13-4
00-01 エルチェ(SPA・B) 35-11
01-02 バレンシア(SPA) 3-0
01-02 ラピド・ブカレスト 12-2
02-03 コルドバ(SPA・B) 20-4
03-04 ポリ・エヒド(SPA・B) 13-1
03-04 P・A・プロイエスティ 8-1
04-05 ディナモ・ブカレスト 3-0
04-06 PAEラリッサ(GRE) 37-1
06-07 ディナモ・ブカレスト 7-2
06-07 アストラ・プロイエシュティ(C) -
1976年5月1日生まれ 初代表:1996年8月14日イスラエル戦
13試合−1得点 ラスト:2001年4月25日スロバキア戦
18歳でデビューしたコンスタンツァで注目され始めて、ステアウアに移籍してからはそのリーグ2連覇に貢献した左サイド及び守備的MF。当時黄金世代が占めていた代表でも久々の期待の若手ホープとして、国内外で話題になっていた。98年W杯予選にも数試合出場して本選は確実視されていたが、リーグ戦でチームメイトのゴールを祝福していた時にはしゃぎすぎて足をケガしてしまい4ヶ月の離脱で本戦メンバーにはエントリーされなかった。そしてその後に移籍したバレンシアと5年契約が微妙に彼の人生を狂わせていった。初年度こそ10試合に出場できたが、監督がラファエル・ベニテスに代わると完全に構想外となり、スペイン2部クラブをレンタルで転々とすることになり、自然と代表からも忘れ去られていった。最後の代表出場は2001年の4月であり、2003年のユーロ予選デンマーク戦、リトアニア戦に驚きの召集はあったが結局出場はならなかった。その後は国内に戻りベテランとして期待されたが、ケガが重なり思うような出場機会は得られなかった。ギリシャのラリッサでは10番として1部昇格させ、中堅位に押し上げることに成功。ラストシーズンのディナモではステアウアとのダービーで終了直前に投入されると、全盛期を彷彿とさせるテクニックで3人を抜き去りそのまま強烈な決勝点を決めた。(2007.5.21更新C)

己の放漫な態度が災いとなり王様になれなかったマエストロ
 エウジェン・トリカ - Eugen Trica
94-99 ウニベルシタテア・クライオバ 89-14
98-03 ステアウア・ブカレスト 130-21
03-05 リテックス・ロベチ(BUL) 54-22
05-06 マッカビ・テルアビブ(ISL) 10-1
05-07 CSKAソフィア(BUL) 33-17
07-09 CFRクルージュ 46-15
08-09 アノルソシス(CYP) 12-2
09-10 ウニベルシタテア・クライオバ 17-2
10-12 コンコルディア・キアイナ 16-4
1976年8月5日生まれ 初代表:1999年3月3日エストニア戦
4試合−無得点 ラスト:2007年11月17日ブルガリア戦
その資質は十分ながらピッチ内外で攻撃的性格を大いに発揮して注目を集めた気まぐれな天才MF。ウニベルシタテアのユース部門出身で1995年のリーグ終盤にトップチームに昇格すると翌年からいきなりレギュラーとして3シーズン、ユース代表としても20試合6得点と順調に過ごす。翌98/99シーズンの前半戦途中に国内の雄、ステアウアに迎えられるとそこでもスタメンを奪取して21試合に出場。翌年からもステアウアのスタメンの中でも非常に貴重な選手となり、司令塔として決定的なアシストだけではなく、素晴らしいゴールをも得意とし、両足共に巧みなテクニックで相手DFを出し抜いた。クラブとしてもレジェンドのハジに似たプレースタイルにより、国内が求めていた「ニュー・ハジ」に最も近い存在となった。しかしピッチ外での粗野な言動や行動も悪い意味で大いに人々の注目を集めた。01/02シーズンだけでも2度チームメイトを殴って罰金処分になり、その1つはポーカー中に機嫌が悪くなりやつあたりでという子供じみたものであった。ステアウアでは王様として4年半を過ごしたものの結局はリーグ優勝は1度だけでクラブ全体の力までには影響させることはできなかった。またハジの後継者探しに焦るこの時代の代表においても1999と2000年の親善試合2試合に起用されただけで戦力とは見られなかった。ステアウアでの能力の限界と若がえり方針により、03/04シーズンからブルガリアに移った。2シーズン連続で4位とUEFAカップ圏内で終わったが、個人では2季連続で11得点を記録して得点能力においては磨きをかけた。それが同国の強豪CSKAソフィアの目に留まるとイスラエルを経由して入団。2シーズン目の06/07もまた惜しくもリーグ2位となったが、得点ランク3位となる16得点を記録して司令塔としても大いに評価された。また同僚のF・ペトレも10得点していたことから、同時期にドイツのコットブスで活躍していたSe・ラドゥ&V・ムンテアヌ同様に「ゴールの双子」としてブルガリアで広く知られるようになった。期待された翌シーズンは契約問題で揉めてケンカ別れになり、国内の新興金満クラブとして実力も付けてきていたCFRに入団。大金で各国の無名実力者を寄せ集めたクラブの中で唯一ルーマニア人として最後までスタメンを守り抜くだけでなく、その求心力と自身の13ゴールでこのシーズンのリーグとカップの2冠を制した最大の功労者となった。その第2の全盛期により、2007年の欧州選手権予選ベラルーシ戦に7年ぶりというブランクで復帰した。そこから戦力としても計算できるレベルにあったが、ケンカ別れしたブルガリアとの決戦前後で執拗な舌禍や大人になりきれない性格から、規律を重視するピツルカ監督政権には不向きとされ本戦エントリーはされなかった。しかしクラブレベルでは念願のチャンピオンズリーグ本戦に出場し、これで満足したのかキプロスに選手生命の終焉を目指して旅立っていった。ちなみに奥さんは代表レジェンドのイリエ・バラチの娘である。(2009.2.21更新)

30歳になってから復活も代表には遅すぎた戦犯
 ボグダン・マーラ - Bogdan Ion Mara
96-98 インテル・シビウ(B) 39-3
98-99 ディナモ・ブカレスト 2-1
98-99 ファルル・コンスタンツァ 2-1
99-00 アルジェシュ・ピテシュティ 25-5
99-01 ディナモ・ブカレスト 8-2
00-01 アルジェシュ・ピテシュティ 27-9
01-03 アラベス(SPA) 34-0
03-04 天津泰達(CHI) 29-2
04-05 ポリ・エヒド(SPA・B) 23-1
05-06 ラピド・ブカレスト 4-0
05-06 スタル・アルチェフスク(UKL) 11-2
06-07 UTAアラド 18-6
06-09 ウニレア・ウルズィチェニ 61-13
08-10 CFRクルージュ 30-3
09-10 イラクリス(GRE) 39-6
11-12 スコダ・クサンシ(GRE) 4-0
12-13 UTAアラド -
1977年9月29日生まれ 初代表:2000年2月2日ラトビア戦
11試合−2得点 ラスト:2009年10月15日フェロー諸島戦
得点こそ少なかったが左サイドウイング及びFWとしてチャンスメーカーに徹した切り込み隊長。2部のシビウで活躍しディナモに拾われ、後半戦を8試合プレーした99/00シーズンに2冠のメンバーになるも主力にはなりきれず、主にレンタル先のFCアルジェシュで2度にわたり安定したプレーを見せた。アラベスへは当時大活躍をみせたルーマニア代表のコントラがACミランに去るということで、再度ルーマニアンのテクニックにあやかろうとディナモのMFアドリアン・ミハルチェアをスカウトしに来ていたアラベスのスカウトが観戦していたディナモ対アルジェシュ戦で古巣ディナモ相手に活躍したことから急転して入団が決まったといういきさつがある。しかしコントラの後釜というプレッシャーの上にさほど活躍できずに出場機会も少なかった。一時はベシクタシュやガラタサライへの移籍も噂されていたが、徐々に消えていき、中国リーグとスペイン2部が定位置となった。しかし国内に復帰してからはUTA、ウニレア等戦力的には乏しいと言われるクラブの中で攻撃のタクトを振って復活を遂げる。特にウニレアでは07/08シーズンに5位、今季は半年でクラブを去ることになったが、前半戦を2位と牽引した。代表ではドゥミトル、ニクラエ、マルダラシャヌらと共に2000年のキプロストーナメントでデビューしたが、結局は国内選抜レベルの親善試合でしかチャンスが与えられず、しかもほとんどが途中出場だった。しかしクラブでの好調が2009年のラズヴァン新体制でスタメンの機会が与えられ、8年ぶりに復帰。しかし若返りこそがラズヴァンに託された使命にもかかわらずの起用に懐疑の目が向けられるきっかけとなり、その後まったく活躍できない選手を使い続けるといった悪癖の第1号となった。結局は代表11試合までキャップを伸ばしたが、それらしいことは何一つしなかった選手と言っていい。(2011.6.18更新D)

