Romanian forward

リーグ創世記からの絶対無比のスタープレイヤー
 シュテファン・ドバイ - Stefan Dobay
26-29 バナトゥル・ティミショアラ -
30-40 リペンシア・ティミショアラ 153-123
40-41 CAクルージュ -
41-42 トレクヴェス(HUN) -
46-47 カレス・メディアシュ -
47-48 CSMメディアシュ 7-3
1909年9月26日生まれ 初代表:1930年5月25日ギリシャ戦
41試合−20得点 ラスト:1939年6月11日イタリア戦
非凡なパワーと針の目を通す精密さで主に左サイドから、時には信じられないような角度からもゴールを突き刺し、相手GKに恐れられた。17歳の時に鉄道労働者クラブのバナトゥルで地域トーナメントを戦い、28/29シーズンに1部トーナメントに昇格。その後クラブは解散の憂き目にあったが、各地域の有能選手を集めて結成されたリペンシアに参加すると32/33シーズンにルーマニア初のサッカーリーグ(Division A)でリーグ制覇と共に初代得点王に輝いた。リペンシアは読売巨人軍のような存在でスタメンは“ビッグ11”と呼ばれ、開設5年間でリーグ戦4度とカップ戦2度の制覇、ドバイ自身はその常勝軍団にあって初年度からの得点王3連覇と翌々年にも返り咲くと計93試合で96得点の荒稼ぎを残した。その後は優勝からは遠ざかるもののビンデアとの2トップでリーグに華を添え続け、38/39シーズンのミトロパカップ(後のUEFAカップ)でイタリアの強豪FCミランを破っている。41/42シーズンからはハンガリー2部のクラブに移籍したが、その直後に戦争の余波によってプレーが続行できなくなり、カレス・メディアシュで再開された頃には35歳を迎えていた。この2部のクラブを首位に押し上げて翌47/48シーズンに8年ぶりの1部でプレーして現役を引退している。代表では1934年の第2回と1938年の第3回のワールドカップに出場し、4銃士の他のバラツキ、ボドラ、ビンデアが予選と本戦の計5試合でバラツキの1得点のみだったのに比べて、ドバイは全ての試合で得点して格の違いを見せ付けた。1931年から開催されているバルカンカップにも6年連続出場し、33年の大会では大会得点王に輝いている。以後はディナモ・ブカレストなどの監督として1960年に退くまで多くのチームを率いて過ごし、1994年4月に代表の快進撃を見ることなく死去している。(2009.12.8更新)

常に女性のアイドルであり続けたドブリン以前のファンタジスタ
 ユリウ・バラツキ - Iuliu Baratki
28-30 CAオラデア -
30-33 MTAブダペスト(HUN) -
33-36 クリシャナ・オラデア 51-30
36-44 ラピド・ブカレスト 97-74
46-47 リベルタテア・オラデア 16-9
47-48 RATAトゥルグ・ムレシュ 2-0
1910年5月14日生まれ 初代表:1933年10月29日スイス戦
20試合−14得点 ラスト:1940年7月14日ドイツ戦
端正なマスクと奇想天外なドリブル能力で「ワンダーブロンド」と呼ばれたスター選手で、酒と女と音楽を愛した伊達男。当時のオーストリア=ハンガリー帝国領のオラデアに生まれ、12歳から18歳までスタルインツァという地元のユースチームで青年期を過ごす。CAオラデアを経て20歳になるとハンガリーリーグの首都強豪クラブであったMTAに移り3シーズンプレーし、優勝こそあと一歩で逃すが、そのドリブルからの得点能力で一気に若手のスターとして登りつめてハンガリー代表に選出される(30年から33年までの間に8試合に出場)。ハンガリー代表ではさしたる大会はなかったが、33/34シーズンからルーマニア領になった地元のオラデアの中堅クラブに移ると即座にルーマニア代表に選ばれて予選に1試合出場した後に34年ワールドカップの本戦メンバーに選ばれた(出場はならず)。3シーズン過ごしたクリシャナでは3シーズン連続10得点を挙げると首都の強豪ラピドからのオファーが舞い込んでくる。ラピドでは首都でのナイトライフでもお盛んになり、毎晩のようにジャズの流れるバーで美女たちと飲み明かすプレイボーイぶりだったが、プレーの方はあいかわらずの一級品で巧みな切り替えしからのスピードに乗ったドリブルからのシュートでゴールを量産し続けた。38年のワールドカップにも出場してキューバ戦で得点も決めている。ラピドでは41年に戦争でリーグが中断されるまでの5シーズンで優勝はならなかったものの2位が4度、カップ戦は3連覇を含む4度制覇。常に2ケタ以上のゴールを残して86試合61得点を記録した。ミトロパカップ(後のUEFAカップ)でも7試合に出場している。41/42シーズンから5年間は戦時下で公式認定試合こそなかったが、最初の3年間に行われたバラサビエイカップや代替リーグでは2度の優勝と11試合13得点を残している。再開された46/47シーズンにはオラデアに戻って36歳ながら遜色のないプレーを見せて引退した。カップ戦には恵まれたもののリーグ優勝なしで、得点王もなし。しかし当時ではずば抜けたスキルと私生活の艶やかさでルーマニアで最も華のあるプレイヤーと称えられた選手だった。酒と無節制がたたって1962年に51歳の若さで亡くなったが、ラピドのレジェンドだけでなく国民の思い出として語り継がれている。(2009.12.8更新)

今もなお代表得点率で1位を誇るオラデアの爆撃機
 ユリウ・ボドラ - Iuliu Bodola
29-31 CAオラデア -
31-32 IARブラショフ -
32-37 CAオラデア 89-62
37-40 ヴェヌス・ブカレスト 61-47
40-44 CAオラデア(HUN) 90-47
46-47 フェラル・クルージュ 3-3
46-49 MTKブダペスト(HUN) 83-35
1912年2月26日生まれ 初代表:1931年5月10日ブルガリア戦
48試合−30得点 ラスト:1939年10月20日ハンガリー戦
センターの位置で貪欲に得点することを追求し続けた生粋のストライカー。オーストリア=ハンガリー帝国領のブラショフで生まれ、ブラショビアという地元のユースで少年期を過ごした。17歳になるとより高みにと1部トーナンメントに参加していたオラデアに移る。1年間ブラショフのチームにレンタルされた後に32/33シーズンの国内初のリーグ開催にオラデアに帰還した。オラデアでの5年間はドバイ率いるリペンシアの黄金期もあって後塵を拝したが、常に2ケタ得点を記録して代表でもハイペースで得点の山を築いて34年のワールドカップにも出場。バルカンカップでは6年連続出場して3度の優勝と31年の大会では7得点を挙げて大会得点王にも輝いた(総大会記録は17試合15得点)。37年からは首都の強豪ヴェヌス・ブカレストに入団すると初年度は17試合18得点の荒稼ぎを披露してクラブはリーグ2位。クラブの国際大会であるミトロパカップ(後のUEFAカップ)にも出場し、続けてシーズン終了後の38年ワールドカップにも2度目の出場を果たした。ヴェヌスでの2年目も違わぬ活躍を見せて念願のリーグ初優勝を引き寄せ、3年目には得点ランキング2位となる17得点を記録してリーグ2連覇とカップ制覇の2冠、代表でも若くして7試合でキャプテンを務めて2度のハットトリックを記録している(ルーマニア代表初の快挙)。しかし40年にハンガリーリーグに併合されていたオラデアに古巣復帰するとすぐさま市民権を得てハンガリー代表に移転。第2次大戦までの3年間で代表として13試合4得点、クラブでは3年連続全30試合に出場して平均16得点の記録を残して43/44シーズンにリーグ優勝。1942年には年間最優秀選手に選ばれている。2年のリーグ中断を経て戦後に1度ルーマニアのクルージュに短期所属し3試合3得点。35歳となる晩年の47年からは首都のMTKでプレーして、32年からのプロ生活で持続している14シーズン連続2ケタ得点を維持したまま現役を退いた。1946年からブダペストに暮らし続けて93年に死去しているが、2008年11月にオラデアのホームであるムニシパル・シュタディオンがその栄光の賛辞としてユリウ・ボドラ・シュタディオンと名づけられている。クラブでの得点記録もさながら、たった27歳までの8年間でルーマニア代表に残した記録もズバ抜けていて、48試合出場はミルチェア・ルチェスクによって35年後に、30得点はゲオルゲ・ハジによって58年後に更新されるまで栄光の証として保持し続けた。そのアベレージと共に特に驚異的なのが得点力で、ハジが35歳で引退するまでの17年間で歴代1位の35得点。ムトゥが29得点で止まっている現時点で今もなお歴代2位に輝き続けている。当時の政治情勢でルーマニア代表で続行できたなら、また年間4-6試合だった代表試合が現在の標準だったなら今もなおダントツの1位だったことは間違いない。(2009.12.8更新)

戦時中断でキャリアが伸ばせなかった4銃士のチャンスメーカー
 シルビウ・ビンデア - Silviu Bindea
24-32 ロムニア・クルージュ -
32-39 リペンシア・ティミショアラ 121-68
39-40 CAMティミショアラ 17-10
40-42 リペンシア・ティミショアラ 20-10
42-44 CFRトゥルヌ・セヴェリン 3-0
46-47 CFRティミショアラ 1-0
48-49 リペンシア・ティミショアラ 0-0
1912年10月24日生まれ 初代表:1932年10月16日オーストリア戦
27試合−11得点 ラスト:1942年8月16日ドイツ戦
右ウイングのポジションでドバイ、バラツキ、ボドラにアシストを決めまくったチャンスメーカー。ブライで生まれたビンデアは12歳から17歳までロムニア・クルージュ(後のヴィクトリア・クルージュ)のジュニアチームで成長してユース代表でも5試合に出場。トップチームに昇格すると国内1部トーナメントに参加していたクラブで2年連続準優勝と悔しさを味わう。しかし32年にルーマニアで初の国内リーグが始まるとスター選手が集まっていた強豪のリペンシアに入団して初年度にリーグ優勝、翌年にはカップを獲得。35/36シーズンまでにはチームのゴールゲッターであったドバイの影に隠れて得点は多くなかったが、チャンスメーカーとして2冠を含むリーグ2連覇に貢献した。34年のワールドカップには22歳の若さで予選と本戦の全3試合に出場し、セントラルヨーロピアンカップやバルカンカップでも多く出場を果たした。36年以降はその得点力に磨きがかかり、チャンスメーカーからストライカーへと変身を遂げて、代表では以降13試合で9得点、クラブでは41年の戦時中断までリーグで5年連続2ケタ得点を決めた。特に37/38シーズンには得点ランキング2位となる21得点でリーグ優勝を牽引し、終了後の38年ワールドカップでも得点を決め、翌シーズンにはミトロパカップ(後のUEFAカップ)でハットトリックを含む4試合5得点を荒稼ぎした。次の39/40シーズンには1年間だけ同じティミショアラの昇格クラブであるCAMティミショアラに参加して苦戦が予想されたが、17試合で10得点を記録して本家リペンシアを上回る5位にまで押し上げている。まさに絶頂期だったが、残念ながらそのピークは41年からの5年間の戦時中断によって消されてしまった(非公式記録としてはバラサビエイカップや代替リーグに出場はしている)。(2009.12.8更新)

