Romanian Goalkeeper

1970年代に君臨した不動の守護神
 ネクラ・ラドゥカヌ - Necula Raducanu
66-75 ラピド・ブカレスト 233-7
75-78 スポルツール・スツデンテスク 88-0
78-80 ステアウア・ブカレスト 22-0
79-80 FCMレシツァ(B) -
80-81 FCバイア・マーレ 10-0
80-81 アウトブズル・ブカレスト(B) -
81-82 スパルタク・ブカレスト(B) -
1946年5月10日生まれ 初代表:1967年6月24日イタリア戦
61試合−無得点 ラスト:1978年10月25日ユーゴスラビア戦
力強い体格に似合わずその長いリーチを生かしたアクロバティックナプレーが売りの70年代を代表するGK。23歳にしてその落ち着いたパフォーマンスで国内ナンバー1と評価され、1970年メキシコワールドカップ予選で活躍したが、コンディション不調が影響して本選では2ヶ月前に代表デビューしたばかりのステレ・アダマケにポジションを奪われ途中出場で1試合しか出れずに苦汁を味わう。以後の70年代はルーマニアが大舞台の本選出場はならなかったが、72年、74年、76年予選は1試合を除き20試合にスタメン出場した。またGKとして初の50キャップオーバーを果たした選手で、それまでの記録がイオン・ヴォイネスクの22キャップなことからその経験は絶大。ポジション全体でもミルチェア・ルチェスクに次ぐものだった。クラブではユースから昇格したラピドのデビュー初年度にリーグ優勝を経験し、カップ戦は3度制覇。また足下の技術もそれなりに信頼のあるものらしく、ラピドでPKキッカーとして7得点、76/77シーズンのUEFAカップ1回戦でも先制点を決めている。(2005.6.18更新)

低迷期にイングランド戦で魅せたヒーロー・オブ・ウェンブリー
 バシレ・ヨルダケ - Vasille Iordache
68-71 ポリテニカ・ヤシ 40-0
71-84 ステアウア・ブカレスト 231-0
1950年10月1日生まれ 初代表:1976年5月12日ブルガリア戦
25試合−無得点 ラスト:1984年7月31日中国戦
黎明期を支えた安定度抜群のGKで80年、81年と2年連続でGKでありながらルーマニア最優秀選手の4位にランクされている。77年の代表3キャップ目から病気がちだったこともあり、約3年のブランクがあったが、80年1月に復帰して以降は12連続スタメンを記録。特に1981年のウェンブリーでのワールドカップ予選イングランド戦で名だたるFWの猛攻をはじき返して無失点に抑え、この試合でのヨルダケの柔軟性、反射神経、空中戦における的確な判断能力は各方面から高い評価を得た。今も“Hero of Wembley”としてステアウアのファンの記憶に残っている。クラブではステアウアでリーグ・カップ共に2度優勝を経験した後、84年に引退してコーチとしてドゥカダムとストゥンガチウを育てた。1986年のトヨタカップではドゥカダムの手術によりストゥンガチウのサブとして一時的に現役復帰して来日している。(2005.6.18更新A)

84年欧州選手権に出場したディナモの巨漢守護神
 ドゥミトル・モラル - Dumitru Moraru
72-74 メタルール・ブカレスト(B) 56-0
74-78 ステアウア・ブカレスト 88-0
78-81 スポルツール・スツデンテスク 88-0
81-89 ディナモ・ブカレスト 212-0
89-90 ビクトリア・ブカレスト 5-0
90-91 IKスタルト(NOR) 41-0
1956年5月8日生まれ 初代表:1975年9月24日ギリシャ戦
39試合−無得点 ラスト:1988年3月30日東ドイツ戦