キングダムサッカーでのみ華を咲かせる古きファンタジスタ
 マリアン・アリウツァ - Marian Aliuta
95-96 ステアウア・ミズィル(B) 14-4
96-97 キンデア・トゥルゴビシュテ 17-2
96-97 グロリア・ビストリツァ 12-0
97-98 ファルル・コンスタンツァ 25-2
98-00 FCシェリフ(MOL) 26-3
99-02 シャフタル・ドネツク(UKL) 47-1
02-05 ステアウア・ブカレスト 50-5
04-05 ラピド・ブカレスト 10-1
04-05 全南ドラゴンズ(KOR) 0-0
05-06 メタルール・ドネツク(UKL) 23-2
2006 長春亜泰(CHI) 13-1
06-07 イラクリス(GRE) 11-3
07-08 FCUポリ・ティミショアラ 23-1
08-09 FCヴァスルイ 11-0
08-10 ネフツチ・バクー(AZE) 24-3
10-11 V・ブラネシュティ -
1978年2月4日生まれ 初代表:2001年2月26日ウクライナ戦
5試合−無得点 ラスト:2008年9月10日フェロー諸島戦
顔は老けているが、近年の国内最高のファンタジスタとして知られたMF。元々はステアウアユース出身だが、18歳の時にキンディアで1部リーグデビューしてから低位をさまようクラブを転転とする日々をおくった。しかし個人の評価はレベルアップさせていったため、若干20歳でモルドバリーグに活躍の場を求め、2年後にはウクライナの強豪シャフタルに加入するまでに成長した。シャフタルでは主力としてチャンピオンズリーグに9試合出場、01/02シーズンにはクラブ初となるリーグ優勝をも引き寄せる活躍を見せて、翌年には三顧の礼でステアウアに迎え入れられることとなった。初年度からその抜群の足元のテクニックから見せる芸術的なパスでアシストを量産して、優勝こそ逃すもリーグMVPに輝く活躍で一躍時の人に。この頃にはピツルカの拒否で実現ならずも、シュツットガルト、カイザースラウテルン、PSVなど国内にとどまらず海外からも注目されていた。しかし加入3シーズン目の2004年にはディカが入団してステアウアがトップ下を置かないフォーメーションに移行したためその輝きは失われていくことに。現在は再びウクライナで再起をかけている。代表では2001年と2003年の共にウクライナ戦に出場してここでもウクライナとの深い縁を見せた。ちなみに全盛期の2004年欧州選手権予選のボスニア戦とノルウェー戦で満場一致で国内からの召集一番手となったが、結局はあの保守的なヨルダネスク監督により、出場する機会は与えられなかった。ピツルカ政権では主力ではないが、ケガの代替として召集され出場機会を得ていた。(2008.11.6更新A)

凡庸の域を出なかったラッキーボーイ
 フローリン・ショアヴァ - Florin Costin Soava
96-98 エレクトロプテーレ(B) 58-4
98-00 エクステンシブ・クライオバ 46-10
99-01 ウニベルシタテア・クライオバ 37-0
01-04 ラピド・ブカレスト 63-2
04-05 スパルタク・モスクワ(RUS) 33-1
05-06 クリリア・ソヴィエトフ(RUS) 25-2
07-08 スパルタク・モスクワ(RUS) 18-0
2008 FKヒムキ(RUS) 14-1
08-10 ウニベルシタテア・クライオバ 29-0
09-12 アーセナル・キエフ(UKR) 38-2
12-13 アーセナル・キエフ(UKR) -
1978年7月24日生まれ 初代表:2000年12月5日アルジェリア戦
22試合−無得点 ラスト:2006年5月27日北アイルランド戦
グルカの代表引退、コドレアの不可解なポジション起用、シェルバンの不振、ギオアネの召集拒否により、そのポジションをまかされるようになった守備的MF。クラブでは5シーズンを3つのクライオバのチームでスタメンとして安定したプレーを見せ、ラピドでは確固たる地位を築き、02/03シーズンのリーグ優勝を支えた。プレースタイルは派手ではないが、着々とミスなく仕事をこなすタイプである。スタメン出場が半分にも満たず、正直言って代えの利かない選手ということでもない。コドレア、ギオアネが代表に定着していた頃は守備的MFは数年は安泰だなと感じたし、その二人がヨルダネスクの愚行によって離脱したためにどうしても棚ボタ的な感覚があるのは否めない。2004年欧州選手権予選では序盤でスタメンを務めたが、第4戦チェコ戦では決勝点となるPKを与えてしまい、メディアから戦犯扱いされたことを理由に代表引退している。その後はピツルカの説得により引退翻意しているが、もはや戦力は充実しており、居場所はなかった。07/08シーズンにはスパルタクで左サイドバックとしてプレーし、UEFAカップにも4試合出場している。(2008.11.6更新B)

ボルドーで学んだ早熟の天才
 エリック・リンカル - Eric Augustin Lincar
97-02 ステアウア・ブカレスト 105-7
02-03 パナシナイコス(GRE) 10-0
03-04 アクラティトス(GRE) 23-2
04-06 アムカル・パーム(RUS) 31-2
06-07 ナシオナル・ブカレスト 16-0
07-08 コンコルディア・キアイナ(B) -
08-09 プレファブ・モデル(B) -
1978年10月16日生まれ 初代表:1999年4月28日ベルギー戦
5試合−無得点 ラスト:2000年12月8日アルジェリア戦
リーグデビューする前から各世代の代表に選ばれ、その才能が認められボルドーのフットボールアカデミーで学んだ有望株。高いスキルと精力的に動き回るMFでカウンターアタックでの彼のピンポイントパスはそのまま決定機につながることも多かったレジスタタイプの選手。代表では2000年欧州選手権前の親善試合でデビューして、確実と言われていたカタリン・ムンテアヌを差し置いて最終メンバーに選ばれるも、出場機会は無かった。ステアウアでは5シーズン在籍して2度のリーグチャンピオンに貢献。01/02シーズンは当時のピツルカ監督にサテライト送りにされたが、後半戦に復帰して翌年にはギリシャの強豪パナシナイコスに入団。当初こそは起用されていたが、ケガで離脱してしまう不運にまみれる。ベスト8まで進出したUEFAカップでも1,2戦にスタメンするも、あとはメンバーにも登録されない長い時期を経て、最終戦に90分から出場ということが移籍の失敗を表していた。(2007.10.26更新A)

身の丈に合ったクラブで不動をキープし続けたレジスタ
 ミハイ・タララケ - Mihai Tararache
93-95 グロリア・ビストリツァ 7-0
94-98 ディナモ・ブカレスト 87-7
98-04 グラスホッパー(SWI) 142-10
04-06 FCチューリヒ(SWI) 29-2
05-10 デュイスブルグ(GER) 103-10
1978年10月25日生まれ 初代表:2001年8月15日スロヴェニア戦
4試合−無得点 ラスト:2005年8月17日アンドラ戦
ハードタックルと芸術的なパス能力を付せ持つ守備的MFで、グラスホッパーでは深いポジションから攻撃をコントロールした現代的レジスタ。強いて言えば強烈なミドルを持つも得点が少ないことと、警告をもらいすぎるで大事な試合に累積で出れなくなることか。国内のディナモで活躍していた頃はU-21のレギュラーとしても知られていてすでにフル代表でも通用するという保障つきのレベルではあったが、スイスリーグに移籍してから若くしてチームの柱になり2度のリーグチャンプに貢献するも所詮は弱小リーグと見られて、代表からはお呼びがかからなくなった。現在もたまに召集はあるが出場までにはいっていない。05年冬にはブンデスリーガ最下位デュイスブルグの切札として請われ、ようやくスイスを離れるが、そのまま降格してしまった。しかしどのクラブに所属しても常に代えの効かないボランチとして存在感を見せるため、4大リーグの中堅クラブでその活躍がどれだけ通用するか見たかった。(2006.10.23更新B)

海外挑戦で成功できなかった2000年幻の司令塔
 カタリン・ムンテアヌ - Catalin Constantin Munteanu
96-98 ステアウア・ブカレスト 55-22
98-99 アトレティコ・マドリッド(SPA) 27-3
99-01 サラマンカ(SPA・B) 67-17
01-02 エスパニョール(SPA) 12-1
02-04 アルバセッテ(SPA) 35-1
04-05 レアル・ムルシア(SPA・B) 22-1
05-08 ディナモ・ブカレスト 72-5
08-10 FCブラショフ 61-3
10-12 ディナモ・ブカレスト 56-7
12-13 ディナモ・ブカレスト -
1979年1月26日生まれ 初代表:1998年8月19日ノルウェー戦
17試合−1得点 ラスト:2001年6月2日ハンガリー戦
ステアウアの2連覇を率いた若き司令塔でU-21代表キャプテンとしても絶対的な存在だったMF。2000年欧州選手権予選ではハジ不在時のスタメン司令塔として本選出場に貢献したが、残念ながら本選前にコンディションをくずしてメンバーには選ばれなかった。しかし20代を前にしてスペインの強豪アトレティコに移籍すると1年目は次第点の活躍を見せた。修行のため2部のサラマンカにレンタルされても好調を維持して1部エスパニョール入団を勝ち取るもスタメンの座は遠かった。ここで不遇の時代を過ごしたが、2部のアルバセッテでは入団1年目で昇格に貢献。1部でも左サイドとして復活してスタメンとして残留目標のクラブを10位の好成績で終わらせた。ムルシアではまた不遇をかこい、結局はシェルバンと共に若き日の長き5年契約により人生を棒に振ってしまった代表的プレイヤーとなってしまった。(2006.10.23更新A)