ルーマニア国籍と表記された初のパニーニ選手
 ノルベルト・ホフリング - Nicolae Norberto Hofling
45-46 D・チェルニフトシ(UKR) -
46-47 チョカヌル・ブカレスト 33-22
47-48 カルメン・ブカレスト 3-2
48-49 MTKブダペスト(HUN) 24-23
49-51 ラツィオ(ITA) 72-25
52-55 プロ・パトリア(ITA) 119-31
1956 ヴィチェンツァ(ITA) 9-1
1924年6月20日生まれ おそらく無し
おそらく無し おそらく無し
プレースタイル等は詳しくわからないが、おそらくはイタリアのステッカー会社パニーニにも1956年に製品化されている初のルーマニア選手。ウクライナで生まれて46年にルーマニアでプロデビューする。そのシーズンのチームの成績は7位だったものの、得点ランキング3位となる22得点で総得点の3分の1以上をたたき出した。たった2年でルーマニアを去るが、ハンガリーでも1試合1ゴールの割合でネットを揺らし、万年中位のクラブをリーグ2位に押し上げる活躍を見せた。その後はイタリアで7年を過ごした。33歳で現役を退き、クラブ・ブルージュ、フェイエノールト、アンデルレヒト、ガンなどの監督を歴任し、ベルギーのカップ戦に優勝。2005年に80歳でこの世を去った。国籍については46-48の間にルーマニア代表でプレーとあるものも見受けられるが、実際のA代表の記録には残っていないのでユースレベルなのかもしれない。またルーマニア生まれとも、ハンガリー国籍とも伝えられているがどれも定かではない。(2009.2.21更新)

無冠に終わったディナモ初のレジェンド
 ティトゥス・オゾン - Titus Ozon
46-48 ウニレア・トリコロール 33-26
48-50 ディナモ・ブカレスト 38-20
1951 ディナモ・ブラショフ 17-8
52-54 ディナモ・ブカレスト 56-35
55-58 プログレシュル・ブカレスト 66-44
58-64 ラピド・ブカレスト 79-33
1927年5月13日生まれ 初代表:1952年5月11日チェコスロバキア戦
22試合−7得点 ラスト:1962年11月1日スペイン戦
ボールを抱えて生まれてきたと表現されたように足に吸いつくようなドリブルスキルと卓越した決定力でハイアベレージを残し、ディナモ初のレジェンドとして知られている選手。クラブでは10歳の頃からウニレア・トリコルール・ブカレスト(当時のディナモB)に属して順調にトップチームに昇格するはずであったが、第2次大戦による2年間のリーグの中断後に19歳で2部デビューを果たす。若手ながら11試合に出場して5得点を記録して2部リーグを制覇すると、翌シーズンはクラブとしては1部から降格してしまうが、個人成績で22試合21得点を残してディナモAに入団することになった。2年間は5割以上の得点率を誇りながらも経験不足からのミスも多く、1年間ブラショフに修行に出された。復帰してからはその成長ぶりを発揮して代表にもデビューし、2年連続得点王に輝いた。しかしそれでもリーグ優勝には一歩届かず2年連続で2位に終わり、3年目には6得点で終わったことから同じブカレストのクラブであるプログレシュルに放出された。ここでの前期2シーズンは33得点と活躍したものの、後期2シーズンはケガで半数以上を欠場して代表からも呼ばれなくなっていった。その後6シーズン過ごしたラピドでは59-60シーズンに33歳ながら12得点と意地を見せたが、その後はチャンスメイカーとして機能するようになった。これにより1962年9月のモロッコ戦で5年ぶりに代表復帰を果たし、初のキャプテンとしてその経験値を期待された。しかし3試合目となる欧州選手権予選1試合目のスペイン戦で6-0と大敗したことからキャプテンとして責任を取り、代表に別れを告げた。クラブでは通算270試合で157得点と抜群の結果を残していただけに、得点王シーズンでの2連続リーグ2位とラピドで4試合しか出場できなかった最後のシーズンの2位、各クラブで計4度のカップ戦準優勝というように1度もタイトルに恵まれなかったことは残念である。(2009.11.14更新)

オリンピックに縁があったステアウアの点取り屋
 ゲオルゲ・コンスタンティン - G.Constantin
46-49 ウニレア・トリコロール 6-4
1950 ヴェヌスUCB(C) -
1950 アヴァントゥル・レギン(C) -
51-53 ロコモティヴァ・ヤシ(B) -
54-69 ステアウア・ブカレスト 258-145
69-71 カイゼリスポール(TUR) 26-5
1932年12月14日生まれ 初代表:1956年4月22日ユーゴスラビア戦
39試合−12得点 ラスト:1967年12月6日東ドイツ戦
フィールドスペースの把握能力と、どのアングルからも得点を決められる貴重な才能からステアウア時代に「ティーチャー」と呼ばれたゴールゲッター。平面的にボールキープすることよりもヘディングでの扱いがうまかったことからしばしばターゲットマンとして起用されたりもした。ウニレアのユースチームでキャリアを始めて3年を過ごすが、チームの解散によってしばらく2部と3部のクラブが主戦場となる。しかしその決定力に目をつけたCCAブカレスト(62年にステアウア・ブカレストに改称)に拾われてようやく身の丈に合ったクラブに巡りあえた。3年後の1956年には15ゴールを挙げてリーグ優勝を牽引する活躍でA代表にもデビュー。その後もコンスタントな成績を残して59/60シーズンからはリーグ2連覇と3連続得点王に輝いている。最後のリーグ優勝は7年後と圧倒的と言えた力は衰えたが、結局ステアウアには15年在籍して、クラブレコードのヨルダネスクには1点足りなかったが、149得点を記録してレジェンドとして十分な成績を残している。カップ戦も4度制覇、チャンピオンズカップにも7試合出場している。ワールドカップと欧州選手権の予選は4度経験しているが、いずれも本戦出場は無し。まだ当時Aマッチとして認定されていたオリンピックの予選にもローマ、東京、メキシコと3度経験し、全11試合に出場した。特に1964年の東京オリンピックではキャプテンとしてチームを率いて自身の3得点で見事に本戦に導いた。東京での本戦でもグループリーグを首位で突破したが、トーナメントでハンガリーとの準々決勝でPKを外してしまい、結局敗れてしまう。その後の順位決定戦で2連勝したことで5位という立派な成績で終了。しかしキャプテンとして大事な場面でチャンスを逃したことにショックを受けて、またそのミスを追及してきた者も少なくなかったため代表からは距離を置くこととなった。しかし以後2つの予選を逃したことにより代表から請われて67年に3年ぶりに復帰した。再度キャプテンとしてメキシコオリンピックの予選を戦うが本戦を逃したことにより代表引退を決意した。(2009.1.21更新)

代表歴あらずともクライオバに輝くスーパーストライカー
 ヨン・オブレメンコ - Ion Oblemenco
63-66 ラピド・ブカレスト 8-3
66-77 ウニベルシタテア・クライオバ 264-167
77-78 FCMガラツィ(B) -
1945年5月13日生まれ 初代表:無し
無し ラスト:無し
気分が乗り次第で更新予定

現役当時から選手を育てることに長けた名選手かつ名監督
 ミルチェア・ルチェスク - Mircea Lucescu
  1945年7月29日生まれ   175cm 70kg   通算代表歴:70試合−9得点
  初代表:1966年11月2日スイス戦   最終代表:1979年4月4日スペイン戦
中盤からの攻撃を組み立てることのできるエネルギッシュな左ウイングプレイヤー。1970年ワールドカップでは24歳の若さながらキャプテンとしてチームをまとめた。以後ディヌに引き継がれるまで20回以上キャプテンに任命された人格者。クラブでは64年にディナモで1部デビューしてから2年間のスティンツァでの修行を経て、10シーズンを過ごした間にリーグ優勝4度に貢献した。コルヴィヌルではその経験を生かしてコーチ兼選手として5シーズンを過ごして、若手だったクライン、アンドネ、レドニクを育てた。81年に代表監督に就任してすぐにその3人を代表デビューさせて代表10年間の礎を築く。また1984年欧州選手権本選出場にも尽力した。その後ディナモ監督に就任しタイトルを獲得。イタリアではピサ、ブレシア、レッジアーナ、そしてラピド(優勝)をはさんで強豪インテル、ガラタサライ(優勝)、ベシクタシュ(優勝)、シャフタル・ドネツク(優勝)と歴任して評価は高く、2009年についにUEFAカップを制して世界的監督になった。監督を務めた海外クラブでルーマニア選手の活躍の場を与えたその功績は大きい(2009.7.2更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
63-64 ディナモ・ブカレスト 2-0 A1
64-65 ディナモ・ブカレスト 1-0 A1
65-66 スティンツァ・ブカレスト 19-6 B2
66-67 スティンツァ・ブカレスト 20-6 B5
67-68 ディナモ・ブカレスト 17-1 A3
68-69 ディナモ・ブカレスト 28-8 A2 1-0(2G)
69-70 ディナモ・ブカレスト 24-4 A5
70-71 ディナモ・ブカレスト 23-3 A1 3-0(4G)
71-72 ディナモ・ブカレスト 26-7 A7 3-0(4G)
72-73 ディナモ・ブカレスト 28-12 A1
73-74 ディナモ・ブカレスト 25-5 A2 2-1(4G)
74-75 ディナモ・ブカレスト 31-4 A1 3-1(4G)
75-76 ディナモ・ブカレスト 26-6 A2 2-1(2G)
76-77 ディナモ・ブカレスト 19-7 A1 1-0(2G)
77-78 コルヴィヌル・フネドアラ 34-7 A8
78-79 コルヴィヌル・フネドアラ 27-5 A16
79-80 コルヴィヌル・フネドアラ - B1
80-81 コルヴィヌル・フネドアラ 27-7 A6
81-82 コルヴィヌル・フネドアラ 23-2 A3
89-90 ディナモ・ブカレスト 1-0 A1
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1970年ワールドカップ出場(3試合)
1984年欧州選手権出場(監督)
ルーマニア最優秀選手ランキング:1971年・4位 1974年・2位

