Romanian Goalkeeper
1970年代に君臨した不動の守護神 | ||||||||||||||||||||||||
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ネクラ・ラドゥカヌ - Necula Raducanu |
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1946年5月10日生まれ | 初代表:1967年6月24日イタリア戦 | |||||||||||||||||||||||
61試合−無得点 | ラスト:1978年10月25日ユーゴスラビア戦 | |||||||||||||||||||||||
力強い体格に似合わずその長いリーチを生かしたアクロバティックナプレーが売りの70年代を代表するGK。23歳にしてその落ち着いたパフォーマンスで国内ナンバー1と評価され、1970年メキシコワールドカップ予選で活躍したが、コンディション不調が影響して本選では2ヶ月前に代表デビューしたばかりのステレ・アダマケにポジションを奪われ途中出場で1試合しか出れずに苦汁を味わう。以後の70年代はルーマニアが大舞台の本選出場はならなかったが、72年、74年、76年予選は1試合を除き20試合にスタメン出場した。またGKとして初の50キャップオーバーを果たした選手で、それまでの記録がイオン・ヴォイネスクの22キャップなことからその経験は絶大。ポジション全体でもミルチェア・ルチェスクに次ぐものだった。クラブではユースから昇格したラピドのデビュー初年度にリーグ優勝を経験し、カップ戦は3度制覇。また足下の技術もそれなりに信頼のあるものらしく、ラピドでPKキッカーとして7得点、76/77シーズンのUEFAカップ1回戦でも先制点を決めている。(2005.6.18更新) |
低迷期にイングランド戦で魅せたヒーロー・オブ・ウェンブリー | |||||||||
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バシレ・ヨルダケ - Vasille Iordache |
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1950年10月1日生まれ | 初代表:1976年5月12日ブルガリア戦 | ||||||||
25試合−無得点 | ラスト:1984年7月31日中国戦 | ||||||||
黎明期を支えた安定度抜群のGKで80年、81年と2年連続でGKでありながらルーマニア最優秀選手の4位にランクされている。77年の代表3キャップ目から病気がちだったこともあり、約3年のブランクがあったが、80年1月に復帰して以降は12連続スタメンを記録。特に1981年のウェンブリーでのワールドカップ予選イングランド戦で名だたるFWの猛攻をはじき返して無失点に抑え、この試合でのヨルダケの柔軟性、反射神経、空中戦における的確な判断能力は各方面から高い評価を得た。今も“Hero of Wembley”としてステアウアのファンの記憶に残っている。クラブではステアウアでリーグ・カップ共に2度優勝を経験した後、84年に引退してコーチとしてドゥカダムとストゥンガチウを育てた。1986年のトヨタカップではドゥカダムの手術によりストゥンガチウのサブとして一時的に現役復帰して来日している。(2005.6.18更新A) |
84年欧州選手権に出場したディナモの巨漢守護神 | |||||||||||||||||||||
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ドゥミトル・モラル - Dumitru Moraru |
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1956年5月8日生まれ | 初代表:1975年9月24日ギリシャ戦 | ||||||||||||||||||||
39試合−無得点 | ラスト:1988年3月30日東ドイツ戦 | ||||||||||||||||||||
がっちりとした体型でプレースタイルも似ていたラドゥカヌの後継者としてバックアッパーを務めた。当初は大事な試合はラドゥカヌ、親善試合でモラルというように使い分けられたがここで十分な経験を積んだ。途中ヨルダケの好調などもあり1年間の代表ブランクがあったが、1年半に渡りポジションも確保。84年欧州選手権予選途中からルングの後塵をはいして本選では1試合の出場に留まった。クラブでは10歳の時にメタルールのユースに入団してから着実に成長して16歳で2部リーグに出場。その能力が盟主ステアウアの目に留まり、ステアウアで2度のリーグ制覇、ラドゥカヌとの交換で移籍したスポルツールではタイトルに恵まれなかったが、ディナモでリーグ3連覇を経験し、カップ戦では計4回制覇している。74年のAデビュー以来14年間、常に6位以上の成績を収めたブカレストの5チームに在籍したため、欧州カップ戦には多く出場している。83/84シーズンのディナモがチャンピオンズカップのベスト4に進出したのも彼の貢献が大きく、この年の2冠も制したGKとしてルーマニア最優秀選手の5位に選ばれている。(2008.11.10更新A) |
キャプテンとしてW杯を経験した1980年代ナンバー1守護神 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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シルビウ・ルング - Silviu Lung | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1956年9月9日生まれ 194cm 85kg 通算代表歴:77試合−無得点 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代表:1979年3月21日ギリシャ戦 最終代表:1993年6月2日チェコスロバキア戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1984年欧州選手権出場(2試合)・1990年ワールドカップ出場(4試合) ルーマニア最優秀選手:1984年・1位。その他3回ベスト5にランクイン |
1986年チャンピオンズカップ決勝で輝いた華 | |||||||||||||||