決して表舞台に出ないイタリアの苦労人
 ボグダン・パトラシュク - Bogdan Aurelian Patrascu
96-01 スポルツール・スツデンテスク 93-6
00-02 リテックス・ロベチ(BUL) 20-2
01-08 ピアチェンツァ(ITA) 186-2
08-09 キエーボ・ヴェローナ(ITA) 2-0
08-10 パドヴァ(ITA・B) 37-1
10-11 スポルツール・スツデンテスク 13-2
10-12 ディナモ・ブカレスト 19-0
11-12 アストラ・プロイエシュティ 10-2
12-13 ウニベルシタテア・クルージュ -
1979年5月7日生まれ 初代表:2006年2月28日アルメニア戦
2試合−無得点 ラスト:2006年3月1日スロヴェニア戦
長らくイタリアを主戦場としているいぶし銀の守備的MFであるが、2部クラブ所属がほとんどなのでその実力は未知数と言っていいほど知られていないプレイヤー。国内ではデビューしたスポルツールで5シーズンを過ごす。最初のシーズンはギリギリながら残留し、翌シーズンは下位に落ちて2部降格が決定。その後3シーズンを2部で過ごすもほぼ全試合に出場し、落ち着いたプレーに磨きをかけた。移ったブルガリアでは実質1年のプレーで現在まで最初で最後のUEFAカップを経験。弱小ながら3回戦まで快進撃を続けて全6試合に出場した。それを機に01/02シーズンよりセリエAに参戦するも、翌年に降格して5シーズンを2部で中心選手として定着。こんな感じなので代表には縁がなかったが、27歳にしてようやくピツルカ監督がお試し感覚でキプロストーナメントで起用した2試合のみでめでたくキャップを踏んだ。昨季はキエーヴォにレンタルされ久々の1部に戻るも出場機会がなかったため、昇格を狙うセリエCのパドヴァへ決意の入団。後半戦を主力として戦いチームは4位となり、プレーオフでも全4試合プレーし貴重なゴールも上げて昇格の立役者となった。(2009.8.20更新)

熱望されながら尻つぼみに終わった初の帰化選手
 マキシミリアン・ニク - Maximilian J. Stefan Nicu
02-04 SpVggウンターハヒング 23-2
03-04 ロット・ヴェイス・エアフルト 13-0
04-05 TuSコブレンツ 0-0
04-06 ヴェーエン・ヴィースバーデン 48-20
06-07 ヴァッカー・ブルグハウゲン 31-4
07-08 ヴェーエン・ヴィースバーデン 32-6
08-10 ヘルタ・ベルリン(GER) 43-3
10-12 フライブルグ(GER) 27-0
11-12 1860ミュンヘン(B) 15-0
12-13 1860ミュンヘン(B) -
1979年6月4日生まれ 初代表:2009年4月1日オーストリア戦
3試合−無得点 ラスト:2009年9月5日フランス戦
突破力とアシスト能力を武器に左サイドを主戦場とする攻撃的MF。ルーマニア人の両親が移住したドイツで生まれ育ち、幼少の頃はとりたてて目立った才能でもなく、地元のプリエンやローゼンハイムのユースチームで過ごした。18歳になり地域リーグ(3部)のウンターハヒングのユースに移ると5年後にようやくトップチームへ上げられ、2部昇格の原動力に。しかし翌年からはまた3部のチームを転々として、4年後の27歳でやっと2部でプレーすることになった。そこから2年間で遅咲きの成長を見せると、1部のヘルタ・ベルリンから声がかかり、08/09シーズンは不動のスタメンとして左サイドからアシストを量産して、リーグ4位とUEFAカップ出場権獲得の最大功労者となった。この頃にはベストイレブンにも選出されて自然とドイツ代表、そしてルーマニア代表への機運が高まり、メディアあげての争奪戦となっていく。めったに新戦力を求めないピツルカも戦力として召集の意思を固め、本人の意思もあって、両親が移住の際に合法的に放棄したルーマニア国籍が復帰したのに伴い、予選セルビア、オーストリア戦に間に合わせるべく急展開で代表選手となった。しかしながら蓋を開けてみればピツルカの心変わりか、セルビア戦ではベンチ外、オーストリア戦では終了間際の途中出場でたったの6分のプレーで終わる。あれだけのメディアも巻き込んだ大々的な召集キャンペーンにもかかわらず、チャンスを与えなかったこと、この2戦で結局2連敗したことが溜まりにたまったバッシングを強めて、ピツルカ解任のとどめとなった。翌年はヘルタの不調、ニクのケガもあって、結局はベストの状態で代表に出場することは叶わなかった。(2011.6.29更新)

過去のレッテルから脱却して代表に帰り咲いたコンダクター
 ダン・アレクサ - Dan Alexa
98-99 UMTティミショアラ(C) -
98-01 ロカル・ブカレスト 44-2
01-02 フルジェルル・ブラガディル 4-0
01-02 ウニベルシタテア・クライオバ 15-0
02-04 ディナモ・ブカレスト 47-1
04-05 北京現代(CHI) 36-0
05-06 ディナモ・ブカレスト 13-1
06-08 FCUポリ・ティミショアラ 44-1
08-11 FCティミショアラ 82-4
11-12 ラピド・ブカレスト 26-3
12-13 アノルソシス(CYP) -
1979年10月28日生まれ 初代表:2004年5月27日アイルランド戦
6試合−無得点 ラスト:2011年6月18日パラグアイ戦
1ボランチでもその広い視野で攻守に渡って躍動する稀代のバランサーにして、かつて金のために中国に出稼ぎに行ったことで長く代表への門戸が閉ざされた不運な選手。1部デビューはロカル・ブカレスト初年度に昇格に貢献したことから、2年連続経験する。その2年はリーグ下位に沈み、翌年には再度2部のチームに所属してキャリアは遠回りになったと見られたが、半年でウニベルシタテアの戦力として見初められるとトントン拍子でディナモ入団へのキップも掴んだ。1年目にはカップ戦の制覇に終わったが、翌03/04シーズンには絶対不可欠の存在になりMVP級の活躍でリーグとカップの2冠に輝いた。当然のことながらA代表にもデビューし、これからが楽しみな選手となるも、10倍となるサラリーに目がくらんで中国リーグに移籍してしまう。これからの代表の道を自ら閉ざした決断は、代えの効かない選手を失ったディナモサポーターの悲しみと共に大いに失望を買うことに。それでも1年半の契約をまっとうした後の国内復帰時にはステアウアの3倍のサラリーを蹴ってまで、古巣のディナモを選んだことで一気にディナモサポーターのハートを掴む事に成功。しかしすでにロポタンとマルガリテスクといった若手が伸びてきていた時期だっただけにたった1年で戦力外とされ、シュテファン・グリゴリエと共に政治的怨敵としてディナモに敵対心を示していたティミショアラに放出される。そこでの悪意のブーイングに対して黙して語らず、プレーで変えてみせるとの堅い意志どおりに数ヶ月後にはキャプテンとしてチームを鼓舞する姿は最も愛される存在になっていった。そして6年ぶりに代表復帰を果たすとウクライナ戦では2ゴールを決め、引き分けに持ち込む。代表の貴重なサブとしてコンスタントに出場したが、ピツルカ復帰により構想外。(2011.6.18更新A)

若くしてベルギーで開花した早熟のハジU世
 アリン・ストイカ - Alin Stoica
95-97 ステアウア・ブカレスト 1-0
96-02 アンデルレヒト(BEL) 130-23
02-05 クラブ・ブルージュ(BEL) 34-6
04-05 シエナ(ITA) 0-0
04-05 ナシオナル・ブカレスト 6-0
05-06 FCUポリ・ティミショアラ 4-1
06-08 ガン(BEL) 32-2
07-08 ムスクロン(BEL) 5-0
08-09 FCブラショフ 0-0
09-10 ヴォイヴォディナ(SER) 4-0
1979年12月10日生まれ 初代表:1998年3月18日イスラエル戦
12試合−無得点 ラスト:2003年9月6日ルクセンブルク戦
ハジと同じ左利きのゲームメーカーでファンタジーに優れたため、若くして「ハジの後継者」として騒がれた最初の選手。ステアウアで国内公式戦にデビューしてそのまま16歳にしてベルギーに渡り、アンデルレヒトでは子供たちから絶大な人気を誇った。ベルギー代表になる選択肢もあったが、母国ルーマニアへの想いは強く、結局は父親と同じ黄色のユニフォームに袖を通すことを決意した。アンデルレヒト入団後しばらくはベンチだったが、司令のスウェーデン代表ゼッターベリがオリンピアコスに移籍してからはスタメンMFとして99年からのリーグ2連覇に貢献し、ベルギーヤングプレイヤー賞にも選ばれた。この頃にはあのハジも自分の後継者として名指しで指名したほどの存在になり、2000年欧州選手権でイエネイ監督がストイカを呼ばなかったことがベルギーでもルーマニアでも批判の対象となった。その後監督との確執からライバルのブルージュに移ったが、1年目でリーグ優勝の立役者となり、3度目のチャンピオンズリーグも経験。ベルヘイエンなどの屈強なFW陣を操る小さな司令塔の姿は見るものに感動を与えた。しかしその後、度重なるケガで出場機会が激減し、放出される形で降格争い中のセリエAのシエナに移籍。ここでもまったくプレーすることなく国内復帰という残念な結果に。その後ハジ監督就任と共にポリに入団、ベルギーへの再挑戦を図るも若すぎて味わった栄光のプライドを捨てきれず、放漫な態度で問題児とされクラブを転々としている。全盛期にはラツィオ、パルマ、アヤックスが狙っていた有望株だった。(2008.11.6更新B)