がっちりとした体型でプレースタイルも似ていたラドゥカヌの後継者としてバックアッパーを務めた。当初は大事な試合はラドゥカヌ、親善試合でモラルというように使い分けられたがここで十分な経験を積んだ。途中ヨルダケの好調などもあり1年間の代表ブランクがあったが、1年半に渡りポジションも確保。84年欧州選手権予選途中からルングの後塵をはいして本選では1試合の出場に留まった。クラブでは10歳の時にメタルールのユースに入団してから着実に成長して16歳で2部リーグに出場。その能力が盟主ステアウアの目に留まり、ステアウアで2度のリーグ制覇、ラドゥカヌとの交換で移籍したスポルツールではタイトルに恵まれなかったが、ディナモでリーグ3連覇を経験し、カップ戦では計4回制覇している。74年のAデビュー以来14年間、常に6位以上の成績を収めたブカレストの5チームに在籍したため、欧州カップ戦には多く出場している。83/84シーズンのディナモがチャンピオンズカップのベスト4に進出したのも彼の貢献が大きく、この年の2冠も制したGKとしてルーマニア最優秀選手の5位に選ばれている。(2008.11.10更新A)

キャプテンとしてW杯を経験した1980年代ナンバー1守護神
 シルビウ・ルング - Silviu Lung
  1956年9月9日生まれ   194cm 85kg   通算代表歴:77試合−無得点
  初代表:1979年3月21日ギリシャ戦   最終代表:1993年6月2日チェコスロバキア戦
長くウニベルシタテアでプレーした80年代ナンバー1長身GK。代表デビューは23歳の時だったがケガの影響で代表3キャップの記録した1982年3月までに約3年のブランクが空いてしまった。その後は代表でのライバルであるディナモのモラルからポジションを奪い本選ナンバー1のユニフォームを手に入れる。この活躍から1984年のルーマニア最優秀選手を受賞。その後もナンバー1の座を守り続けて、ボローニ引退後の90年ワールドカップ予選から代表キャプテンとして20年ぶりの本選出場に貢献した。92年欧州選手権予選初戦のスコットランド戦以後約1年間代表を離れるが、その予選終盤に復帰して6試合連続出場する。そしてまた1年半ぶりの突然召集となった94年ワールドカップ予選チェコスロバキア戦に出場したが、屈辱の5失点を喫して最後の代表試合となった。クラブでは14年間のクライオバ時代に79/80、80/81のリーグ2連覇、翌年のチャンピオンズカップベスト8、翌々年のUEFAカップベスト4などクラブのいわゆる“クライオバ・マキシマ”として知られる黄金期を経験。88年にステアウアに移籍した初年度にはリーグ・カップの2冠とチャンピオンズカップ準優勝という栄光に携わった。20年間の国内リーグでは常時6位以内の強豪に在籍したため欧州カップ戦には恵まれていた。総欧州戦56試合は国内選手としては歴代5位でもちろんGKとしてはダントツの1位記録である(リーグ通算出場419試合は9位)。引退後は主にクライオバのコーチや監督を経験し、99年から2002年まで名古屋グランパスのGKコーチを務めていた。日本語ペラペラな陽気な外人さんらしい。(2005.6.18更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
72-73 ヴィクトリア・カレイ 18-0 C1
73-74 ヴィクトリア・カレイ 24-0 B7
74-75 ウニベルシタテア・クライオバ 6-0 A3 1-0(2G)
75-76 ウニベルシタテア・クライオバ 9-0 A6 1-0(2G)
76-77 ウニベルシタテア・クライオバ 22-0 A3
77-78 ウニベルシタテア・クライオバ 15-0 A6 2-0(4G)
78-79 ウニベルシタテア・クライオバ 24-0 A4 2-0(2G)
79-80 ウニベルシタテア・クライオバ 3-0 A1 1-0(6G)
80-81 ウニベルシタテア・クライオバ 20-0 A1 2-0(2G)
81-82 ウニベルシタテア・クライオバ 21-0 A2 4-0(6G)
82-83 ウニベルシタテア・クライオバ 32-0 A2 10-0(10G)
83-84 ウニベルシタテア・クライオバ 29-0 A3 2-0(2G)
84-85 ウニベルシタテア・クライオバ 33-0 A4 6-0(6G)
85-86 ウニベルシタテア・クライオバ 34-0 A3 4-0(4G)