クラブに忠誠を誓ったアラドの至宝
 フラヴィウス・ドミデ - Flavius Virgil Domide
66-79 UTAアラド 342-75
1946年5月11日生まれ 初代表:1968年11月6日イングランド戦
18試合−3得点 ラスト:1972年9月20日フィンランド戦
183cmの身長で空中戦を得意とし、得点こそ少なかったがターゲットマンとしてパートナーの得点をお膳立てしたいぶし銀の選手。13歳からUTAのユースチームに所属して1966年に1部デビューすると着実に成長し、ユース代表にも選ばれる。3年目の68/69シーズンにはスタメンとしてリーグ優勝に貢献。翌年にも同僚のオットー・デンブロフスキのアシスト役に徹しつつ自身も11得点を記録して2連覇を果たした。この頃の代表でも2戦目となったW杯予選スイス戦でゴールを決めて突破の口火を切った。本戦のメンバーにも選ばれたが、ライバルのドゥミトラケの牙城は崩せずに出場はならなかった。帰国後のリーグでは3連覇は果たせずにリーグ4位で終わり、2年連続のチャンピオンズカップも上位進出はならず。しかし翌シーズンにはリーグこそわずかに届かず2位で終わるも、UEFAカップで5得点を決めてベスト4に進出した。72年、74年予選ともに代表ではサブとしてプレーし、クラブでも後期はゴール数が減っていったが、1部で13シーズンにわたってUTA一筋で過ごした。(2009.7.2)

各国からマークされた1970年本大会のエースストライカー
 フローレア・ドゥミトラケ - Florea Dumitrache
64-76 ディナモ・ブカレスト 198-108
76-79 ジウル・ペトロシャニ 80-37
79-84 コルヴィヌル・フネドアラ 79-25
83-84 ミネルル・ペトロシャニ(B) -
1948年5月22日生まれ 初代表:1968年6月5日オランダ戦
31試合−15得点 ラスト:1974年7月23日日本戦
ペースの緩急がうまく、空中戦でもフィールドでも強さを発揮した攻撃のリーダー。その高速でスキルフルなドリブルで抜群の決定力を誇り、東欧屈指の選手として知られていた。クラブではラピドユース出身だったが、ディナモの監督に見初められて66年に17歳でディナモで1部デビューし、68年にカップを制すると翌年には得点王とルーマニア最優秀選手に輝く。さらに69年にはW杯予選でも5試合で3得点を挙げて、グループ最下位のチームを首位突破に導き、2年連続で最優秀選手賞を獲得した。1970年メキシコワールドカップ本選でも戦前から各国に要注意選手としてマークされる中で2得点を決めたのは立派。70/71シーズンには2度目のリーグ得点王で初のリーグ優勝に導いた。76年までの5シーズンでも衰えない得点力でさらに2度リーグを制覇して、3度のチャンピオンズカップを含む20試合8得点を残している。ペトロシャニを経て晩年のフネドアラではさすがに爆発的な攻撃は落ちたが、34歳で迎えた82/83シーズンのUEFAカップで4試合2得点を決めて意地を見せている。2007年4月に亡くなったが、その後明らかになった事実として1971年にブラジルのサントスでペレとチームメイトになるチャンスがあったとか、ユベントスの会長が直々にブカレストに出向いて破格の待遇での獲得を望んだ等の武勇伝が残っている。(2005.6.28)

ステアウア最多得点記録保持者にして黄金期の監督
 アンヘル・ヨルダネスク - Anghel Iordanescu
68-82 ステアウア・ブカレスト 317-146
82-84 OFIクレタ(GRE) 54-7
1950年3月4日生まれ 初代表:1971年4月18日アルバニア戦
64試合−26得点 ラスト:1981年10月10日スイス戦
右のウイングとしてチャンスメーカー及びフィニッシャーとして左のルチェスクと共に代表を支えた。しかし不運なことに本選出場した1970年ワールドカップの後に代表デビューし、1984年欧州選手権の前に代表を退いたため、その間の6回のコンペティションでは全て予選敗退の悔しさしか味わうことができなかった。クラブでは12歳でステアウアユースに入団して以来20年間ステアウアを支えたクラブ伝説のプレイヤー。クラブの黄金期ではなかったが、68年の1部デビューシーズンからカップ戦を3連覇。その後4シーズンは不遇を過ごしたが、74年からはその得点力が覚醒して4年間で3度の得点ランキング2位の決定力で、それぞれ2度づつリーグとカップの優勝を経験。そして最後の81/82シーズンには念願の得点王を獲得し、G・コンスタンティンを抜いて現在までクラブ歴代ゴールトップになった。引退後はステアウアのアシスタントコーチとしてクラブに留まり、優勝したセビリアでのチャンピオンズカップ決勝ではなぜか途中出場している。トヨタカップでは代表監督になったイエネイからその座を引き継いで監督として来日。93年W杯予選からディヌの後任として代表監督になり、94年W杯、96年欧州選手権、98年W杯の栄光を経験。大会終了後ピツルカに譲るが、5年間で56キャップの長期政権を敷いた。2002年W杯予選でハジ監督が本選を逃した後に2度目の代表監督になるも04年欧州選手権と06年W杯出場絶望へと導くその戦術采配と主力選手との確執で過去の栄光は崩れ、国民総意のもと引責辞任した。(2005.6.28)

脅威の数字でゴールデンブーツを2度も取った魔王
 ドゥドゥ・ジョルジェスク - Dudu Georgescu
  1950年9月1日生まれ   183cm 76kg   通算代表歴:44試合−21得点
  初代表:1973年10月14日フィンランド戦   最終代表:1984年7月31日中国戦
両足から繰り出されるパワーのあるシュートと長身からの強烈なヘディングで弱点の無いセンターフォワード。ワールドカップや欧州選手権といった大きな舞台にルーマニアが出場するなか、その代表不遇の14年間が彼のサッカー人生だったため出場を果たせなかった。しかし素晴らしい得点記録を作ることによって自らの力で国際的な注目を勝ち取っていった。特にディナモでの250試合207得点は今後も破られることはないだろう。12歳でプログレシュルのジュニアチームに入団し、トップチームでは長く2部を彷徨っていたが、ディナモに加入するとルチェスク、ディヌ、ドゥミトラケなどの蒼々たるメンバーのサポートを受けて一気に得点力は開花した。74/75シーズンからは4年連続してリーグ得点王にも輝き、74/75シーズンの33得点と76/77シーズンの47得点により、ヨーロッパのリーグで最も多く得点を挙げた選手に与えられるゴールデンブーツ賞も2度受賞という素晴らしい記録を残した。この世界的名手となったジョルジェスクには1976年にルーマニア最優秀選手賞が与えられることとなった。もちろんこの驚異的なゴール数でチームもリーグ優勝し、計4度の栄光を味わった。欧州カップでも23試合17得点を決めて存在をアピールしている。代表引退後の晩年も現役にこだわり実力の劣るクラブでプレーし続けたが、ブザウでの35歳時に2年連続で2ケタ得点を決めて超人ぶりを見せ付けている。全盛期には当然のように海外からのオファーが殺到したが、国内共産主義の圧力で許されなかった。あのキラ星のごとくスター選手が集まった北米リーグでペレがプレーしていたニューヨーク・コスモスからもオファーがあったらしい。(2009.12.28更新B)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
69-70 プログレシュル・ブカレスト 27-0 B1
70-71 プログレシュル・ブカレスト 28-5 A15
71-72 プログレシュル・ブカレスト 25-0 B2
72-73 プログレシュル・ブカレスト 14-0 B7
CSMレシツァ 12-7 A14
73-74 ディナモ・ブカレスト 33-21 A2 4-5(4G)
74-75 ディナモ・ブカレスト 31-33 A1 3-1(4G)
75-76 ディナモ・ブカレスト 32-31 A2 2-0(2G)
76-77 ディナモ・ブカレスト 31-47 A1 2-0(2G)
77-78 ディナモ・ブカレスト 33-24 A5 2-1(2G)
78-79 ディナモ・ブカレスト 27-13 A2
79-80 ディナモ・ブカレスト 19-9 A5 2-4(4G)
80-81 ディナモ・ブカレスト 22-13 A2
81-82 ディナモ・ブカレスト 24-11 A1 5-3(6G)
82-83 ディナモ・ブカレスト 8-5 A1 3-3(4G)
83-84 SCバカウ 22-4 A6
84-85 グロリア・ブザウ 28-16 A5
85-86 グロリア・ブザウ 16-11 A15
86-87 フラカラ・モレニ 4-2 A15
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
ルーマニアリーグ得点王:74/75シーズンから4年連続
欧州ゴールデンブーツ:74/75 76/77
ルーマニア最優秀選手ランキング:
1976年・1位 1977年・2位