陰ながら2008年の大舞台に貢献した傭兵
 アンドレイ・マルガリテスク - Silviu A. Margaritescu
99-00 ラピド・ブカレスト 11-0
00-02 トラクトルル・ブラショフ(B) 51-7
02-03 オリンピア・サトゥマーレ(B) 25-0
03-04 ウニレア・フォクシャニ(B) 25-3
04-08 ディナモ・ブカレスト 106-5
08-09 テレク・グロズヌイ(RUS) 32-0
09-11 ディナモ・ブカレスト 23-0
11-12 CSミオヴェニ 16-0
12-13 CSミオヴェニ -
1980年1月1日生まれ 初代表:2006年9月6日アルバニア戦
3試合−無得点 ラスト:2007年11月21日アルバニア戦
遅咲きながら必要な時にその能力を惜しみなく代表のために披露した守備専任の仕事人。元々はアルジェシュのユース組織に属していたが、当時のミルチェア・ルチェスクに見出されてラピドでデビュー。しかし若さゆえ安定感がなく、翌年からは4シーズンにおいて2部のチームが主戦場になる。しかしここで腐らずシーズンの多くを主力として経験を積んだことで04年にディナモに拾われて1部に復帰。ディナモでも攻撃的クラブにあってその守備的フィルターを一手に引き受けて奮迅する姿は玄人目には評価され、06/07シーズンのリーグ制覇の陰のMVPと推す者も少なくない。代表では3試合すべて欧州選手権予選で召集3回出場3回と守備的MF大量離脱ピンチでのパートタイマーの傭兵としての割り切った起用法であったが十分にその役割をこなした。その予選突破の貢献から他の選手同様にトライアン・バセスク大統領から勲章を授けられている。残念ながら傭兵としての運命で本戦前に本来の代表ポジション選手が復帰してきた時には召集すらされなかった。代表デビューが28歳と遅く、すでにキラ星のごとく輝く若手が台頭してきたことも後押しして、クラブでもロポタンの活躍が目覚しく、ステップアップとしてロシアの辺境クラブであるテレク・グロズヌイに同じ立場のF・ペトレ、D・パンクらとともに移籍して海外生活を謳歌した。代表レベルとしたら意見は分かれるかもしれないが、8年ぶりの大舞台出場に貢献した一人として、またあまりにはっきりとした傭兵ぶり、そしてその個人的技量の中でチャンスをモノにした苦労人として気に入っている選手のため今回リストアップ。(2009.2.24更新)

若き日から請われ続けたキエフの小柄な司令塔
 フローリン・チェルナト - Florin Lucian Cernat
98-00 オツェルル・ガラツィ 36-5
99-01 ディナモ・ブカレスト 22-3
00-07 ディナモ・キエフ(UKL) 126-27
07-08 ハイデュク・スプリト(CRO) 28-8
08-09 ディナモ・キエフ(UKL) 3-1
09-10 ハイデュク・スプリト(CRO) 25-1
10-12 カラビュクスポル(TUR) 54-16
12-13 カラビュクスポル(TUR) -
1980年3月10日生まれ 初代表:2002年3月27日ウクライナ戦
14試合−2得点 ラスト:2005年6月8日アルメニア戦
オツェルル・ガラツィで18歳にしてチームの司令塔を務めていた頃からその才能は際立っていて、左利きながら右もそつなくこなすファンタジスタ。あるルーマニア紙が名付けた「ダイヤモンド」のニックネーム通りにその原石を求めようとバイエルンやマルセイユ等のビッグクラブからオファーが絶えなかった逸材。まだ時期尚早として国内のディナモに移籍した時は期待されたが、当時のコーネル・ディヌ監督には守備能力を疑問視され、メディアがいうほど重宝する存在ではないという評価しか受けなかった。しかし2000年欧州選手権を前にしてイエネイ代表監督が最終メンバーに入れるか悩んだという実力は明らかで、翌年にはチームのキャプテンで司令塔のルペスクを放出して、チェルナト中心のシステムにするというプランも出てきた。そんな構想を尻目にわずか1シーズンでウクライナの雄、ディナモ・キエフに移籍すると背番号10の重圧に負けないほどの攻撃における閃きと得点力で若きエースとして君臨し、この年の入団前にブカレストで予備戦に出場していたためにチャンピオンズリーグには登録されなかったが、初年度の00/01シーズンにリーグ優勝に輝いた。翌年には新加入したU-21代表の同僚ティベリウ・ギオアネと共に早くもチャンピオンズリーグに出場。翌年はリーグ2位に終わったものの、チャンピオンズリーグ予備予選2,3回戦、本選1次リーグと10試合にほぼ全試合出場してクラブの顔となった。以降はケガが重なって出場機会が減り、監督と起用法で揉めたりしたが、02/03、03/04シーズンとリーグ2連覇に貢献した。しかしクラブと代表ではトップ下のシステムを採用しない方針になったために出番は少なくなっていった。2006年W杯予選では5試合出場。07/08には出場時間を求めてクロアチアにレンタルで加入し、ファンにも愛され十分な活躍も見せた。(2008.11.14更新B)

度重なる重傷で世界的名声が絶たれた国内の芸術家 −現代表候補
 ルチアン・スンマルテアン - Lucian I.Sanmartean
98-03 グロリア・ビストリツァ 89-12
03-07 パナシナイコス(GRE) 24-1
06-09 ユトレヒト(NED) 17-0
08-10 グロリア・ビストリツァ 23-1
09-12 FCヴァスルイ 76-4
12-13 FCヴァスルイ -
1980年3月13日生まれ 初代表:2002年11月20日クロアチア戦
7試合−無得点 ラスト:2011年10月6日ベラルーシ戦
卓越したテクニックのゲームメイクとFKでリーグとU-21代表でその名を知らしめた司令塔。グロリア・ビストリツァのアカデミー出身で、18歳の時にクラブのトップチームに入りすぐに高い評価を受けるようになった。しばらくはチームは中堅順位留まりだったが、著しく成長を見せた02/03シーズンには代表デビュー、そしてチームをついに3位まで躍進させている。この年の1月にはB型肝炎を患って決まりかけていたラピドへの移籍と定着のチャンスだった代表召集はご破算となったが、3月には復帰しあいかわらずの好調とインター・トトカップでのプレーぶりが認められて、翌年のギリシャ強豪のパナシナイコス移籍を成功させた。ギリシャでは初年度にリーグ制覇とチャンピオンズリーグ5試合に出場する機会を得る。翌年はヒザの手術の影響で出場機会が激減してしまったが、チャンピオンズリーグで初ゴールを決めている。半ば飼い殺し状態のギリシャからオランダのユトレヒトに活躍の場を求めるもやはり慢性化したケガの影響で満足にプレーできず。翌シーズンの開幕戦でスタメンながら早々に負傷退場してそのまま解雇されてしまった。ケガさえなければ間違いなくリーグ屈指の司令塔と監督に絶賛されたように、国内復帰してからは最後のファンタジスタとしてファンを魅了。その存在を請われながらも召集しようとしないラズヴァン政権は低迷。辞任ラストの試合(2011年6月ボスニア戦)で8年ぶりに代表復帰し、大勝したことがその能力を証明した。定着が望まれる中、不運にも年齢の面でスンマルテアンを軽視するピツルカが代表の新監督になってしまい、序盤の5試合は召集されなかったが、ついには認めさせて10月のベラルーシ戦に出場し、先制点の起点となる芸術的アシストを決めている。この試合でもケガで早々にリタイアしてることから、健康であることが望まれる。(2011.10.13更新B)

ステアウアで開花した国内最高のセカンドトップ
 ニコラエ・ディカ - Nicolae Marius Dica
98-00 ダチア・ピテシュティ(B) 50-19
00-04 アルジェシュ・ピテシュティ 89-35
03-08 ステアウア・ブカレスト 125-54
08-09 カターニア(ITA) 2-0
09-10 イラクリス(GRE) 13-3
09-10 CFRクルージュ 13-0
10-11 マニサスポル(TUR) 5-0
10-11 ステアウア・ブカレスト 11-4
11-12 CSミオヴェニ 15-1
11-12 ヴィトルル・コンスタンツァ -
1980年5月9日生まれ 初代表:2003年10月11日日本戦
32試合−9得点 ラスト:2010年6月5日ホンジュラス戦
タイプとしてはゲームを組み立てるだけではなく自ら得点も取りに行く現代型10番で、トップ下だけでなくシステムによって右でも左でも機能するMF。99/00シーズンにディビジョンBのダチアで33試合14得点を記録してクラブは5位に終わったが、そもそも深刻な資金難であったクラブはBからCに降格したポリテニカ・ティミショアラに来期のディビジョンBのポジションを金銭で売り、ダチアは代わりにCへ降格。ディカは幸いにもアルジェシュから打診があり、翌年に念願のディビジョンAデビューを果たした。01/02シーズンにはチームトップの11得点とリーグアシスト王を獲得し、翌年にもリーグのアシスト3位と得点6位の11得点をたたき出して押しも推されぬ存在となった。この頃から同じアルジェシュ出身のムトゥと比較されるようになり、ヨルダネスク代表監督からも期待されるようになった03/04シーズンには6試合で7得点を決めて、フジテレビで生中継された日本戦でデビューした。その後も安定した活躍を見せ14試合9得点の記録を残して冬のマーケットでステアウアへ移籍。そこでも14試合9得点を決めてリーグの得点ランク2位に輝いた。翌年には念願のリーグ初優勝を経験。2006年W杯予選で開幕から連続5試合に出場して磐石だった代表のポジションはピツルカ体制になってからコチシュに取って代わられたが、国内でのあいかわらずの好調とコチシュのケガによりポジションを奪取して、ルーマニア最優秀選手に選ばれた。2008年欧州選手権予選にはディカがファーストチョイスとして選ばれ本戦出場に貢献した。また念願のチャンピオンズリーグにも2年連続出場し、乗りに乗っている国内最高のセカンドトップとの評価を得た。しかし本戦前頃から不調に陥り、大舞台では一応出場するも完全にムトゥだけの攻撃陣として影は薄れていった。(2008.11.6更新C)