86-87 ウニベルシタテア・クライオバ 33-0 A5 2-0(4G)
87-88 ウニベルシタテア・クライオバ 27-0 A5 1-0(2G)
88-89 ステアウア・ブカレスト 29-0 A1 9-0(9G)
89-90 ステアウア・ブカレスト 20-0 A2 4-0(4G)
90-91 ログロニェス(SPA) 9-0 A10  
91-92 エレクトロプテーレ・クライオバ 22-0 A3
92-93 エレクトロプテーレ・クライオバ 13-0 A6 2-0(2G)
ウニベルシタテア・クライオバ 16-0 A3
93-94 ウニベルシタテア・クライオバ 10-0 A2 3-0(4G)
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1984年欧州選手権出場(2試合)・1990年ワールドカップ出場(4試合)
ルーマニア最優秀選手:
1984年・1位。その他3回ベスト5にランクイン

1986年チャンピオンズカップ決勝で輝いた華
 ヘルムート・ドゥカダム - Helmuth Duckadam
75-77 グロリア・アラド(C) -
77-83 UTAアラド 53-0
83-86 ステアウア・ブカレスト 80-0
91-92 ラピド・アラド(B) -
1959年4月1日生まれ 初代表:1982年9月1日デンマーク戦
2試合−無得点 ラスト:1982年11月17日東ドイツ戦
86年ヨーロッパチャンピオンズカップ決勝のバルセロナ戦で120分間の猛攻を無失点に抑え、PK戦では4本のシュート全てをストップした「セビリアの英雄」。その功績から86年ルーマニア最優秀選手に輝いた。全盛期のステアウアでの2年間でリーグ2連覇とカップを制しているが、代表ではヨルダケ、モラル、ルングの時代だったのでチャンスがなく2キャップしか記録しておらず、バルセロナ戦の栄光の直後に右腕が原因不明の血栓症に犯され緊急手術。右腕切断という最悪の事態は避けられたものの、トヨタカップ出場は第2GKのストゥンガチウに譲るばかりか、それ以降姿をくらます。3年後に故郷のアラドで過ごして引退した。また、当時ステアウアを自分のおもちゃとしていたチャウシェスク大統領の息子バレンティンと一人の女性を巡り三角関係になったため、バレンティンがドゥカダムを狩猟に招待して故意に腕を撃ち抜いたとか、バルセロナに勝利した立役者としてライバルクラブのレアル・マドリッドから贈られた高級車を欲しがったバレンティンの要求を拒んだために、拷問により殺されたという噂もあった。事実としては決勝戦以降にルーマニアで彼を見た者はいなかったらしかったが、後々に姿を現して「当時は死んだことにしてもらって、ずっと独裁政権時代が変わるのを待っていた」とコメントしている。(2005.6.19更新A)

棚ボタながらトヨタカップの正ゴールキーパー
 ドゥミトル・ストゥンガチウ - Dumitru Stingaciu
82-84 FCブラショフ 5-0
84-88 ステアウア・ブカレスト 58-0
88-89 FCオルト 16-0
89-95 ステアウア・ブカレスト 133-0
95-96 ヴァンスポール(TUR) 23-0
96-01 コカエリスポール(TUR) 94-0
1964年8月9日生まれ 初代表:1992年4月8日ラトビア戦
5試合−無得点 ラスト:1998年6月6日モルドバ戦
長身で安定感のあるGK。ブラショフ出身で82/83シーズンに1部デビューしたものの翌年にクラブが降格したがステアウアにドゥカダムの控えとして迎えられて4連覇を経験。チャンピオンズカップ決勝の英雄だったドゥカダムの怪我によりトヨタカップでは急遽第1GKとしてスタメン出場した幸運の持ち主。その後移籍してきたルングにはじかれるようにレンタルで放出されたが、復帰後は守護神としてリーグ3連覇に貢献し、この間の6シーズンでチャンピオンズリーグなどの国際試合では25試合に出場して経験を積んだ。95年からはずっとトルコリーグの中堅コカエリスポールでプレーして評価されていたが、国際舞台からは遠ざかった。96/97シーズンの国内カップ制覇によるカップ・ウィナーズ・カップが久々のお披露目となる。代表では困った時に2,3年ぶりに召集されるぐらいのレベル。98年W杯フランス大会には予選で1試合出場するも本戦では第3GKとしてもちろん出場はなかった。(2005.6.19更新A)