スタメンながら予選中にルーマニアを脱出した先駆者
 マルセル・ラドゥカヌ - Marcel Raducanu
72-81 ステアウア・ブカレスト 229-94
81-82 移籍協定違反で出場停止 -
82-88 ボルシア・ドルトムント(GER) 163-31
88-91 FCチューリヒ(SWI) 47-12
1954年10月21日生まれ 初代表:1976年4月6日オランダ戦
21試合−3得点 ラスト:1981年6月3日ノルウェー戦
力強いドリブルでサイドを疾走してゴールとアシストを量産した反逆の選手。若くして才能が認められ、18歳の時にステアウアで1部デビューを果たすとその類まれなドリブルスキルにより人気を高めていき、4年目となる75/76シーズンに17得点を挙げてリーグ優勝、そしてカップ制覇の2冠の立役者に。その頃に行われたモントリオールオリンピック予選において代表初キャップも記録。翌年こそケガで出場は減ったものの、翌々年からは得点能力を存分に発揮して3年連続で得点王争いに絡んだ。その間にクラブはリーグとカップを1度ずつ獲得している。79年5月には3年ぶりとなる代表にも返り咲き、ほぼ全試合に出場して代えの利かないエースへと成長。その活躍から80年のルーマニア最優秀選手に選出されている。しかし彼が27歳となる絶頂期で迎えた欧州選手権予選、それまで強豪イングランドに1勝1分と好調で久々の大舞台が見えてきた途中にその代表キャリアも終わりを迎えることに。それは81年のシーズン前にドイツのドルトムントで行ったキャンプで国の体制に不満を持っていたラドゥカヌはそのままドイツに亡命。軍部のクラブだったステアウアのキャプテンに対して脱走とみなし、国は本人不在のまま5年8ヶ月の判決を下した。代表は結局ジョルジェスク引退後のヒーローを失い、予選は敗退してしまった。一方ラドゥカヌもハノーファーと契約した直後にすぐさまドルトムントに入団するという事態(ドルトムントからハノーファーに不正な裏金の譲与)になり、UEFAから一年間の出場停止を言い渡されている。その後はドルトムントで6シーズン、スイス2部で2シーズンを過ごした後にドルトムントにサッカースクールを設立し、少年にサッカーの楽しさを教えている。(2006.12.10更新)

厳格な監督として知られるも代表に縁遠かったステアウアの槍
 ヴィクトル・ピツルカ - Victor Piturca
74-75 ディナモ・スラティナ(B) 10-3
75-77 ウニベルシタテア・クライオバ 8-0
77-78 パンドゥリ・トゥルグジウ(B) 13-4
78-79 ドロベタ・セヴェリン(B) 15-5
79-83 FCオルト 118-28
83-89 ステアウア・ブカレスト 175-137
89-90 レンヌ(FRA・B) 28-4
1956年5月12日生まれ 初代表:1985年3月27日ポーランド戦
13試合−6得点 ラスト:1987年11月18日オーストリア戦
インテリジェンス溢れるテクニックで自らゴールも狙うが、味方にチャンスを作るプレーにも定評があったFW。1986年チャンピオンズカップではセビリアでの決勝を除くすべての試合で得点し、念願のタイトル獲得に貢献した。クライオバでは出場機会に恵まれず、オルトでは4年連続1ケタの得点しかできなかったが、27歳でステアウアに移籍するとパサーに恵まれて6シーズンで5連覇と4度のカップ優勝を飾り、2年連続の得点ランキング2位を経て、85/86シーズンにリーグ得点王。ステアウアでの決定率は驚異的で今もクラブ史上最高のFWとして祭られている。代表では88年欧州選手権予選に5試合出場するも敗退し、その後はラカトシュがそのプレースタイルを受け継ぐことになった。また98年W杯後に監督になったが、選手時代から対立してたハジやペトレスクらの古参に対する厳格な態度で選手から反発が起こり、締め出されてしまう。しかし長らく代表に欠けていたその厳格さが求められ2005年に再び代表監督に就任し2008年欧州選手権出場を果たした。結果は出すのだが、明確でない召集基準や起用法で万人の批判を浴びるのを常としている。(2009.7.2更新B)

人気実力共に1980年代のナンバー1のチャンスメーカー
 イリエ・バラチ - Ilie Balaci
  1956年9月13日生まれ   172cm 72kg   通算代表歴:69試合−8得点
  初代表:1974年3月23日フランス戦   最終代表:1986年9月10日オーストリア戦
国内で最も才能のある選手として若くから各世代の代表で攻撃のチャンスをリードしたFW/MFで“クライオバ・マキシマ”の中心人物。ウニベルシタテアユース出身で73年に17歳で1部デビューしたこの年にいきなり27試合に出場してリーグ優勝に貢献。この年には17歳6ヶ月10日の早さで代表にもデビューし、現在までも最年少記録として残っている。77年、78年にはカップ2連覇、そして黄金期の80年代前半には得点力も開花してリーグ2連覇と2度のカップ制覇でクライオバ・マキシマのシンボルとして君臨。欧州カップでも躍進を支えた功労者として活躍し82年のチャンピオンズカップベスト8、83年のUEFAカップでベスト4と欧州でも知名度を上げた。当然のように2年連続してルーマニア最優秀選手に輝く。この頃その名声はクラブだけに留まらなく、破談こそしたがフィオレンティーナとは契約寸前までこぎつけたこともあった。ここまでA代表でも主力としてプレーしていたが、76、78、80、82年大舞台は予選敗退。絶頂期で迎えた84年欧州選手権予選は変わらぬ活躍で初の本戦出場を決めたが、83/84シーズン序盤に致命的な重傷を負ってしまい、その前年にACミランとパリ・サンジェルマンから来ていたオファーがボツになると共に本戦出場も叶わなかった。その後ほぼ2年間は満足にプレーできず、象徴を失ったクライオバも時を同じくして下降線をたどっていった。代表から縁遠くなりつつもクラブではオルトとディナモで復調の兆しを見せたが、全盛期にはほど遠いパフォーマンスで88年の欧州選手権予選で1試合プレーしたまま現役を引退した。黄金期の幕開けとなる90年の一歩手前で32歳という若さで結局は大舞台を経験できなかった悲劇とも言える人生であった。引退後の90年以降は中東地域で監督を歴任して19のタイトルを獲得し、指導者としての現地の評価はいまだに高い。1970年代はドブリン、1990年代はハジ、1980年代のスターと言えばこの人。(2009.12.29更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
73-74 ウニベルシタテア・クライオバ 27-3 A1 4-0(4G)
74-75 ウニベルシタテア・クライオバ 29-7 A3 2-0(2G)
75-76 ウニベルシタテア・クライオバ 27-3 A6 2-0(2G)
76-77 ウニベルシタテア・クライオバ 32-12 A3
77-78 ウニベルシタテア・クライオバ 28-12 A6 4-2(4G)
78-79 ウニベルシタテア・クライオバ 17-0 A4 1-0(2G)
79-80 ウニベルシタテア・クライオバ 29-6 A1 6-1(6G)
80-81 ウニベルシタテア・クライオバ 29-12 A1 2-0(2G)
81-82 ウニベルシタテア・クライオバ 31-10 A2 6-1(6G)
82-83 ウニベルシタテア・クライオバ 27-10 A2 7-3(10G)
83-84 ウニベルシタテア・クライオバ 4-0 A3
84-85 ウニベルシタテア・クライオバ 5-1 A4 1-0(6G)
FCオルト 13-3 A13
85-86 FCオルト 17-4 A13
86-87 ディナモ・ブカレスト 26-1 A2 2-0(2G)
87-88 ディナモ・ブカレスト 6-0 A2 1-0(2G)
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1984年欧州選手権出場(0試合)
ルーマニア最優秀選手ランキング:
1981年 1982年

疑惑のゴールデンブーツを詐取したジャイアント
 ロディオン・カマタル - Rodion Goran Camataru
74-86 ウニベルシタテア・クライオバ 288-122
86-89 ディナモ・ブカレスト 89-76
89-91 シャルルロア(BEL) 29-6
90-93 ヘーレンフェーン(NED) 26-7
1958年6月22日生まれ 初代表:1978年12月13日ギリシャ戦
75試合−22得点 ラスト:1990年9月12日スコットランド戦
189cmの長身で80年代のルーマニア攻撃陣の制空権を支えた不動のターゲットマン。大舞台では1984年の欧州選手権の予選で活躍して本選でも3試合に出場し、本選メンバーに選ばれたもののケガでプレーできなかった1990年ワールドカップでも予選突破の原動力となった。ウニベルシタテアユース出身で74年に1部デビューを果たしてから12シーズンを過ごして、リーグ2連覇、カップ戦制覇4回、チャンピオンズカップとUEFAカップで上位進出した“クライオバ・マキシマ”のスタメンFWに名を連ねた。安定したゴール数で常にランキングのトップ5に君臨し、87年のディナモのファーストシーズンには44ゴールを記録して念願の得点王を獲得すると共に欧州ゴールデンブーツを獲得した。ディナモの3シーズンでは3年連続でステアウアに破れてリーグとカップで2位を3連覇してしまうが、コンスタントに能力を発揮して89年にはカップ・ウィナーズ・カップのベスト8にまで進出した。当時地方都市の市長をしていた彼の父親の元にディナモ組織の悪名高き秘密警察であるセクリターテが強制財政調査を執行し、叩いて出てきた埃をダシに息子の移籍強要を脅しをかけてきたために泣く泣くクライオバを離れたが、忠義心は故郷も認めており、93年に国内に戻ってきた時にはウニベルシタテアの会長に就任した。現在ではクライオバにポペスクと設立したサッカースクールで若手を育てている。ただし2007年、そもそも44ゴール中20ゴールがラスト6試合で記録という当時のルーマニアリーグからして明らかに操作されたものだと広く知られていた1987年のゴールデンブーツは取り消されはしなかったが、2位のオーストラリア代表のアントン・ポルスターにも与えられることが決定した。(2007.6.29更新A)

スポルツールでハジの名脇役を演じたゴールゲッター
 マルセル・コラシュ - Marcel Coras
77-79 UTAアラド 57-16
79-80 ポリ・ヤシ 15-3
80-81 UTAアラド 14-6
80-81 ポリ・ヤシ 16-6
81-83 UTAアラド 28-11
83-88 スポルツール・スツデンテスク 153-56
88-90 ヴィクトリア・ブカレスト 48-40
89-90 スポルツール・スツデンテスク 13-5
90-91 パニオニオス(GRE) 30-2
91-92 スポルツール・スツデンテスク 26-4
92-93 U・クルージュ 17-2
92-93 FCオーリヤック(FRA・B) -
93-94 U・クルージュ 4-0
93-95 UTAアラド 31-3
1959年5月14日生まれ 初代表:1982年11月17日東ドイツ戦
36試合−6得点 ラスト:1988年3月30日東ドイツ戦
スピード不足をテクニックと戦術眼でおぎなった天才肌のFWで194cmの長身を生かしたポストプレイヤー。生まれ故郷であるアラドのユースを経て、18歳でトップチームに昇格すると早くも将来を期待される若手として注目され始める。それなりに得点も記録したが、なにぶん降格と昇格を繰り返す弱小チームにあって存分に能力を発揮していたとは言い難かった。しかし24歳となった83/84シーズンからハジやヨルグレスクを擁して優勝争いを繰り広げていた強豪スポルツールに入団すると1年目にして18ゴールで得点王を獲得。翌2シーズンは2連連続得点王を獲得したハジのサポートとしてだけでなく自身も2ケタ得点を記録し、5シーズンに渡ってリーグに華を添えた。ハジが抜けた87/88シーズンに一転して14位まで落ちたクラブから翌年に強豪のヴィクトリア・ブカレストに入団すると、爆発的に36ゴールを叩き出す。しかしディナモのマテウツが43ゴールという天文学的数字を残したために2度目の得点王はならなかった。ちなみに欧州ゴールデンブーツも2位。残念ながらこれがピークで、翌年には不正の匂い漂うクラブが消滅を言い渡されて、以後は海外も含めてさしたる記録は残していない。代表ではアラド時代にルチェスクによって引き上げられ、1984年には予選では1試合しか出場してなかったが本選に抜擢され1ゴールを挙げている。1986年予選では主力として7試合に出場するも1ゴールというように代表ではその得点能力は機能しなかった。ちなみにUEFAカップに7年連続出場している。(2012.4.2更新)