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ヘルムート・ドゥカダム - Helmuth Duckadam |
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1959年4月1日生まれ | 初代表:1982年9月1日デンマーク戦 | ||||||||||||||
2試合−無得点 | ラスト:1982年11月17日東ドイツ戦 | ||||||||||||||
86年ヨーロッパチャンピオンズカップ決勝のバルセロナ戦で120分間の猛攻を無失点に抑え、PK戦では4本のシュート全てをストップした「セビリアの英雄」。その功績から86年ルーマニア最優秀選手に輝いた。全盛期のステアウアでの2年間でリーグ2連覇とカップを制しているが、代表ではヨルダケ、モラル、ルングの時代だったのでチャンスがなく2キャップしか記録しておらず、バルセロナ戦の栄光の直後に右腕が原因不明の血栓症に犯され緊急手術。右腕切断という最悪の事態は避けられたものの、トヨタカップ出場は第2GKのストゥンガチウに譲るばかりか、それ以降姿をくらます。3年後に故郷のアラドで過ごして引退した。また、当時ステアウアを自分のおもちゃとしていたチャウシェスク大統領の息子バレンティンと一人の女性を巡り三角関係になったため、バレンティンがドゥカダムを狩猟に招待して故意に腕を撃ち抜いたとか、バルセロナに勝利した立役者としてライバルクラブのレアル・マドリッドから贈られた高級車を欲しがったバレンティンの要求を拒んだために、拷問により殺されたという噂もあった。事実としては決勝戦以降にルーマニアで彼を見た者はいなかったらしかったが、後々に姿を現して「当時は死んだことにしてもらって、ずっと独裁政権時代が変わるのを待っていた」とコメントしている。(2005.6.19更新A) |
棚ボタながらトヨタカップの正ゴールキーパー | |||||||||||||||||||||
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ドゥミトル・ストゥンガチウ - Dumitru Stingaciu |
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1964年8月9日生まれ | 初代表:1992年4月8日ラトビア戦 | ||||||||||||||||||||
5試合−無得点 | ラスト:1998年6月6日モルドバ戦 | ||||||||||||||||||||
長身で安定感のあるGK。ブラショフ出身で82/83シーズンに1部デビューしたものの翌年にクラブが降格したがステアウアにドゥカダムの控えとして迎えられて4連覇を経験。チャンピオンズカップ決勝の英雄だったドゥカダムの怪我によりトヨタカップでは急遽第1GKとしてスタメン出場した幸運の持ち主。その後移籍してきたルングにはじかれるようにレンタルで放出されたが、復帰後は守護神としてリーグ3連覇に貢献し、この間の6シーズンでチャンピオンズリーグなどの国際試合では25試合に出場して経験を積んだ。95年からはずっとトルコリーグの中堅コカエリスポールでプレーして評価されていたが、国際舞台からは遠ざかった。96/97シーズンの国内カップ制覇によるカップ・ウィナーズ・カップが久々のお披露目となる。代表では困った時に2,3年ぶりに召集されるぐらいのレベル。98年W杯フランス大会には予選で1試合出場するも本戦では第3GKとしてもちろん出場はなかった。(2005.6.19更新A) |
GK最多キャップの1990年代ナンバー1守護神 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ボグダン・ステレア - Bogdan Georghe Stelea | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1967年12月5日生まれ 190cm 87kg 通算代表歴:91試合−無得点 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代表:1989年5月17日ブルガリア戦 最終代表:2005年2月9日スロヴァキア戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1990年ワールドカップ出場(0試合)・1994年ワールドカップ出場(2試合)・1998年ワールドカップ出場(4試合) 1996年欧州選手権出場(2試合)・2000年欧州選手権出場(4試合) ルーマニア最優秀選手:1998年・4位 |
黄金時代にステレアと競い続けたライバル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フローリン・プルネア - Florin Prunea |
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1968年8月8日生まれ | 初代表:1990年12月5日サンマリノ戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
40試合−無得点 | ラスト:2001年4月25日スロバキア戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
92年頃から代表レベルに台頭してきたが常にステレアとのライバル関係にあり、デッドヒートを繰り広げたGK。94年のW杯ではステレアの不調により3戦目からスタメンの座を確保してトーナメント1回戦のアルゼンチン戦では好調なパフォーマンスで勝利を収める一方、スウェーデン戦では終了間際に飛び出しのミスで同点ゴールを奪われたというように天国と地獄を味わった。95年の欧州選手権予選アゼルバイジャン戦では83分にステレアに代わり途中出場したことで同時期に代表デビューした二人のGKがこの試合で共に代表27キャップを記録するという珍記録が生まれている。96年以降はずっと第2GKで98年にはすでに出番はなかった。その後は若きロボンツの台頭により召集もされていない。クラブでは90年にクライオバのナンバー1GKとしてリーグ・カップの2冠に貢献してから注目され始めて、移籍したディナモで6シーズンを過ごす。以降はスタメン定着にはならず、毎年移籍を繰り返している。2003年1月には国内の問題となっていたリーグ全体の選手への給料未払い問題に選手会副会長として立ち上がり、リーグ会長と争ったため罰金と出場停止処分を下されるが、サッカー協会会長と国内及び海外選手からの支持によって処分は取り消しになった。(2005.6.19更新A) |