GK最多キャップの1990年代ナンバー1守護神
 ボグダン・ステレア - Bogdan Georghe Stelea
  1967年12月5日生まれ   190cm 87kg   通算代表歴:91試合−無得点
  初代表:1989年5月17日ブルガリア戦   最終代表:2005年2月9日スロヴァキア戦
大型ではないが鋭い反応と、素早い飛び出しで90年代のルーマニアのゴールマウスを守ったハゲ。94年まではプルネアと出場機会を分け合っていたが、それ以降の大舞台は常に第1GKであり、東欧では屈指のGKとして知られていた。しかし、94W杯スイス戦の4失点や96欧州選手権フランス戦のしなくてもいい飛び出しで失点を許してしまうなど大事なところでの致命的な判断ミスが多い。特に2002W杯プレーオフ・スロヴェニア戦での失点は彼のポジショニングミスであることは明らかで出場を逃した最大の原因とされている。また手足が長くガッチリした体格のため「サイボーグ」と表現されるが、よく股の下をゴールされている。クラブでは89/90シーズンのディナモで2冠とカップ・ウィナーズ・カップでベスト4、95年に加入したステアウアで2年連続の2冠に輝いているが、スペインではほとんど2部で過ごした。06年からはペトレスク監督に請われて昇格クラブのウルジチェニに入団したが、ケガで後半はほとんどプレーできなかった。引退示唆を撤回しての最後の巻き返しを図って入団したブラショフでは往年の実力と経験で安定したプレーを披露し、9位ながらステアウアに次ぐ最小失点で有終の美を飾る。シーズン後の評価では国内ベスト3の称号を得て、42歳で引退した。(2007.10.3更新B)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
86-87 ディナモ・ブカレスト 1-0 A2
87-88 ディナモ・ブカレスト 9-0 A2
88-89 ディナモ・ブカレスト 29-0 A2 6-0(6G)
89-90 ディナモ・ブカレスト 22-0 A1 8-0(8G)
90-91 ディナモ・ブカレスト 26-0 A3 4-0(4G)
91-92 ディナモ・ブカレスト 11-0 A1 4-0(4G)
マジョルカ(SPA) 27-0 A20
92-93 マジョルカ(SPA) 25-0 B4
93-94 S・リエージュ(BEL) 3-0 A6
93-94 ラピド・ブカレスト 13-0 A4
94-95 サムスンスポール(TUR) 31-0 A8
95-96 ステアウア・ブカレスト 25-0 A1 8-0(2+6G)
96-97 ステアウア・ブカレスト 32-0 A1 5-0(2+6G)
97-98 サラマンカ(SPA) 30-0 A15
98-99 サラマンカ(SPA) 33-0 A20
99-00 サラマンカ(SPA) 28-0 B4
00-01 サラマンカ(SPA) 14-0 B9
01-02 サラマンカ(SPA) 3-0 B9
ラピド・ブカレスト 10-0 A3
02-03 サラマンカ(SPA) 36-0 B7
03-04 サラマンカ(SPA) 16-0 B11
04-05 ディナモ・ブカレスト 13-0 A2
05-06 アクラティトス(GRE) 14-0 A16
オツェルル・ガラツィ 0-0 A9
06-07 ウニレア・ウルジチェニ 9-0 A10
07-08 ウニレア・ウルジチェニ 26-0 A5
08-09 FCブラショフ 23-0 A9
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(0試合)・1994年ワールドカップ出場(2試合)・1998年ワールドカップ出場(4試合)