ワールドユースでMVPに輝いた男
 ロムルス・ガボール - Romulus Gabor
78-91 コルヴィヌル・フネドアラ 305-69
91-92 ディオシュジュール(HUN) 13-1
92-93 コルヴィヌル・フネドアラ(B) -
93-94 ウニレア・アルバ・ユリア(B) 24-4
93-94 U・クルージュ 10-1
94-96 コルヴィヌル・フネドアラ(B) 45-15
96-97 インテル・シビウ(B) 14-5
1961年10月14日生まれ 初代表:1981年11月11日スイス戦
35試合−2得点 ラスト:1986年4月26日ソ連戦
早熟とされながら、チャンスメイクに長けた左ウインガーとして魅了し、フネドアラの歴史に名を連ねるレジェンド。元々は降昇格を繰り返す弱小のクラブであったがほぼ同時期に2部でありながら入団してきた70年ワールドカップのスターであるルチェスクとドゥミトラケをはじめ、若手のクライン、レドニク、アンドネ、マテウツが揃ってくると80/81シーズンには昇格年度ながら6位の成績を収めた。その攻撃のタクトを振ったのがガボールであり、翌シーズン前には現在までルーマニア唯一の出場となっている81年ワールドユースにも出場。ダークホース的な存在の中でガボール中心のチームはグループリーグをブラジル、イタリア、韓国に2勝1分で突破し、トーナメントではウルグアイを退け、ドイツに敗れるも、3位決定戦でイングランドを下した。またガボールは優勝したドイツの攻守の要であったヴォルハースとツォルクを抑えて大会MVP(ゴールデンボール)に輝く快挙を達成している。迎えた81/82シーズンはリーグ3位に登りつめてクラブ初のUEFAカップ出場権獲得とA代表デビューを果たし、国内の注目を浴びる。そしてルチェスクが現役引退し、コルヴィヌルと代表の両監督を兼任することになってからは予選でも主力としてプレー。本大会出場を果たした84年欧州選手権では2試合に出場している。しかしこの頃になるとクラブではレドニク、アンドネがディナモに去ったためにチームは中堅に落ち始め、85/86シーズンの11ゴールで最終順位5位と奮闘したこともあったが、代表はルチェスク政権の終りと共に25歳で構想外となった。マテウツとクラインが抜けて下位クラブとなってもクラブに忠誠を誓って誰よりも長く13期連続在籍(通算16期)。当然のことながら20代前半の絶頂期には欧州の名だたるクラブからオファーが殺到していた。(2012.4.2更新)

90年予選と本戦で決定的なゴールを決めた大一番の男
 ガブリル・バリント - Gavril Pele Balint
80-91 ステアウア・ブカレスト 266-70
90-93 レアル・ブルゴス(SPA) 86-28
1963年1月3日生まれ 初代表:1982年5月18日チリ戦
34試合−14得点 ラスト:1992年5月6日ウェールズ戦
スピードとテクニックを武器にして攻撃的MFとFWをこなした勝負強さ抜群のストライカー。ユース代表で23キャップを記録するなど早くから存在は知られていて、史上唯一の本大会出場で快進撃のままに3位になった81年ワールドユースのメンバー。A代表デビューも19歳と早かったがスタメン確保には至らず、たまに途中交代で出場する期間が長かった。しかし本選出場を賭けたデンマークとの1990年ワールドカップ最終予選で2年半ぶりに代表スタメンに大抜擢されると一気にスターダムに昇りつめる2得点を挙げて、歓喜の雄たけびを挙げるシーンは鮮明に人々の記憶に残っている。本選でもラカトシュ同様2得点を決めて決勝トーナメント進出に貢献。94年の予選でも2試合出場して4ゴールの記録を残したが、途中で後進に譲る形で引退した。クラブではラカトシュ、ピツルカ、ハジらをサポートしてリーグ5連覇と3度のカップ制覇、そしてチャンピオンズカップで86年優勝、87年欧州スーパーカップ、トヨタカップ、89年準優勝、そして90年には初の得点王を獲得してステアウアの黄金期を謳歌した。スペインでも中心選手として活躍し、引退後は94、96、98、2000年の大会で代表アシスタントコーチを務める。ハジとの親交も厚く、2000年にはガラタサライのアシスタントコーチ、2002年のハジ代表監督時代にもアシスタントとしてサポートし、初戦のスロヴェニア戦ではハジの急病による代替として代表を率いている。(2009.12.29更新B)

ステアウア黄金時代の代名詞となった永遠の7番
 マリウス・ラカトシュ - Marius Mihai Lacatus
  1964年4月5日生まれ   180cm 74kg   通算代表歴:84試合−13得点
  初代表:1984年1月22日エクアドル戦   最終代表:1998年6月26日チュニジア戦
スピード豊かな右ウイングで、タッチラインを走れば絶妙のセンタリング、中へ切れ込めば鋭いシュートで攻撃の半分がここから生まれたと言っても過言ではなく、攻撃にかけるアグレッシブさは「ビースト」と呼ばれた。ブラショフで1部デビューし、19歳でステアウアに移籍したそのシーズンに13得点を決めて代表にも呼ばれるようになり、翌年からその勝利を呼び込む働きでステアウアのリーグ5連覇とカップ4回の優勝を飾った。チャンピオンズカップでも86年にバルセロナを破り優勝し、欧州スーパーカップではディナモ・キエフを下して欧州完全制覇。トヨタカップでは敗れるも、88年にはベスト4、89年には彼の7得点で再び決勝の地に上がる。しかし当時の銀河系メガクラブであったACミランに惨敗して準優勝に甘んじた。90年には最強リーグだったイタリアのセリエAからオファーがくると己の力を信じて、イタリア語をマスターしてから臨んだワールドカップにて期待どおりの活躍で2得点をマーク。大会終了後にフィオレンティーナに移籍するという念願を叶えた。海外では思ったような活躍はできなかったが、国内に戻ってから再び輝きだした。30歳で有終の美を飾るはずであった94年のワールドカップでは予選で活躍するもケガで残念ながら本選を棒に振って、同国の躍進を複雑な想いで見守ることになってしまった。ステアウア復帰後は自身2度目のリーグ5連覇とカップ3度制覇の成績を収めた。この間代表では96年と98年の大会にベテランとして2試合ずつ出場したが、すでにピークを過ぎた感があったのは否めなかった。ステアウア14シーズンで出場数2位、得点数5位、欧州カップ出場記録ではハジ、ポペスクに次いで国内3位の73試合に出ている。タイトルを最も多く獲得した選手として知られている。90年大会の活躍で世界的にも知られており、チャリティーマッチの世界選抜によく呼ばれていた。(2005.7.1更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
81-82 FCブラショフ 11-2 A13
82-83 FCブラショフ 34-3 A16
83-84 ステアウア・ブカレスト 32-13 A2
84-85 ステアウア・ブカレスト 29-8 A1 2-0(2G)
85-86 ステアウア・ブカレスト 31-7 A1 8-1(9G)
86-87 ステアウア・ブカレスト 27-9 A1 1-0(2G)
87-88 ステアウア・ブカレスト 30-9 A1 8-3(8G)
88-89 ステアウア・ブカレスト 28-11 A1 8-7(9G)
89-90 ステアウア・ブカレスト 23-3 A2 4-2(4G)
90-91 フィオレンティーナ(ITA) 21-3 A12
91-93 レアル・オビエド(SPA) 26-4 A11 2-0(2G)
92-93 レアル・オビエド(SPA) 25-3 A16
93-94 ステアウア・ブカレスト 17-5 A1 1-0(4G)
94-95 ステアウア・ブカレスト 29-8 A1 5-2(2+6G)
95-96 ステアウア・ブカレスト 27-9 A1 6-0(2+6G)
96-97 ステアウア・ブカレスト 22-5 A1 6-0(2+6G)
97-98 ステアウア・ブカレスト 31-8 A1 3-2(4+0G) 6-0(6G)
98-99 ステアウア・ブカレスト 25-4 A3 4-0(4+0G) 2-0(2G)
99-00 ステアウア・ブカレスト 6-0 A3 6-0(2+6G)
ナシオナル・ブカレスト 12-0 A9
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(3試合・2得点)・1998年ワールドカップ出場(2試合)
1996年欧州選手権出場(2試合)
ステアウア在籍:14シーズン(ヨルダネスク、ストイカと並んで1位)
ステアウア出場試合数:
357試合(2位) 得点:98得点(5位)
ルーマニア最優秀選手ランキング:
1987(5位)、88(4位)、89(4位)、90(5位)、97(3位)