猫のような俊敏さで神と呼ばれる2000年代ナンバー1守護神 −現代表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ボグダン・ロボンツ - Bogdan Ionut Lobont | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1978年1月18日生まれ 183cm 75kg 通算代表歴:82試合−無得点 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代表:1998年9月2日リヒテンシュタイン戦 最終代表:2012年9月11日アンドラ戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2000年欧州選手権出場(0試合)・2008年欧州選手権出場(3試合) ルーマニア最優秀選手:2003年・3位 2007年・3位 2008年・4位 |
ロボンツと同レベルの堅実派ライバル | ||||||||||||||||||||||||
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ダヌーツ・コマン - Danut Dumitru Coman |
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1979年3月28日生まれ | 初代表:2005年11月16日ナイジェリア戦 | |||||||||||||||||||||||
14試合−無得点 | ラスト:2009年10月10日セルビア戦 | |||||||||||||||||||||||
地味ながら堅実なプレースタイル、しかし連発すると止まらないスーパーセーブでいまやリーグの守護神に君臨している選手。アルジェシュ生え抜きのGKで同期のムトゥとネアガとはピテシュティの3悪童としてならした10代の頃から将来有望な選手としてユース代表でもロボンツと共に期待されていたが、度重なるケガに苦しんで思うように活躍できなかった。しかし04年になるとケガも完治してそのプレーぶりがラピドに認められて移籍してからは遅まきながら成功への道を歩むことになる。05/06シーズンにはリーグこそ2位に終わったが、元代表GKドルハからポジションを奪い、カップ制覇とUEFAカップベスト8の成績に貢献した。そしてこの頃代表にも初召集されている。その後着実に成長していき、信頼できる第2GKとして初キャップを記録。ロボンツのクラブでの不遇の一時期に代表正GKとしてゴールマウスを守っていて、その信頼感は前者に匹敵すると言われていたが、こちらもケガにより現在は第2GKに甘んじている。プレー自体は遜色ないものがあるのでバックアッパーとして重宝されていたが、07/08シーズン後半のケガに加え、海外への移籍志願と契約延長拒否により、代表どころかチーム内で飼い殺し状態にあった。ブラショフ移籍後に復調し、ロボンツが怪我で離脱したこともあり、2009年6月に代表復帰したものの、若手に譲る形で代表は引退している。(2012.9.12更新C) |
誇る安定感でパンティリモンとしのぎを削るナンバー2 −現代表 | |||||||||||||||
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チプリアン・タタルシャヌ - Ciprian Anton Tatarusanu |
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1986年2月9日生まれ | 初代表:2010年11月17日イタリア戦 | ||||||||||||||
16試合−無得点 | ラスト:2012年11月14日ベルギー戦 | ||||||||||||||
U21代表からパンティリモンの同期で、こちらはどっしりとゴールマウスに構え、ミスの少ない堅実なプレーで君臨するライバル。2部のユベントス・ブカレストでキャリアを重ね、06年には下部リーグの選手ながらもU21代表に抜擢。07年夏にビストリツァでトップリーグデビューすると1年を通して安定したプレーを見せ、同時期のU21代表では不動の守護神として活躍。これが認められて、09年夏にステアウアに入団。初年度は併用で15試合出場に留まるも、10/11シーズンでは全34試合にフル出場。この1年間でA代表にも定着。ジュニア時代からライバルのパンティリモンとともに、現在と将来に渡りルーマニア代表の鉄の双璧と期待されている。(2011.6.17更新) |
ロボンツの俊敏さを継ぐ長身の守護神 −現代表サブ | ||||||||||||||||||
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コステル・パンティリモン - Costel Fane Pantilimon |
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1987年2月1日生まれ | 初代表:2008年11月19日グルジア戦 | |||||||||||||||||
14試合−無得点 | ラスト:2011年10月6日ベラルーシ戦 | |||||||||||||||||
2mを超える長身でありながら、ロボンツのような俊敏なプレーでビッグセーブを連発する現代表守護神。U21代表に選ばれるなどそのポテンシャルには早きから各国スカウトのターゲットとなっていたが、それに慢心することなく、プレッシャーの少ない中堅クラブのティミショアラで将来の布石としてコンスタントにチャンスを与えらた。それが功を奏してリーグで安定したプレーを見せると2008年から正守護神に。その活躍でクラブを優勝争い常連へと引っ張るとリーグのベストGKにも選出。2008年欧州選手権後のロボンツ不調のタイミングに恵まれて、代表のファーストチョイスとなる。クラブでの欧州戦や代表でもフィジカルを生かしたプレーでタタルシャヌと共に将来の不安を払拭させた。しかしながら明らかにスタメンは厳しいであろうマンチェスター・シティからの魅力的なオファーを受け入れたため、第2GKとしてカップ戦のみの出場に。よって能力は十分ながら、コンスタントな出場と言う代表の基準をクリアできず召集はまばらとなった。(2012.9.17更新) |