1996年欧州選手権出場(2試合)・2000年欧州選手権出場(4試合)
ルーマニア最優秀選手:
1998年・4位

黄金時代にステレアと競い続けたライバル
 フローリン・プルネア - Florin Prunea
85-88 ディナモ・ブカレスト 4-0
88-90 ウニベルシタテア・クルージュ 56-0
90-92 ウニベルシタテア・クライオバ 48-0
92-98 ディナモ・ブカレスト 163-0
97-98 ウニベルシタテア・クルージュ 7-0
98-99 エルズルムスポール(TUR) 11-0
99-00 アストラ・プロイエシュティ 1-0
99-00 ウニベルシタテア・クライオバ 24-0
00-01 リテックス・ロベチ(BUL) 8-0
00-02 ディナモ・ブカレスト 22-0
02-03 FCMバカウ 27-0
03-04 FCブラショフ 14-0
03-04 FCMバカウ 15-0
04-05 スコダ・クサンシ(GRE) 2-0
05-06 ナシオナル・ブカレスト 4-0
1968年8月8日生まれ 初代表:1990年12月5日サンマリノ戦
40試合−無得点 ラスト:2001年4月25日スロバキア戦
92年頃から代表レベルに台頭してきたが常にステレアとのライバル関係にあり、デッドヒートを繰り広げたGK。94年のW杯ではステレアの不調により3戦目からスタメンの座を確保してトーナメント1回戦のアルゼンチン戦では好調なパフォーマンスで勝利を収める一方、スウェーデン戦では終了間際に飛び出しのミスで同点ゴールを奪われたというように天国と地獄を味わった。95年の欧州選手権予選アゼルバイジャン戦では83分にステレアに代わり途中出場したことで同時期に代表デビューした二人のGKがこの試合で共に代表27キャップを記録するという珍記録が生まれている。96年以降はずっと第2GKで98年にはすでに出番はなかった。その後は若きロボンツの台頭により召集もされていない。クラブでは90年にクライオバのナンバー1GKとしてリーグ・カップの2冠に貢献してから注目され始めて、移籍したディナモで6シーズンを過ごす。以降はスタメン定着にはならず、毎年移籍を繰り返している。2003年1月には国内の問題となっていたリーグ全体の選手への給料未払い問題に選手会副会長として立ち上がり、リーグ会長と争ったため罰金と出場停止処分を下されるが、サッカー協会会長と国内及び海外選手からの支持によって処分は取り消しになった。(2005.6.19更新A)

猫のような俊敏さで神と呼ばれる2000年代ナンバー1守護神 −現代表
 ボグダン・ロボンツ - Bogdan Ionut Lobont
  1978年1月18日生まれ   183cm 75kg   通算代表歴:82試合−無得点
  初代表:1998年9月2日リヒテンシュタイン戦   最終代表:2012年9月11日アンドラ戦
各世代の代表守護神として活躍していた2部のコルビヌル時代から欧州トップクラスの潜在能力を持つGKとして、今まで懸念されていた代表ゴールマウスに以後10年以上安泰をもたらすと期待されているプレイヤー。ラピドに移籍したシーズンにカップを、翌年にはリーグ優勝をもたらして、キヴのいるオランダの強豪アヤックスへと飛び立っていった。しかし、初年度はベテランのグリムの牙城を崩せずにたった1試合の出場に留まり、グリムが引退して活躍が期待された翌年には肩のケガで出場のないままにディナモへとレンタルに出されてしまった。しかしそのディナモでの後半戦で復活し見事リーグ優勝に貢献。翌年戻ったアヤックスでは再度ケガに見舞われてスタートダッシュに乗り遅れるも復帰後はチャンピオンズリーグでのベスト8に貢献。迎えた03/04シーズンには念願のオランダでのリーグ優勝を味わう。代表ではラピドの優勝シーズンに呼ばれるようになり、2000年欧州選手権でもピツルカ代表監督が予選で起用し始めて世代交代が進むと思われたが、ピツルカが辞任に伴って後を継いだイエネイが保守的構想のため、本選はベテランのステレアが全試合に出場。