遅咲きの台頭でウニレアと代表に安定をもたらすダイナモ
 ユリアン・アポストル - Iulian Catalin Apostol
96-98 ドゥナレア・ガラツィ(B) 11-0
97-98 オツェルル・ガラツィ 0-0
98-00 ドゥナレア・ガラツィ(B) 40-2
00-01 メタルル・プロペニ(B) 22-2
02-03 グロリア・ブザウ(B) 19-1
03-04 オツェルル・ガラツィ 20-2
04-06 ファルル・コンスタンツァ 30-0
05-06 オツェルル・ガラツィ 10-0
06-07 ファルル・コンスタンツァ 25-6
07-10 ウニレア・ウルズィチェニ 66-6
10-11 ステアウア・ブカレスト 5-0
10-11 ウニレア・ウルズィチェニ 9-1
11-12 ラピド・ブカレスト 10-4
12-13 ラピド・ブカレスト -
1980年12月3日生まれ 初代表:2009年6月6日リトアニア戦
6試合−無得点 ラスト:2009年11月14日ポーランド戦
気分が乗り次第で更新予定

コットブス限定で存在証明したゴールの双子
 ヴラド・ムンテアヌ - Vlad Munteanu
98-00 FCMバカウ 39-7
00-02 ディナモ・ブカレスト 34-5
01-02 ポイアナ・クンピナ(B) 3-2
02-05 ディナモ・ブカレスト 43-3
04-05 ディナモ・ブカレストU(B) 6-1
04-05 ナシオナル・ブカレスト 14-1
05-06 ディナモ・ブカレスト 18-2
06-07 エネルギー・コットブス(GER) 33-11
07-08 ヴォルフスブルグ(GER) 10-0
07-08 オセール(FRA) 9-0
08-09 ヴォルフスブルグ(GER) 0-0
08-09 A・ビーレフェルト(GER) 15-2
09-10 ヴォルフスブルグ(GER) 0-0
09-10 FSVフランクフルト(GER・B) 12-0
10-11 ディナモ・ブカレスト 4-0
11-12 コンコルディア・キアイナ 21-1
12-13 エルツゲビルゲ(GER・B) -
1981年1月16日生まれ 初代表:2002年8月21日ギリシャ戦
1試合−無得点 ラスト:2002年8月21日ギリシャ戦
確固たる武器は無いもののバランサーとして、そして一瞬ではあったがドイツで脚光を浴びた左サイドハーフで、ユース時期にはムトゥ以上に将来を渇望されていたMF。18歳で生まれ故郷のバカウでデビューすると2年連続して上位争いのクラブで揉まれるとユース代表としても選ばれて至福の時を過ごす。翌年には首都の強豪ディナモからスカウトされ、そこから6シーズンをディナモに所属して03/04シーズンの2冠をはじめ、4度のカップ戦制覇という栄光を得た。しかし2003年にO・ペトレと共にアヤックスからのトライアウトを招待される評価はあったものの、Bチーム落ちが2度、ナシオナルへのレンタル放出もありとシーズン平均としては20試合未満の出場がほとんどで確固たる主力という見方はされなかった。このまま平凡な選手としてキャリアを過ごすと予想された中で、セルジュ・ラドゥを擁して昇格したドイツのエネルギー・コットブスからのオファーが彼の転機となり、本人すら予想していなかった名声が転がり込んできた。迎えた06/07シーズンは降格不可避の弱小クラブでラドゥとのコンビで総得点の7割となる計25ゴールをマークし、早々に残留を決めると個人評価も「ゴールの双子」として各紙から絶賛された。しかし残念なことにこの全盛期にピツルカ監督の強行姿勢で代表のチャンスは得られず、翌年コンビで移籍したヴォルフスブルグではシステムに馴染めずに強豪ゆえの即戦力視からは厳しく、半年で戦力外になってしまった。その後オセールでも結果は出ず、レンタルバックされた時は半年を飼い殺し状態にあい、なんとかビーレフェルトに修行に出されたが、名誉回復には至らなかった。(2009.2.24更新)

監督が代われど重宝され続ける安定のレジスタ
 パウル・コドレア - Paul Constantin Codrea
96-98 ディナモ・ブカレスト 5-0
98-99 ポリテニカ・ティミショアラ(B) 30-2
99-01 アルジェシュ・ピテシュティ 34-1
00-03 ジェノア(ITA・B) 50-3
02-04 パレルモ(ITA・B) 19-2
03-04 ペルージャ(ITA) 12-1
04-05 トリノ(ITA・B) 35-1
05-06 パレルモ(ITA) 12-0
06-11 シエナ(ITA) 108-2
10-11 バーリ(ITA) 6-0
11-12 シエナ(ITA) 1-0
12-13 ラピド・ブカレスト -
1981年4月4日生まれ 初代表:2000年11月15日ユーゴスラビア戦
44試合−1得点 ラスト:2010年3月3日イスラエル戦
2部のポリテニカで台頭してアルジェシュを10代ながら5位に押し上げたレジスタ。プレースタイルは常に安定したパフォーマンスで相手の攻撃の芽を摘む守備的MFで、持ち前の広い視野で攻撃においても試合を作り出すことができた。そのままユーゴとの親善試合でいきなり代表スタメンデビューと同時にセリエBのジェノアに移籍。クラブではしばらくは良いパフォーマンスをするも日の目を見なかったが、代表ではベテランのD・ムンテアヌと中盤のコンビを組み、デビュー以降そのポジションを不動のものにした。その代表でのアピールで02/03シーズン途中でインテル、ユベントス、レバークーゼン、ミドルスブラからのオファーがあり、ビッグクラブへの移籍は間違いないだろうと言われながら同じBのパレルモへ。おそらく金銭面だろうが、諸国のルーマニアに対する実際の評価を知らされた一場面であった。この頃(2004年欧州選手権予選時)にはヨルダネスク代表監督の不可解な右サイドハーフ起用に活躍できずに召集が激減し、ピツルカ体制になってからも2006年W杯予選時は起用なし。しかし2008年予選からはスタメンとして復活して本戦出場に貢献。キヴ、ラドイらと同様にリーグでのケガが影響で召集されない時も多いが、健康であれば安定した戦力として常に計算できる存在であった。(2008.11.6更新C)

ラピドに君臨する中盤の心臓 −現代表スタメン
 コスティン・ラザール - Costin Lazar
99-07 スポルツール・スツデンテスク 157-11
06-11 ラピド・ブカレスト 134-9
11-12 PAOKサロニカ(GRE) 26-3
12-13 PAOKサロニカ(GRE) -
1981年4月24日生まれ 初代表:2005年11月12日コートジボワール戦
23試合−1得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
守備的MFポジションという運命から地味ではあるが、所属したクラブの戦力としては常に不可欠で最終的には国内でラドイと双璧をなしたバランサー。首都ながら給料未払いの弱小として知られるスツデンテスクでデビューしたことから8シーズンを1部と2部を言ったり来たりのエレベーターで表舞台に出るには時間がかかった。5シーズンを自己の忍耐に捧げ、迎えた04/05シーズンにブクル、バランらの若きメンバーで臨んだことが勢いを増し、降格必死の勢力において維持を見せて7位まで上昇。翌年には快進撃を見せて最後には脱落したものの、若き戦力のみでギリギリまで優勝争いをするセンセーショナルを巻き起こした。しかしその衝撃と共に財政難という懸念された状況により、4位となりながら翌年2部落ちという制裁を受けることになったが、その中で戦力ビッグ3と言われていたバラン、マズィルよりもいち早くラピドに拾われたことがその能力を示していた。ラピドでもスタメンを奪取し、特に多国籍方針に転換したラピドにあって注目されるFW陣を尻目に玄人筋からは全ての根源は攻守に渡ってタクトを振るラザールにありと絶大な評価を得る。07/08シーズンになると誰が見てもラピドの心臓としての地位を築き、ラドイの抜けた国内リーグでナンバー1の守備的MFとなる。これまでの長らくサブとして起用されていた代表では第3次ピツルカ政権で1年半ぶりに出場してからはスタメンとして重宝されている。(2011.10.13更新A)

王者を支えた経験豊富な影武者
 ソリン・パラスキヴ - Sorin Ioan Paraschiv
99-07 ステアウア・ブカレスト 168-12
07-09 リミニ(ITA・B) 47-3
09-10 ウニレア・ウルズィチェニ 26-0
10-11 ヴォリン・ルーティク(UKR) 11-2
11-12 ファルル・コンスタンツァ 2-0
12-13 コンコルディア・キアイナ -
1981年6月17日生まれ 初代表:2004年9月8日アンドラ戦
4試合−無得点 ラスト:2005年11月16日ナイジェリア戦
派手さは無いが安定した屋台骨としてステアウアに15年在籍した守備的MF。11歳でステアウアのユース部門に所属してから19歳の2000年に念願の1部デビュー。このシーズンは1試合の出場に留まったが、翌年には主力としてリーグ制覇に貢献した。その後もステアウアを支え続けてラドイに次ぐ副キャプテンとして2年連続2位に終わるチームを鼓舞し続けて向かえた04/05,05/06には見事にリーグ2連覇を果たし、チャンピオンズリーグは予備戦で敗れたものの、UEFAカップで欧州の名だたる強豪を退けてベスト4にまで上り詰めた。そしてついに翌年に予備戦から勝ち上がりチャンピオンズリーグ本戦で戦う栄誉を授かる。このシーズンを最後にステアウアを去る決意を固め、次のステップとしてセリエBのリミニへと移籍。スランプになることなく奮闘し、クラブからの2011年までの契約延長提示にもサインしている。代表では親善試合レベルで出場したのみで、トップには層が厚く割り込むことができなかった。ステアウアではゴールが多い方ではなかったが、決勝点が多く、印象に残る選手ではあった。(2009.2.24更新)