98年W杯にピークを迎えたリーグ2年連続得点王
 ゲオルゲ・クライオベアヌ - Gheorghe Craioveanu
88-90 メタルジス・スラティナ(B) -
90-91 ドロベタ・セヴェリン(B) -
90-95 ウニベルシタテア・クライオバ 130-61
95-98 レアル・ソシエダ(SPA) 90-26
98-02 ビジャレアル(SPA) 118-28
02-06 ヘタフェ(SPA) 115-16
1968年2月14日生まれ 初代表:1993年9月22日イスラエル戦
25試合−4得点 ラスト:1999年6月9日アゼルバイジャン戦
相手DFの裏を巧みに突くカウンター攻撃が得意な選手で短時間でも結果を出せたため、イリエやモルドヴァンの控えとして重宝された。90/91シーズンの途中に2部のセヴェリンからクライオバに移籍して1部デビューし、いきなりリーグ優勝とカップの2冠に輝くと、2年後の93年には自身の決勝での得点で2度目のカップ制覇。それまでは5点以下の得点しか記録していなかったが、翌年にはチームは2位で終える中で初の得点王を獲得した。このことでヨルダネスク初政権となった94年ワールドカップ予選で代表デビューして注目され始める。そして2年連続得点王のタイトルを手中に収めるとスペインに旅立った。ソシエダの3シーズン目にはチームを3位の好成績に押し上げてこの年の98年ワールドカップ予選に7試合出場し3得点と本選出場に貢献し、本選にも1試合に出場。大会終了後にはビジャレアルに移籍するが1年目こそ13得点と次第点を残すが、チームは2部に降格。代表でもそのサブとしてのポジションをガネアに奪われて2000年欧州選手権のメンバーからは落選した。結局代表では16試合が途中出場でスタメンフル出場は1試合にとどまった。翌年に昇格すると徐々にサブに追いやられていき、最後のシーズンにケガしたのをきっかけに2部のヘタフェに移ると経験を生かしてクラブを引っ張り、1部昇格に尽力した。(2006.10.23更新B)

ヨルダネスクに反目した黄金期のサブストライカー
 ヨーン・ヴラドウ - Ioan Vladoiu
87-91 アルジェシュ・ピテシュティ 75-13
90-94 ステアウア・ブカレスト 77-24
93-95 ラピド・ブカレスト 43-22
95-96 ステアウア・ブカレスト 33-26
96-98 1FCケルン(GER) 51-10
98-00 ディナモ・ブカレスト 36-26
99-00 キッカーズ・O(GER・B) 15-5
00-01 ステアウア・ブカレスト 12-9
01-02 アルジェシュ・ピテシュティ 18-8
02-03 ウニベルシタテア・クライオバ 13-2
02-04 アルジェシュ・ピテシュティ 16-0
03-04 UTAアラド(B) 3-1
1968年11月5日生まれ 初代表:1992年11月14日チェコ連合戦
28試合−2得点 ラスト:2000年9月3日リトアニア戦
プレーできる環境さえあればどこでもプレーし、自己の成績により周囲の雑音をかき消した国内での安定度抜群のストライカー。アルジェシュで1部デビューを果たして4シーズン過ごした頃は主にチャンスメーカーとして得点は多くなかった。ステアウアに移籍しての第1期に初の2ケタ得点でリーグとカップの制覇に貢献。直後スランプに陥りラピドへ放出されたが、ラピドで16得点をマークして復帰した95/96シーズンの第2期ステアウアでは26得点で初の得点王を取ると共にリーグとカップの2冠に導いた。その功績で移籍したケルンではD・ムンテアヌの同僚として奮迅するもインパクトに欠けたプレーで2シーズンを最後に国内復帰。ディナモでは初年度14得点、翌年には前半戦12試合で12得点をマークし冬の首位をお膳立てし(結局その年ディナモはリーグ制覇)、ドイツ2部に活躍の場を移した。その後自身3度目のステアウアで少ない出場機会ながらリーグ優勝に貢献した。代表では黄金期のサブとして94年ワールドカップ、96年欧州選手権に1試合ずつ出場。しかし、94年大会ではスイス戦の危険なタックルで3試合の出場停止を食らった後に監督と衝突し、決勝トーメントを前に強制帰国させられて、98年大会予選時もラドチョウ、ルペスクらと共に、ヨルダネスクに反旗を翻したりと問題を巻き起こした。(2005.7.2更新A)

94年本大会に大躍進を遂げた短命の若獅子
 フローリン・ラドチョウ - Florin Valeriu Radocioiu
  1970年3月17日生まれ   178cm 75kg   通算代表歴:40試合−21得点
  初代表:1990年4月25日イスラエル戦   最終代表:1996年6月18日スペイン戦
俊足を生かしたプレーで、1トップシステムにもってこいのゴールゲッター。16歳でディナモ・ブカレストで1部デビューを果たしてから5シーズン目に14ゴールを挙げてリーグ優勝に貢献、そしてカップ制覇の2冠とカップウィナーズカップには全8試合に出場して4得点の活躍でクラブはベスト4に。その功績により90年W杯直前の親善試合で代表デビューしてそのまま本選でも3試合に出場した。インパクトは残せなかったが、そのポテンシャルが認められてセリエAに参戦するチャンスが与えられた。特に92年には同郷の元代表監督ルチェスクがブレシアの監督になるとハジ、サバウらと共に呼び寄せられて、クラブはその年降格してしまうもラドチョウ自身は13ゴールを挙げて、世界的最強クラブACミランに拾われる。ミランではパパン、サビチェビッチ、ラウドルップという最高峰のFWが在籍していたため、リーグでは7試合の出場ととどまる。ミランは前年度欧州制覇しているため、ラドチョウは12月のトヨタカップにスタメン出場するチャンスを得たが惜しくもサンパウロに敗戦。その後は主にカップ戦要員となり、その年連覇したチャンピオンズカップにもたったの2試合ではあるが出場してゴールを記録している。この間の94年ワールドカップ欧州予選には5試合に出場して9ゴールを挙げて予選得点王になり、チームを2大会連続の本選出場に導いた。本大会では4ゴールを決めて欧州屈指のストライカーとして名乗りを上げると共にチームの歴代最高位のベスト8に貢献。ドゥミトレスクがハジとのコンビで存在をアピールするのに対し、ラドチョウは己の得点嗅覚に頼って一人でなんとかしてしまうタイプだった。そのままスペインに新天地を求め、エスパニョールと4年契約を交わすが、2度のレンタル放出が示すように活躍はできなかった。途中の96年には欧州選手権予選時の出場停止中にモルドヴァンがその穴を埋めて余りある活躍をしたため、本選でのスタメンは微妙だったが、結局は全試合不動でチーム唯一のゴールを決める。しかし大会での惨敗により代表チームにメンバー刷新の波が押し寄せて、静かにのまれていった。98年ワールドカップ予選時には召集の機運が高まるが、ヨルダネスク代表監督との確執で出場にはいたらなかったため、結局は96年大会が最後の代表戦になった。よって代表ではたった6年間、クラブでは93年以降パッっとしないというように早熟のサッカー人生で終わってしまった。一応、98年にレンタル先のシュツットガルトでカップウィナーズカップで準優勝している。(2005.7.5更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
85-86 ディナモ・ブカレスト 1-0 A4
86-87 ディナモ・ブカレスト 4-0 A2
87-88 ディナモ・ブカレスト 18-3 A2
88-89 ディナモ・ブカレスト 29-12 A2 5-1(6G)
89-90 ディナモ・ブカレスト 24-14 A1 8-4(8G)
90-91 バリ(ITA) 30-5 A13
91-92 ヴェローナ(ITA) 30-2 A16
92-93 ブレシア(ITA) 29-13 A15
93-94 ACミラン(ITA) 7-2 A1 2-1(8G) TOYOTA
94-95 エスパニョール(SPA) 30-9 A6
95-96 エスパニョール(SPA) 16-5 A4
96-97 ウエストハム(ENG) 11-2 A14
エスパニョール(SPA) 10-5 A12
97-98 シュツットガルト(GER) 19-4 A4 3-0(9G)
エスパニョール(SPA) 0-0 A10
98-99 ブレシア(ITA) 24-4 B7
99-00 ブレシア(ITA) 13-1 B3
00-01 ディナモ・ブカレスト 8-1 A2
ASモナコ(FRA) 9-2 A11
01-02 ASモナコ(FRA) 3-0 A15
02-03 所属なし - /
03-04 USクレテーユ(FRA) 9-1 B12
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(3試合)・1994年ワールドカップ出場(4試合・4得点)
1996年欧州選手権出場(3試合・1得点)
ルーマニア最優秀選手ランキング:1993(3位)、94(2位)、95(5位)

安定した数字を残したムードメーカー
 イオネル・ガネ - Ionel Tersinio Gane
88-89 ウニベルシタテア・クライオバ 1-0
89-92 エレクトロプテーレ・クライオバ 30-9
92-97 ウニベルシタテア・クライオバ 117-32
96-98 オサスナ(SPA・B) 33-4
98-99 ディナモ・ブカレスト 15-7
99-03 ザンクト・ガレン(SWI) 101-48
03-04 グラスホッパー(SWI) 31-16
04-05 ウニベルシタテア・クライオバ 5-0
2004 天津泰達(CHI) 13-6
04-05 ラピド・ブカレスト 8-1
05-06 ボーフム(GER・B) 1-0
05-06 ウニベルシタテア・クライオバ 13-5
06-07 アルジェシュ・ピテシュティ 7-0
1971年10月12日生まれ 初代表:1992年5月6日フェロー諸島戦
6試合−無得点 ラスト:2001年4月25日スロバキア戦
代表では日の目を見なかったが、生来の明るさと勝負強さで特にスイスリーグで大成したストライカー。17歳で1部デビューするが、強豪クラブから修行としてエレクトロプテーレに送られる。ユース代表の評判そのままに2年目には2部優勝、3年目に昇格したばかりのクラブをその得点力で3位に押し上げる活躍をみせた。この頃94年W杯予選のフェロー諸島戦でA代表にも選出される。翌年からは本家のウニベルシタテアに復帰し、リーグ優勝あと1歩のところで逃すが、カップ戦を制覇。後の4シーズンもつねに優勝争いを演じた。その活躍から2部であるが、スペインのオサスナに移籍するもケガの影響もあり、個人とクラブ両方で結果を残せなかった。しかし99年にスイスに渡るとその得点能力が開花して5シーズンで64ゴールを記録して、得点ランキングの常連に。ザンクト・ガレンを2度のリーグ優勝に導き、00/01シーズンにはUEFAカップでチェルシーを破る大金星を演じている。半年間プレーした中国ではボグダン・マーラとチームメイトだった。(2009.2.22更新)