この頃には実力はロボンツの方というのは明白に見えたが、2002年の日韓W杯予選もステレアが重宝されたため、スタメン定着にはならずに3試合の出場にとどまった。プレーオフでの敗戦の要因の一つとされるステレアの凡ミスでようやく見切りをつけて代表正GKになった。クラブでは05年頃に離婚問題に端を発したアルコール依存により、干されつつあったアヤックスから、フレイのケガによりGKを探していたフィオレンティーナに移り、穴を埋めて見せた。しかしフレイが復帰してから第2GKの立場になり、出場機会のないままディナモに復帰。しばらくはコマンに代表の座を譲るも、じきに安定したプレーで奪取。2008欧州選手権予選ではオランダ戦のシャットアウトを含め鬼神とも言えるスーパセーブの連続で代えの利かない存在であることを改めて証明し、本戦でも守備的陣形のチームにあって最後の砦として評価を上げた。以降はASローマの第2GKの座で甘んじたため、若手2選手に代表を奪われたが、ピツルカ第3次政権となった現在はタタルシャヌの不調、パンティのクラブでの不遇が追い風となって再度スタメンに返り咲いている。(2012.9.24更新)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
95-96 コルビヌル・フネドアラ 6-0 B10
96-97 コルビヌル・フネドアラ 34-0 B7
97-98 ラピド・ブカレスト 33-0 A2
98-99 ラピド・ブカレスト 31-0 A1 3-0(2+2G)
99-00 ラピド・ブカレスト 16-0 A2 2-0(2+0G)
00-01 アヤックス(NED) 1-0 A3
01-02 アヤックス(NED) 0-0 A1
ディナモ・ブカレスト 22-0 A1
02-03 アヤックス(NED) 17-0 A2 6-0(14G)
03-04 アヤックス(NED) 24-0 A1 6-0(2+6G)
04-05 アヤックス(NED) 7-0 A2 2-0(6G)
05-06 アヤックス(NED) 0-0 A4
フィオレンティーナ(ITA) 17-0 A4
06-07 フィオレンティーナ(ITA) 0-0 A5
06-07 ディナモ・ブカレスト 14-0 A1 1-0(4+8G)
07-08 ディナモ・ブカレスト 32-0 A4 2-0(2+0G) 2-0(2G)
08-09 ディナモ・ブカレスト 25-0 A3 2-0(2G)
09-10 ASローマ(ITA) 2-0 A2 1-0(4+8G)
10-11 ASローマ(ITA) 6-0 A6 3-0(8G)
11-12 ASローマ(ITA) 9-0 A7
12-13 ASローマ(ITA) - A
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
2000年欧州選手権出場(0試合)・2008年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:2003年・3位
2007年・3位 2008年・4位

ロボンツと同レベルの堅実派ライバル
 ダヌーツ・コマン - Danut Dumitru Coman
97-98 アルジェシュ・ピテシュティ 4-0
98-99 ロカル・ブカレスト(B) 10-0
99-05 アルジェシュ・ピテシュティ 55-0
04-08 ラピド・ブカレスト 82-0
08-10 FCブラショフ 33-0
10-12 ラピド・ブカレスト 42-0
12-13 ヴァスルイ -
1979年3月28日生まれ 初代表:2005年11月16日ナイジェリア戦
14試合−無得点 ラスト:2009年10月10日セルビア戦