七難八苦を乗り越えた新しき帝王
 ティベリウ・ギオアネ - Tiberiu Ghioane
  1981年6月18日生まれ   181cm 72kg   通算代表歴:21試合−2得点
  初代表:2001年2月26日ウクライナ戦   最終代表:2010年6月5日ホンジュラス戦
強いプレッシャーのかかった状況でも冷静なプレスで的確にボールを奪取する能力に長けた守備的MF。またその戦術眼は確かなものをもっており、どのポジションにおいてもワールドクラスのプレーを披露できるルーマニアが誇るマルチプレイヤー。FCブラショフでキャリアをスタートし、99/00シーズンにトップチームへのデビューを果たしたが、すでにU-21代表として注目されていた彼はブラショフでわずか1試合に出場すると、シーズン途中にラピド・ブカレストに引き抜かれていった。翌年は当時の監督アンヘル・ヨルダネスクの構想から外れていたのでリザーブチームでのスタートとなったが、冬に監督がミルチェア・レドニクに代わるとトップチームに挙げられてすぐにレギュラーの座を射止め、代表デビューも果たした。2001年には若くしてウクライナの強豪ディナモ・キエフに移籍すると、本来とは異なったポジションでの起用が目立ち、守備的MF、右サイドバック、右サイドハーフ、トップ下、フォワードとを任されすべてにおいて次第点の評価を得た。そして移籍1年目19歳にしてチャンピオンズリーグで全6試合出場2得点を記録している。またルーマニア代表の運命の2001年11月10日の日韓ワールドカップ欧州予選プレーオフのスロヴェニア戦に世論の後押しもあってユース代表から緊急に召集される。スタメンが期待されたが、ハジ代表監督が経験の無さからものおじして敗戦濃厚の83分からの出場となり、翌日のメディアにはギオアネをスタメンで使わなかったことが敗因と追求された。この反省からプレーオフ2戦ではスタメンで起用されたが、知ってのとおりアウェーでの様々な運の無さから引き分けに終わり12年ぶりにW杯出場を逃してしまった。しかし次の代表戦フランスとの親善試合でジダンを完璧に封じ込めてさらに評価は上昇。これ以降は代表スタメンの座を確保した。クラブでの翌シーズンは攻撃的右サイドMFとセンターバックを起用にこなし、2年連続でチャンピオンズリーグ全6試合出場、そして初のリーグ制覇に貢献した。このまま将来の代表を背負っていく貴重な存在のまま成長していくものと思われたが、2004年欧州選手権予選デンマーク戦の直前にヨルダネスク代表監督がなにを思ったかギオアネをユース代表に送り込み、フル代表は歴史的なホームでの2-5の敗戦。この行動に納得のできないギオアネは次の試合の召集に対して断固拒否の姿勢をみせて、いかなる説得にも応じなかった。クラブではあいかわらず好調で、03/04には3年連続チャンピオンズリーグ全6試合出場とリーグ2連覇の成績を収めている。そして破天荒な人生が続いたのがこれからで、ピツルカ体制になったキプロストーナメントのスロバキア戦では誠意の説得によって2年ぶりの代表復帰に応じるも、直前の練習中に突然倒れて脳卒中の診断が下された。一時は選手生命どころかその命すら危ぶまれたが、奇跡の回復を見せて1ヶ月後の2006年W杯予選オランダ戦に出場した。しかしその試合でオランダの先制点につながるミスを犯してその後は鬱状態になり、また病状の影響かコンディションが最悪に近く一切プレーしない時期が続いた。キエフの会長の多大なサポートによって現役引退は免れて、徐々にコンディションは回復し現在はスタメンとしてまたキエフの中盤に君臨している。またその活躍には目を見張るものがあり、2008年欧州選手権予選の代表において層の薄さ、守備的MFのケガ人続出にはもってこいの人材であったが、ピツルカの熟成路線とケガのコンディションを慎重に見守りたい意志によって見送られた。次回W杯予選からの起用を示唆されたギオアネであったが、実際いまだ好調にもかかわらず、そして代表が人材面で苦しんでいるにもかかわらず、一切召集がかからないということから一転してピツルカとの不仲が表面化した。普通であればムトゥやキヴに次ぐクラッキとして代表の核だったはずの選手。(2008.11.6更新C)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
99-00 FCブラショフ 1-0 A14
ラピド・ブカレスト 7-0 A2
00-01 ラピド・ブカレスト 10-1 A4
01-02 ディナモ・キエフ(UKL) 18-2 A2 7-2(2+6G)
02-03 ディナモ・キエフ(UKL) 25-2 A1 10-0(4+6G) 2-0(2G)
03-04 ディナモ・キエフ(UKL) 27-4 A1 8-0(2+6G)
04-05 ディナモ・キエフ(UKL) 16-3 A2 7-0(2+6G)
05-06 ディナモ・キエフ(UKL) 2-0 A2
06-07 ディナモ・キエフ(UKL) 11-1 A1
07-08 ディナモ・キエフ(UKL) 25-7 A2 6-0(2+6G)
08-09 ディナモ・キエフ(UKL) 21-9 A1 9-0(4+6G) 5-0(8G)
09-10 ディナモ・キエフ(UKL) 20-4 A2 3-0(6G)
10-11 ディナモ・キエフ(UKL) 3-0 A2
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
まだ無し

代表の人材不足を攻守に渡って解消させた誇る傭兵 −現代表候補
 ガブリエル・ムレシャン - Gabriel Stelian Muresan
03-04 モビラ・ソヴァタ(C) -
04-05 ガス・メタン・メディアシュ(B) 12-3
05-07 グロリア・ビストリツァ 49-11
07-12 CFRクルージュ 115-12
12-13 CFRクルージュ -
1982年2月13日生まれ 初代表:2007年6月2日スロヴェニア戦
9試合−無得点 ラスト:2011年8月10日サンマリノ戦
気分が乗り次第で更新予定

万全であれば規格外の大型ボランチ
 オビディウ・ペトレ - Ovidiu Petre
99-04 ナシオナル・ブカレスト 56-2
03-05 ガラタサライ(TUR) 27-2
04-06 FCUポリ・ティミショアラ 33-5
06-10 ステアウア・ブカレスト 74-5
10-11 アル・ナスル(S.A) 16-4
11-12 モデナ(ITA・B) 19-1
12-13 ACSポリ・ティミショアラ -
1982年3月22日生まれ 初代表:2002年4月17日ポーランド戦
23試合−1得点 ラスト:2009年2月11日クロアチア戦
長身でパワフルなボランチで、トップ下でもセンターバックでも柔軟に適応できるテクニックを持った選手。01/02シーズンに急成長を遂げてリーグ2位の原動力になると共に代表デビューも飾った。翌年にはペトレスク新監督の下でチームの核となり、UEFAカップも全6試合に出場。冬の移籍マーケットではアヤックスからの要請で短期トライアルに参加してクーマン監督から合格を言い渡されながらも、クラブ間の交渉において決裂してしまうが、翌シーズン開幕直後にラピドのブラトゥ、ディナモのタマシュらと共にトルコのガラタサライへ移籍することに成功。そのままチャンピオンズリーグにも出場し、離脱していく二人を尻目にコンスタントに出場機会を与えられた。しかし終盤になるとハジ監督でもチャンスが減っていき、国内のオイルマネークラブに入団。目立った活躍を見せたことで代表にも2006年W杯予選終盤からスタメンに定着し始めている。現在はすったもんだの末にステアウアに移籍したが、はやくもその能力の高さを証明した。チャンピオンズリーグにも2年連続出場して好調を維持してはいるものの、代表においては好不調の波が激しく、混戦のポジションもあってか定着にはいたっていない。ちなみにアホ話として、大事な欧州選手権本戦のメンバーとして選ばれるも、合同合宿中の余暇にビーチバレーでケガをしてしまい、途中帰国した。(2008.11.6更新B)

ピツルカの寵愛を受けたオールラウンダー −現代表候補
 ラズヴァン・コチシュ - Razvan Vasile Cocis
00-01 CUGクルージュ(C) -
01-04 U・クルージュ(B) 37-14
04-07 FCシェリフ(MOL) 56-24
07-09 ロコモティヴ・モスクワ(RUS) 54-4
09-10 FCティミショアラ 9-3
10-11 アル・ナスル(S.A) 12-2
10-11 カルパティ・リヴォフ(UKR) 11-1
11-12 FCロストフ(RUS) 25-3
12-13 FCロストフ(RUS) -
1983年2月19日生まれ 初代表:2005年8月17日アンドラ戦
49試合−2得点 ラスト:2012年10月12日トルコ戦
中盤の全てのポジションを務めることができる技術と機を見て前線に飛び出す攻撃性能を兼ね備えた代表屈指のバランサー。クルージュ・ナポカで生を受けると地元のクラブを経て、18歳から2部のウニベルシタテア・クルージュでプレー。ここで3シーズンを過ごし、3年目の03/04シーズンには得点力溢れるFWとして注目を浴びてU-21でも核としてプレーすると、クラブのために国内強豪やフランスのレンヌの誘いを蹴ってより良いオファーだったモルドバリーグを同じく将来有望とされていたフローレスクと共に選択。ここでは2季連続でリーグ優勝と得点ランキング3位に輝いたが、そもそも毎年優勝を独占している国内1強の接待リーグなので評価がステップアップしたかはわからず。とりあえず枠として与えられているチャンピオンズリーグ予備予選を経験できたのがせめてもの救いか。また2004年と2005年のリーグベストアタッカー賞を受賞している。3年目も変わり映えしないシーズンかと思いきや、個人的な能力がロコモティブ・モスクワの目に留まり、西欧に近づいたのか遠くなったのか微妙な移籍を果たした。途中加入の2007年はデビュー戦こそ決勝ゴールを決めたが、ヒザのケガもあって満足行く結果は残せなかった。2008年もスタメンに名を連ねているが、2季連続7位と有望視された西欧行きには遠回りとなっている。このようなクラブ遍歴のため普通なら代表には縁遠いはずではあるが、おとなしいスマートな性格のためピツルカ監督の寵愛を受けてスタメン起用され続けている。代表ではどちらかというと守備的な位置からの精力的な動きでバランスを取る役割で、欧州選手権では予選と本戦に出場している。しかしやはり代表としては物足りなさが目立ち、コチシュが出場できている時点でそれがルーマニア代表の戦力の限界とも言われている。ピツルカ第3次政権になって予想通りに再度登用されて、バッシングの対象となっている。(2011.10.13更新A)