どんな体勢でも泥臭くゴールを狙うフィニッシャー
 ヴィオレル・モルドヴァン - Viorel Dinu Moldovan
  1972年7月8日生まれ   177cm 75kg   通算代表歴:70試合−25得点
  初代表:1993年9月22日イスラエル戦   最終代表:2005年3月30日マケドニア戦
精力的な動きとスピードを生かしてゴールへ突進するタイプのFW。得点感覚に優れ、ゴール前のポジショニングは天性のもの。18歳でビストリツァでデビューし以降3シーズンで期待の若手として台頭し、強豪ディナモへ移籍。初年度から物怖じすることなくプレーすると代表にも召集され、94年W杯では出場機会は無かったが、バックアップとして参加する。翌シーズンにはスイスリーグへ移籍したため代表門戸は狭くなると思われるも、このシーズンいきなり得点王を獲得する働きでその不安も払拭。96年欧州選手権予選終盤にはラドチョウが3試合出場停止を食らっている間に存在をアピールした。特にイングランド行きを決めたスロバキア戦の活躍は、モルドヴァンをスタメンで起用せよと国内での評価も逆転した。本選では途中出場に甘んじたが、大会後はイリエと組んで不動の2トップとなり、大事な場面では常にゴールを決めて、98年W杯予選では合計6得点を叩き出した。クラブでも96年大会後に移籍した国内チャンピオンのグラスホッパーで2季連続となる得点王を獲得し、初のチャンピオンズリーグでも3得点を記録。翌シーズンは冬に破格の金額でコベントリーに移籍するまで19試合で17得点を決めてランキングトップを独走した。98年W杯本大会でも2得点を決めて、ルーマニアのモルドヴァンを世界に知らしめた。その後フェネルバフチェで2シーズンを53試合で33ゴールと活躍した後、2000年の欧州選手権にも出場し、全4試合出場1得点で後期黄金時代の重要な選手となった。大会後にはフランスリーグのナントに所属。23試合で11ゴールを決め、カリエールと共にリーグ制覇の最大功労者となった。翌年は2度目のチャンピオンズリーグに出場し、マンチェスター戦でも得点を決めたが、ケガの影響でリーグでは2年連続でパッとせず、様々な中堅オファーの中から金銭により中東へ旅立ってしまった。結局馴染めないまま3ヶ月で復帰したナントでは12試合11得点という後期得点王の記録を残すも、自身の複数年とクラブの1年契約提示に折り合いがつかないままに、再度スイスに新天地を求めた。ここまで2大会連続で本大会を逃した代表でもそれぞれ出場するが、ケガで2度の代表引退もあり、さほどプレーしていない。そしてセルベッテ破産後には現役引退示唆すらしたが、あれほど公然と毛嫌いしていた国内に復帰。ベテランとしての味をかもし出しチームを牽引するとピツルカの代表にも呼ばれ、W杯予選オランダ戦に出場した。悲しいかなスピード不足を露呈してしまい、世界レベルとの距離を感じずにはいられなかった。ちなみに代表得点数はハジ、ボドラ、ムトゥに次ぐ歴代4位。(2005.12.5更新)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
90-91 グロリア・ビストリツァ 18-1 A5
91-92 グロリア・ビストリツァ 26-6 A11
92-93 グロリア・ビストリツァ 28-7 A5
93-94 ディナモ・ブカレスト 29-9 A3 2-2(2G)
94-95 ディナモ・ブカレスト 31-10 A3 1-0(2G)
95-96 ヌシャーテル(SWI) 32-19 A3 3-0(2+2G)
96-97 グラスホッパー(SWI) 32-27 A3 7-3(2+6G)
97-98 グラスホッパー(SWI) 19-17 A1 6-2(4+2G)
コベントリー(ENG) 10-1 A11
98-99 フェネルバフチェ(TUR) 27-15 A3 4-1(2+2G)
99-00 フェネルバフチェ(TUR) 26-18 A4 2-0(2+0G)
00-01 ナント(FRA) 23-11 A1 5-5(8G)
01-02 ナント(FRA) 17-5 A10 3-2(12G)
02-03 ナント(FRA) 17-4 A9
2003 アル・ワーダ(UAE) 1-0 A3
03-04 ナント(FRA) 12-11 A6
04-05 セルベッテ(SWI) 13-3 A
FCUポリ・ティミショアラ 11-2 A6
05-06 FCUポリ・ティミショアラ 12-6 A8
ラピド・ブカレスト 13-8 A2
06-07 ラピド・ブカレスト 28-7 A4 7-3(4+6G)
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1994年ワールドカップ出場(0試合)・1998年ワールドカップ出場(4試合・2得点)
1996年欧州選手権出場(2試合)・2000年欧州選手権出場(4試合・1得点)
ルーマニア最優秀選手ランキング:
1996(3位)
スイスリーグ得点王:95/96シーズン(ヌシャーテル)・96/97シーズン(グラスホッパー)

激しさと美しさを兼ね備えた黄金世代の残り香
 ヴィオレル・ガネア - Ioan Viorel Ganea
92-94 ICIMブラショフ(B) -
94-96 FCブラショフ 50-4
95-98 ウニベルシタテア・クライオバ 51-22
98-99 グロリア・ビストリツァ 16-17
98-99 ラピド・ブカレスト 16-11
99-03 シュツットガルト(GER) 106-34
03-04 ブルサスポール(TUR) 15-5
03-06 ウォルバーハンプトン(ENG) 27-7
06-07 ディナモ・ブカレスト 18-14
06-07 ラピド・ブカレスト 8-2
07-08 FCUポリ・ティミショアラ 18-3
1973年8月10日生まれ 初代表:1999年3月3日エストニア戦
44試合−18得点 ラスト:2006年9月6日アルバニア戦
遅咲きではあるがスタメンはもちろん、途中出場でも抜群の勝負強さを誇り、決めるゴールのほとんどが記憶に残る豪快なもので“ルーマニアの爆撃機”と呼ばれるストライカー。20代前半はさほどパッとしないプレー内容でブラショフとクライオバで凡庸な選手として埋もれていたが、ウニベルシタテアでの3シーズン目にサブながら11得点を記録してにわかに注目されるようになった。翌シーズンには前期にグロリアで1試合1得点のハイアベレージでゴールを量産するとようやく首都クラブのラピドへ加入することに成功した。ラピドでは半年の間にあいかわらず好調を持続してそのシーズンの得点王を手中に収めると共にリーグ制覇におおいに貢献してみせた。同年代のイリエやモルドヴァンが早くから台頭する中で、この頃に26歳にしてようやく自身の2ゴールで鮮烈なフル代表デビューを飾る。99年にはモルドヴァンの控えとして2000年欧州選手権予選を含む9試合に出場して6得点を決め、ミハルチェアからその控えとしてのポジションを奪い、本選でもイングランド戦で逆転予選突破となるPKを決めた。その後の予選ではスタメンに昇格し、本選突破はならなかったが、あいかわらずの決定力で代表FWを率いた。ドイツでの4シーズンは徐々に控え的な存在にはなったももの、出場時間の割には結果を残し、特に2002年11月のボーフム戦では後半71分に出場すると同点弾、再同点弾、逆転弾と19分でハットトリックを決めるとチームは3-2の勝利を収めていちやくそのジョーカーぶりをファンの脳裏に焼き付けた。しかしシュツットガルトとの契約が満了するとツキに見放された人生がスタート。まず1部昇格したフランクフルトからのオファーを蹴ってまで、監督就任したハジの誘いでトルコのブルサスポールに入団したが、クラブは低迷し続けてハジも個人的理由で半年で退団。自身も移籍を望むが、ドイツの名声はこの半年で消えうせて魅力的なオファーはなく、イングランドの弱小クラブにかろうじて入団する。クラブの2部降格と共に再起を図った04/05シーズンはリーグ開幕前に重傷を負っていまい、1年間まったくプレーせず。06年に国内復帰してさすがという決定力を見せ、9月の欧州選手権予選アルバニア戦直前のリーグでハットトリックを披露して代表復帰を果たすが、その出場時間で揉めたためピツルカ政権では出番なしとされている。(2006.10.23更新B)

コブラと形容された世界的名手
 アドリアン・イリエ - Adrian Bucurel Ilie
  1974年4月22日生まれ   177cm 72kg   通算代表歴:55試合−13得点
  初代表:1993年9月22日イスラエル戦   最終代表:2005年3月26日オランダ戦
俊足でテクニックを兼ね備え、緩急自在で変化に富んだドリブルで相手DFを混乱に陥れるストライカー。MFでもプレーできる幅広さで、どこからでもゴールを決められる素晴らしい得点感覚から“コブラ”と呼ばれている。18歳で迎えたエレクトロプテーレでの92/93シーズンに12ゴールを挙げてステアウアに加入。その年に代表デビューすると共に以後ステアウアを3連覇(最後の年はカップも制して2冠)に導いて、96年欧州選手権でも全3試合に出場。翌年にはシーズン途中でハジとポペスクに請われてトルコの強豪ガラタサライに移籍しリーグ優勝。この頃の98年ワールドカップ欧州予選には8試合出場し、本選では初戦のコロンビア戦であざ笑うかのような芸術的ループシュートで世界の注目を浴びた。大会後は首位を走るガラタサライをシーズン半ばで離れて、当時ルーマニア選手最高移籍金額でスペインのバレンシアに渡り、いきなり12得点を決める活躍でスペインメディアの評価も得た。この年のルーマニア最優秀選手にも選ばれる。翌年にもリーグで11ゴール、スペイン国王杯獲得に貢献するなどしたが、徐々に慢性的なケガに苦しみ欠場と復帰を繰り返すようになる。バレンシアのチャンピオンズリーグ快進撃の99/00シーズンには12試合出場してファイナルにも途中出場している。その一方で2000年欧州選手権は予選で6試合5得点、本選にも3試合出場と面目を保った。バレンシア最後のシーズンには10試合2得点の寂しい記録ながらも念願のリーグ制覇を経験し、アラベス→半年の浪人後にベシクタシュ→チューリヒと下り坂を転がり続けている。そして最近までたまに代表に召集されていたが、半年のフリー状況を経て、2006年1月11日をもって現役引退と報道された。(2006.1.11更新B)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
91-92 エレクトロプテーレ 1-0 A3
92-93 エレクトロプテーレ 30-12 A6 1-0(2G)
93-94 ステアウア・ブカレスト 23-3 A1 4-0(4G)
94-95 ステアウア・ブカレスト 28-11 A1 6-3(2+6G)
95-96 ステアウア・ブカレスト 24-12 A1 7-2(2+6G)
96-97 ステアウア・ブカレスト 10-1 A1 3-4(2+6G)
ガラタサライ(TUR) 18-6 A1
97-98 ガラタサライ(TUR) 12-6 A1 7-5(2+6G)
バレンシア(SPA) 17-12 A9
98-99 バレンシア(SPA) 24-11 A4 4-2(4+4G)
99-00 バレンシア(SPA) 22-5 A3 12-3(2+17G)
00-01 バレンシア(SPA) 10-0 A5 2-0(2+17G)
01-02 バレンシア(SPA) 10-2 A1 3-3(10G)
02-03 アラベス(SPA) 22-6 A19
03-04 所属なし -
ベシクタシュ(TUR) 13-6 A3 2-0(2G)
04-05 FCチューリヒ(SWI) 23-7 A5
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1998年ワールドカップ出場(4試合・1得点)
1996年欧州選手権出場(3試合)・2000年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手ランキング:1998年