地味ながら堅実なプレースタイル、しかし連発すると止まらないスーパーセーブでいまやリーグの守護神に君臨している選手。アルジェシュ生え抜きのGKで同期のムトゥとネアガとはピテシュティの3悪童としてならした10代の頃から将来有望な選手としてユース代表でもロボンツと共に期待されていたが、度重なるケガに苦しんで思うように活躍できなかった。しかし04年になるとケガも完治してそのプレーぶりがラピドに認められて移籍してからは遅まきながら成功への道を歩むことになる。05/06シーズンにはリーグこそ2位に終わったが、元代表GKドルハからポジションを奪い、カップ制覇とUEFAカップベスト8の成績に貢献した。そしてこの頃代表にも初召集されている。その後着実に成長していき、信頼できる第2GKとして初キャップを記録。ロボンツのクラブでの不遇の一時期に代表正GKとしてゴールマウスを守っていて、その信頼感は前者に匹敵すると言われていたが、こちらもケガにより現在は第2GKに甘んじている。プレー自体は遜色ないものがあるのでバックアッパーとして重宝されていたが、07/08シーズン後半のケガに加え、海外への移籍志願と契約延長拒否により、代表どころかチーム内で飼い殺し状態にあった。ブラショフ移籍後に復調し、ロボンツが怪我で離脱したこともあり、2009年6月に代表復帰したものの、若手に譲る形で代表は引退している。(2012.9.12更新C)

誇る安定感でパンティリモンとしのぎを削るナンバー2 −現代表
 チプリアン・タタルシャヌ - Ciprian Anton Tatarusanu
03-07 ユベントス・ブカレスト(B) 29-0
06-09 グロリア・ビストリツァ 45-0
09-12 ステアウア・ブカレスト 77-0
12-13 ステアウア・ブカレスト -
1986年2月9日生まれ 初代表:2010年11月17日イタリア戦
16試合−無得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
U21代表からパンティリモンの同期で、こちらはどっしりとゴールマウスに構え、ミスの少ない堅実なプレーで君臨するライバル。2部のユベントス・ブカレストでキャリアを重ね、06年には下部リーグの選手ながらもU21代表に抜擢。07年夏にビストリツァでトップリーグデビューすると1年を通して安定したプレーを見せ、同時期のU21代表では不動の守護神として活躍。これが認められて、09年夏にステアウアに入団。初年度は併用で15試合出場に留まるも、10/11シーズンでは全34試合にフル出場。この1年間でA代表にも定着。ジュニア時代からライバルのパンティリモンとともに、現在と将来に渡りルーマニア代表の鉄の双璧と期待されている。(2011.6.17更新)

ロボンツの俊敏さを継ぐ長身の守護神 −現代表サブ
 コステル・パンティリモン - Costel Fane Pantilimon
05-06 アエロスタル・バカウ -
05-08 FCUポリ・ティミショアラ 13-0
08-11 FCティミショアラ 80-0
11-12 マンチェスター・シティ(ENG) 0-0
12-13 マンチェスター・シティ(ENG) -
1987年2月1日生まれ 初代表:2008年11月19日グルジア戦
14試合−無得点 ラスト:2011年10月6日ベラルーシ戦
2mを超える長身でありながら、ロボンツのような俊敏なプレーでビッグセーブを連発する現代表守護神。U21代表に選ばれるなどそのポテンシャルには早きから各国スカウトのターゲットとなっていたが、それに慢心することなく、プレッシャーの少ない中堅クラブのティミショアラで将来の布石としてコンスタントにチャンスを与えらた。それが功を奏してリーグで安定したプレーを見せると2008年から正守護神に。その活躍でクラブを優勝争い常連へと引っ張るとリーグのベストGKにも選出。2008年欧州選手権後のロボンツ不調のタイミングに恵まれて、代表のファーストチョイスとなる。クラブでの欧州戦や代表でもフィジカルを生かしたプレーでタタルシャヌと共に将来の不安を払拭させた。しかしながら明らかにスタメンは厳しいであろうマンチェスター・シティからの魅力的なオファーを受け入れたため、第2GKとしてカップ戦のみの出場に。よって能力は十分ながら、コンスタントな出場と言う代表の基準をクリアできず召集はまばらとなった。(2012.9.17更新)