あと一歩で天に見放される不運の天才児
 ヤニス・ズィク - Ianis Alin Zicu
00-02 ディナモ・ブカレスト 20-3
01-02 ポイアナ・クンピナ 6-4
02-03 ファルル・コンスタンツァ 20-7
03-04 ディナモ・ブカレスト 13-5
03-04 インテル(ITA) 0-0
03-05 パルマ(ITA) 9-0
04-06 ディナモ・ブカレスト 39-12
06-07 ラピド・ブカレスト 30-12
07-10 ディナモ・ブカレスト 39-5
10-11 FCティミショアラ 30-18
11-12 CSKAソフィア(BUL) 15-13
2012 浦項スティーラーズ(KOR) 15-6
2012 江原FC(KOR) -
1983年10月23日生まれ 初代表:2003年10月11日日本戦
12試合−1得点 ラスト:2011年6月11日パラグアイ戦
ディナモ・ブカレストをベースに浮き沈みを繰り返して見事に蘇った近代のファンタジスタ。基本的なポジションはトップ下の司令塔だが、左右ウイングやハーフもこなせる攻撃特化型。ディナモユースから17歳でトップチームに昇格し、翌シーズンに戦力となるも代表クラスを多く抱えていたクラブにあって出場機会のため約1年間の修行に出される。コンスタンツァでの降格阻止の目標を果たした後の03/04に復帰し、ユースでも同僚のマリカとのコンビでリーグを席巻する大活躍を披露し、ハジの後継者として国内を騒然とさせた。この評判が海外へも飛び火して、世界的クラブのインテルに入団する幸運を授かった。しかしスター軍団の中では厳しく、すぐさまアドリアーノとのトレードの1部としてパルマにレンタルされる。パルマでも十分なプレー時間は得られず、ストレスが溜まっていたズィクは2004年10月のユース代表戦でベンチから出番が無かったことで監督と口論し、無断で退席したことが大きな問題となり、協会からどの世代においても代表からは無期限追放という重い処分が下った(3ヶ月後に恩赦)。1年間のイタリア生活が失敗に終わり、古巣のディナモへ1年半のレンタル加入した。しかしそれでも復活にはほど遠く、契約終了後には戦力外として様々な憎悪を持つラピドに行くことしか残されていなかった。完全なる海外移籍からの失敗例と予想されたが、ラピドでの06/07シーズンは全盛期を彷彿させるプレーで、攻撃陣を牽引しながら毎節の見出しにはキング・ズィクの文字が躍り、自身も12得点と自己最高をマークして、2006年アルメニア代表戦以来1年ぶりの代表復帰で2008年欧州選手権予選に3連続出場。その試合でMVPとも言える活躍でディカを脅かすほどの存在になった。翌年はその活躍をディナモも放ってはおかず、前年とはうって変わって三顧の礼で迎え入れられた。戦力アップとなったディナモでは念願のチャンピオンズリーグまであと1歩となった予備戦3回戦でラツィオと対決。第1戦はアウェーゴールを奪って引き分けだったが、肝心のズィクがハードタックルを受けて途中退場し、ホームでは欠場。チームも惨敗を喫した。そのケガが思いのほか重傷でリーグ前半と代表予選終盤を離脱し、半年後に復帰するも再発して再度長期リハビリ生活を過ごした。結局、活躍するはずだった欧州選手権本戦もプレーどころではなかった。1年半後の2009年3月にようやく復帰したが、どうも代表では輝きを見せることができない。10/11シーズンにティミショアラでリーグ得点王に輝き、ブルガリアでも半期得点王だったが、韓国に渡ったことからもう栄光は終わったと言える。(2012.9.11更新)

現代サッカーで輝く古き良き司令塔
 アドリアン・クリステア - Adrian Cristea
02-05 ポリテニカ・ヤシ 65-13
04-10 ディナモ・ブカレスト 145-20
10-11 ディナモ・ブカレスト 17-7
10-12 ウニベルシタテア・クルージュ 43-11
12-13 ペトロルル・プロイエシュティ -
1983年11月30日生まれ 初代表:2007年2月7日モルドバ戦
9試合−無得点 ラスト:2011年10月6日ベラルーシ戦
守備能力には期待できないが、シュート、パス、特に巧みなドリブルからのミドルで打開する攻撃的能力においては目を見張るものがある稀少のファンタジスタの系譜を継ぐ選手。2部のポリ・ヤシですぐに頭角を現すとコチシュやタマシュらと共にユース代表での活躍から全国区に上り詰め、03/04シーズンを2部制覇し、クラブの9年ぶりの昇格にエースとして貢献した。この頃からディナモ・キエフ等のクラブからオファーが舞い込むものの、国内のステップアップとしてディナモ・ブカレストを選ぶ。半年後の入団を確約させて臨んだステアウア戦では決勝ゴールをもぎ取り入団前からディナモのファンの心を掴む事に成功。初年度こそトップ下を置かない戦術により出場機会は限られたが、レドニク就任後の2年目には攻撃のリーダーとして任命され、元々の評判どおりのテクニックを披露。磨きのかかったドリブル突破とFKは国内屈指とされた。2007年2月にはコチシュ、ディカの代役としてついに代表にもデビュー。この06/07シーズンはは結局S・ラドゥの守備陣とクリステアの攻撃という図式で圧倒的な強さでリーグを制覇。歴代でも最強という称号を得た。翌年も個人的にはそのテクニックでチームを助けたが、チームの不振に引きづられて4位でフィニッシュ。代表ではムトゥ頼みと熟成によるシステムが出来上がっている中で、その消えつつあるプレースタイルは馴染むことができず、サブが定位置になっている。2008年の欧州選手権にもメンバーには選ばれたが、結局出場はならなかった。U・クルージュに移ってからもリーグでは好調を維持して、代表では2011年10月のベラルーシ戦に1年ぶりに出場。(2011.10.13更新)

愚将に愛されたためマイナスイメージの象徴 −現代表候補
 ジョルジェ・フローレスク - George Mihai Florescu
01-04 ウニベルシタテア・クルージュ 38-15
04-07 FCシェリフ(MOL) 51-5
06-07 トルペド・モスクワ(RUS) 44-9
08-10 FCミッティラン(DEN) 52-4
10-11 FCアラニア(RUS) 20-1
11-12 アーセナル・キエフ(UKR) 22-2
12-13 アーセナル・キエフ(UKR) -
1984年5月21日生まれ 初代表:2010年3月3日イスラエル戦
11試合−1得点 ラスト:2012年6月6日オーストリア戦
身の丈を超えた代表起用に、プレー内容に反した連続フル出場や10番のユニフォームなどラズヴァンによってピエロに仕立て上げられた悲劇の代表戦士。Uクルージュの下部組織からコチシュとの2枚看板として活躍し、共にモルドヴァリーグのシェリフへ移籍。また、時同じくしてユース代表へと駆け上がった。シェリフでは永らく優勝独占リーグの恩恵で2連覇を果たしたが、コチシュがロシアの強豪ロコモティブに移籍、またピツルカに認められてA代表に欠かせない戦力となる一方で、フローレスクはユース代表止まりで同じくロシアのトルペドへ移籍するも1年目で降格し、2部でのプレーを余儀なくされた。ユース代表でともに戦った仲間達、マリカ、コチシュ、タマシュ、ニコリツァ、ミテアらが次々と上がっていく中、代表という表舞台に上がるべくモルドヴァ国籍取得というプランも浮上した。07/08からはデンマークリーグのFCミッティラントに移籍。そこからは、パッタリと音沙汰がなくなったが、代表監督R・ルチェスク監督が、国外組として2010年イスラエル戦にフローレスクを召集。ルーマニア2部、弱小モルドヴァリーグ、ロシア1部で降格させ2部、そして、弱小デンマークリーグと代表戦士としての素質には疑問符で、当時バッシングが強まってきたラズヴァンの奇策として取り上げられたが、これが代表キャップと引き換えに彼の人生を狂わせることになった。好調の選手を召集しない、また途中交代させる中で、逆にウィークポイントであった彼だけは常にフル出場。加えてハジやムトゥといったルーマニア代表の象徴だけが継げる栄光の10番を与えられるといった愚行に国民から非難轟々の嵐を受け、遂には本人から10番返上の申し出が。それでもラズヴァンがひたすら起用したことからか2010年の代表は公式戦、親善試合を含めて僅か1勝に終わるなど、史上最悪の1年を過ごすと共にその代表チームの負の象徴となった。以後アラニアからも解雇されて、無所属となってもあいかわらずの召集の根拠の無さでスタメンでプレーしたことはもはや彼の責任の範疇を超えて、被害者とも言える存在だった。(2011.6.18更新)

 ミハイ・ピンティリ - Mihai Doru Pintilii
06-07 オセール・ルゴジ 15-1
06-10 ジウル・ペトロシャニ 85-8
09-10 インテル・クルテア 15-0
10-12 パンドゥリ・トゥルグ-ジウ 59-7
12-13 ステアウア・ブカレスト -
1984年11月9日生まれ 初代表:2011年8月10日サンマリノ戦
9試合−無得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
代表キャップ10以降に更新予定

ブラショフ産の右サイドの仕掛け人
 ミハイ・ロマン - Mihai Roman
05-07 チェタテア・スチェアヴァ(B) 54-14
07-10 FCブラショフ 84-10
09-12 ラピド・ブカレスト 57-7
12-13 ラピド・ブカレスト -
1984年11月16日生まれ 初代表:2009年6月6日リトアニア戦
10試合−無得点 ラスト:2012年1月27日トルクメニスタン戦
気分が乗り次第で更新予定

人種差別を跳ね返したロマ人の誇り −現代表候補
 バネル・ニコリツァ - Banel Nicolita
01-04 ダチア・ブライラ(B) 75-23
04-05 ポリ・AEK・ティミショアラ 15-3
04-12 ステアウア・ブカレスト 188-22
11-12 サンテティエンヌ(FRA) 19-3
12-13 サンテティエンヌ(FRA) -
1985年1月7日生まれ 初代表:2005年11月12日象牙海岸戦
34試合−1得点 ラスト:2011年10月11日アルバニア戦
強靭かつ柔らかな体で、難しい体勢からでもゴール、アシストを決めると疲れを知らないダイナモ。ルーマニアでも差別人種であるロマ族の家庭で6人兄弟長男として貧困の町に生まれた。まず入団した2部のブライラでは成功を夢見る純粋な情熱をフィールドでスピードと献身さで証明して見せエースとして活躍し、2部リーグの18歳ながらルーマニアユース代表にも選出される。2004年にはポリAEKティミショアラに見初められて19歳で1部デビューを飾ると、ユース同様にGK以外どこでもプレーする獅子奮迅ぶりでたった半年で国内最高峰ステアウアに30万ユーロで入団。当初は右サイドの代表選手ドゥミトルの控えとしてだったが、すぐにポジションを奪取して初のリーグタイトルを味わった。翌シーズンのプロタソフ体制では絶大な信頼から攻撃面の全てを司る役割を与えられ、右から左からと期待以上の活躍でステアウアを引っ張る。特にベスト4まで上り詰めたUEFAカップでベスト16のベティス戦とベスト8のラピド戦で決勝ゴールを挙げて代えの利かない選手であることを証明した。国内リーグでも7ゴールを決めてタイトルを引き寄せたこのシーズン中の11月にはコートジボアール戦でA代表デビューも果たし、以降右サイドハーフとして重要な戦力となった。翌06/07シーズンはリーグ戦では全試合に出場するもチームの心臓であるニコリツァ封じに苦しめられ、念願のチャンピオンズリーグでもレアル・マドリッド戦でプレッシャーのない中でGKのいないゴールにボールを流してしまうという痛恨のオウンゴールで皮肉にも全世界の脚光を浴びてしまう。代表でも欧州選手権予選前半戦で出場はなるもベテランのF・ペトレの攻撃面の牙城を崩せず、ほとんどが交代出場。翌シーズンのリーグでは以前のMVP級と言われるインパクトは残せずにいたが、代表では8戦目となる欧州予選ベラルーシ戦以降はその守備で貢献するタフネスでスタメンを奪取し、攻撃面ではF・ペトレに劣るまでも前任者の不要論をピツルカに考えさせるまでに復調した。海外からのオファーも殺到していたが、当然ながらジジ・ベカリの抵抗により、ようやくフランスに渡れた頃にはピークは過ぎていた。(2012.5.22更新)

ケガで栄光を終えた早熟のドリブラー
 ニコラエ・ミテア - Nicolae Mitea
02-03 ディナモ・ブカレスト 9-0
03-08 アヤックス(HOL) 57-11
08-09 ディナモ・ブカレスト 12-0
09-10 所属なし /
10-11 イオニコス(GRE・B) 0-0
11-12 P・プロイエシュティ 2-1
1985年3月24日生まれ 初代表:2003年8月24日ウクライナ戦
8試合−2得点 ラスト:2005年6月8日アルメニア戦
168センチと小柄で一見ひ弱そうな体格ではあるが、雷光のように速くすぐれたドリブルテクニックを持つ“ルーマニアの神童”と呼ばれている左ウイング。もともとラピドのユースアカデミー出身だが、当時の監督がその際立った才能を当時国内最強クラブのディナモに紹介。そしてたった9試合の出場数を残して世界的に若手の発掘・育成に定評のあるオランダのアヤックスに見初められると2003年に参加した短期トライアルでも年齢からは信じられないプレーを披露して見事合格となった。まずは2軍からのスタートとなったが、当時2軍監督をしていたファン・バステンの推挙によりトップチームに上げられるとすぐにリーグ戦で連続得点を決めて実力者たちからスタメンの座をいとも簡単に奪うことに成功。18歳にしてチャンピオンズリーグに出場する栄誉も得ると、その活躍を知って慌てたルーマニアから代表のウクライナ戦に急遽召集されるというサクセスストーリーを築いた。ヨルダネスク政権時はミテアを年齢で判断するというアホ監督のせいで2006年W杯予選はあまり重宝されずユース代表送りにもなったが、その翌節のスタメン10人がケガで辞退という緊急事態になったアルメニア戦(それまで未勝利で最下位のチーム。決してとりこぼしの許されないこのゲームで引分という失態を演じて予選敗退の原因になった試合)に調子よく召集したヨルダネスク監督に対して辞退し意地を通した。この試合以降のピツルカ体制になってからはファーストチョイスでマケドニア戦では2ゴールを記録して代表の危機を救うも、05/06シーズンのプレシーズンマッチで大怪我をしてしまい、1年間を棒に振った。その後も出場機会は限られ、07/08シーズンにはついにトップチームでの出場はゼロになる。本人のプライドも邪魔してか国内復帰にはずっと難色を示していたが、もはや選べない立場としてディナモに復帰した。まだ若いこともあるのとケガ以前は絶好調であったことから出場機会さえあれば代表でも戦力になると願っているファンは国内外問わず多かったものの、プライド以上に選手としての力量としてはもう見る影もないことが、プロイエシュティ解雇によって明らかになった。(2012.4.2更新C)

 アレクサンドル・ボウルチェアヌ - Alex Bourceanu
04-08 ドゥナレア・ガラツィ 96-7
08-09 オツェルル・ガラツィ 31-1
09-11 FCティミショアラ 54-2
11-12 ステアウア・ブカレスト 31-0
12-13 ステアウア・ブカレスト -
1985年4月24日生まれ 初代表:2009年2月11日クロアチア戦
17試合−無得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
代表キャップ10以降に更新予定

国内の活躍が代表で発揮できない内弁慶
 フローリン・コステア - Florin Constantin Costea
03-06 ルムニク・ヴルチェア(B) 22-7
05-11 ウニベルシタテア・クライオバ 120-47
11-12 ステアウア・ブカレスト 19-1
1985年5月16日生まれ 初代表:2008年8月20日ラトビア戦
6試合−無得点 ラスト:2009年月日セルビア戦
代表キャップ10以降に更新予定

多国籍軍でスタメンを保持した若き金獅子
 チプリアン・デアク - Ciprian Ioan Deac
04-07 ウニレア・デジ 40-4
06-08 CFRクルージュ 21-0
07-08 オツェルル・ガラツィ 15-2
06-10 CFRクルージュ 42-4
10-11 シャルケ(GER) 2-0
11-12 ラピド・ブカレスト 29-9
12-13 CFRクルージュ -
1986年2月16日生まれ 初代表:2010年3月3日イスラエル戦
11試合−無得点 ラスト:2011年3月26日ボスニア戦
気分が乗り次第で更新予定

ムトゥの系譜を継ぐ左サイドのバンディエラ −現代表スタメン
 クリスティアン・タナーセ - Cristian Tanase
03-09 アルジェシュ・ピテシュティ 103-7
09-12 ステアウア・ブカレスト 78-6
12-13 ステアウア・ブカレスト -
1987年2月18日生まれ 初代表:2008年11月19日グルジア戦
25試合−4得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
気分が乗り次第で更新予定

 ヨヌーツ・ネアグ - Ionut Neagu
08-09 オツェルルUガラツィ 23-5
08-09 オツェルル・ガラツィ 2-0
09-10 オツェルルUガラツィ 2-0
09-12 オツェルル・ガラツィ 74-1
12-13 オツェルル・ガラツィ -
1989年10月26日生まれ 初代表:2011年11月15日ギリシャ戦
3試合−無得点 ラスト:2012年2月29日ウルグアイ戦
代表キャップ10以降に更新予定

右サイドを切り裂く現代表の若きエース −現代表スタメン
 ガブリエル・トルジェ - Gabriel Andrei Torje
05-06 CFRティミショアラ(B) 8-1
05-06 ポリ・ティミショアラ 5-1
06-07 ポリ・ティミショアラU(B) 8-4
06-08 ポリ・ティミショアラ 32-1
07-11 ディナモ・ブカレスト 103-16
11-12 ディナモ・ブカレスト 5-1
11-12 ウディネーゼ(ITA) 21-2
12-13 グラナダ(SPA) -
1989年11月22日生まれ 初代表:2010年9月3日アルバニア戦
24試合−8得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
気分が乗り次第で更新予定