4年越しの本大会の夢を成し遂げたシャドーストライカー
 ラドゥ・ニクレスク - Radu Horia Niculescu
90-94 インテル・シビウ 62-16
94-95 ディナモ・ブカレスト 3-0
94-95 ウニベルシタテア・クライオバ 9-1
95-99 ナシオナル・ブカレスト 87-40
98-99 ラピド・ブカレスト 8-2
99-02 ナシオナル・ブカレスト 37-13
00-01 ステアウア・ブカレスト 10-3
01-02 ガラタサライ(TUR) 9-3
02-03 アンカラグチュ(TUR) 5-1
02-04 ステアウア・ブカレスト 1-1
03-04 ナシオナル・ブカレスト 5-0
2004 長春亜泰(CHI・B) 7-3
1975年3月2日生まれ 初代表:1994年2月13日アメリカ戦
15試合−2得点 ラスト:2000年2月6日キプロス戦
気まぐれな性格で少々扱いづらい感はあったが、ペナルティエリア内では無類の強さを発揮したストライカー。故郷のシビウで15歳で1部デビューすると大事に育てられ、4年後には十分な出場機会を与えられるとカールスバーグカップでフル代表デビューを果たした。この94年には5試合に出場して20歳ながら次第点の活躍をみせたため、W杯本大会メンバーは当確と噂されたが、直前のケガにより栄誉を棒に振ってしまう。その後は当時優勝争いをしていたナシオナルでコンスタントに得点を決めると、トリノやスペインクラブからオファーが来るようになるが、W杯のためにはこのまま国内にとどまる方が良しと判断。その選択が成功し、98年2月のアルゼンチンとの非公式マッチでゴールを挙げると、翌月のイスラエル戦で3年ぶりに代表復帰。そのまま本大会でもサブながら2試合に出場して4年越しの夢を叶えた。大会後には2000年のキプロストーナメントに2試合出場してのみで代表とは縁遠くなり、以降クラブも転々とするようになったが、ステアウアとガラタサライで出場機会は限られていたもののリーグ優勝メンバーの栄光を授かっている。(2005.12.7更新)

我が道を行き過ぎて代表の門戸を閉ざした悪童
 サビン・イリエ - Sabin Ilie
93-94 エレクトロプテーレ 4-0
94-95 FCブラショフ 19-5
95-97 ステアウア・ブカレスト 54-33
97-98 フェネルバフチェ(TUR) 12-3
97-98 コカエリスポール(TUR) 7-2
98-99 バレンシア(SPA) 0-0
98-99 レイダ(SPA・B) 20-3
99-00 ステアウア・ブカレスト 15-3
99-01 ナシオナル・ブカレスト 24-14
00-01 エネルギー・コットブス(GER) 10-0
01-02 ディナモ・ブカレスト 7-3
01-03 ナシオナル・ブカレスト 23-5
02-03 デブレチェニ(HUN) 10-6
03-05 ラピド・ブカレスト 31-18
2005 長春亜泰(CHI・B) 13-13
05-06 FCヴァスルイ 4-0
2006 江蘇舜天(CHI・B) 16-2
06-07 UTAアラド 8-1
06-07 イラクリス(GRE) 2-1
07-08 ドゥナレア・ジュルジュ(B) 4-0
2008 青島海利(CHI・B) 22-18
1975年5月11日生まれ 代表出場なし
代表出場なし 代表出場なし
若き頃からその無限のポテンシャルを注目されるも、わがままな性格が災いして常に首脳陣やチームメイトとの問題が絶えなかった超問題児で代表FWアドリアン・イリエの弟。18歳で1部デビューを飾ると弱小のエレクトロプテーレとブラショフでのプレーぶりが買われて強豪ステアウアに移籍する。1年目には得点こそ少なかったが、クラブのリーグ・カップ2冠をサポートし、2年目にはその得点能力が開花して31試合で31得点を記録して得点王を獲得すると共に文句無くMVPとして2年連続2冠の最大功労者となった。そしてこの頃には非公式試合ながらタイで行われたキングスカップでコントラ、パンクらと共にルーマニア国内選抜として日本代表と対戦しており、日本のメディアに紹介された。以降の代表の戦力になると思いきやピッチ外の話題で結局はフル代表キャップは刻んでいない。知る限りでは、兄の名声のコネで入団したスペインの強豪バレンシアで開幕前の不摂生のせいでおデブちゃんになりまったくプレーさせてもらえずに半年でレンタル放出。ドイツのコットブスでは監督批判・チームメイトとのケンカを繰り返し、飲酒運転逮捕を最後にクビ通告。ナシオナルではゼンガとウマが合わず移籍問題で紛争。リーグ連盟の仲介でフリーになるも、ハンガリーのデブレチェニでは同じく監督批判のため解雇。と傍若無人のかぎりを尽くしている。それでも実力は申し分なく、成績はある程度残している。特にラピドの好調を牽引した2004年8月にはW杯予選フィンランド戦でマリカのケガによる代替選手として久々に召集された。その後もあいかわらず渡り鳥人生を謳歌しているが、中国2部リーグではスター扱いしてくれるせいか、比較的おとなしく過ごした。そしてUTA、イラクリスと定番の監督不和で早期退団を楽しむと、浪人中の弟を見ていれなくなった兄アドリアンがステアウアのスポーツディレクターに就任したコネでドゥナレアに加入。しかしいつの間にか安住の中国へと旅立っていた。そのレベルではさすがというか、1試合1ゴールの確率でネットを揺らしている。(2008.5.23更新A)

ディナモ産の攻撃を司ったウインガー
 アドリアン・ミハルチェア - Adrian Dumitru Mihalcea
95-96 ドゥナレア・カララシ 34-4
96-02 ディナモ・ブカレスト 164-68
01-03 ジェノア(ITA・B) 41-11
03-04 ヴェローナ(ITA・B) 25-4
04-05 ディナモ・ブカレスト 17-1
2005 全南ドラゴンズ(KOR) 3-0
05-06 FCヴァスルイ 13-1
06-08 アリス・リマソル(CYP) 49-28
08-09 AELリマソル(CYP) 23-5
09-10 アリス・リマソル(CYP) 28-8
10-11 アストラ・プロイエシュティ 7-1
10-11 ウニレア・ウルジチェニ 15-3
11-12 コンコルディア・キアジナ 18-1
12-13 コンコルディア・キアジナ -
1976年5月24日生まれ 初代表:1998年9月2日リヒテンシュタイン戦
16試合−無得点 ラスト:2003年4月30日リトアニア戦
洗練されたドリブルスキルでの縦への突破とミドルシュートで得点を量産しディナモ歴代5位の得点記録を持つチャンスメーカー。ドゥナレアで1部デビューしてからすぐにディナモへ入団すると3トップの一角として6シーズンをフル稼働した。98/99シーズンには得点ランク4位となる18得点を記録すると、翌年は相変わらずの得点能力でリーグとカップの国内2冠を味わう。しかしその後のイタリア2部への海外チャレンジは成功と言えるものではなく、常に降格争いに身を投じた3シーズンになってしまった。期待されて復帰したディナモでも交代出場ばかりで、解雇通告を受けるなどしたが、翌年後半からプレーしたヴァスルイでは最下位クラブを牽引して1部残留目標を果たしてみせた。代表では2000年欧州選手権予選を戦う第1次ピツルカ政権での重要なFWの交代要員として出場機会を得て、惜しくも本選メンバーにはエントリーされなかったが、続くイエネイ、ボローニ、ハジ政権でも起用され続けた。(2006.12.4更新)

頼りになる決定力抜群の国内専用爆撃機
 クラウディウ・ニクレスク - Claudiu Iulian Niculescu
94-95 ジウル・クライオバ(B) 30-5
95-97 エレクトロプテーレ・(B) 48-29
97-01 ウニベルシタテア・クライオバ 93-41
01-03 ディナモ・ブカレスト 30-20
02-03 ジェノア(ITA・B) 13-3
03-08 ディナモ・ブカレスト 123-69
07-08 デュイスブルグ(GER) 17-4
08-09 オモニア・ニコシア(CYP) 2-1
08-10 ディナモ・ブカレスト 38-9
10-12 ウニベルシタテア・クルージュ 41-18
1976年6月23日生まれ 初代表:2000年11月15日ユーゴスラビア戦
8試合−無得点 ラスト:2007年8月22日トルコ戦
剛のプレースタイルでフリーキックをも得意とし、超攻撃布陣ディナモを引っ張る高性能スコアリングマシン。地元のクライオバで着実にプレーに磨きをかけると、ウニベルシタテアでの99/00シーズンに16得点を挙げてリーグランク3位になると一気に脚光を浴びる。翌年も得点を量産すると代表にも選ばれ、優勝を狙えるディナモへの移籍が実現。ライバルFWひしめく代表への定着にはならなかったが、評判どおりの活躍を見せて初年度に15得点を記録してリーグ優勝へと導く。02/03シーズンにはプレマッチでのレアル・マドリッド戦の2ゴールと開幕2試合での5ゴールのインパクトで以前からオファーのあったセリエBのジェノアに移籍することになり、ディナモは結局1年で退団。念願の海外では同郷のミハルチェア、コドレアとプレーとチームメイトとなるも、ケガの影響でさしたるインパクトを与えることができず半年でディナモに復帰となった。ケガの影響でこのまま終わっていくと思われた中でダンチウレスクと最強のN&Dコンビを結成し、復帰1年目に16得点を決めてまたもやリーグ制覇に貢献したのは立派の一言につきる。翌年には優勝こそ1ポント差でステアウアに譲るも、カップ戦2連覇と21得点で初の得点王に輝く。この活躍で3年ぶりに代表復帰を果たし、大事な予選にも召集された。国内在籍時6連続で得点ランク3傑に入る最高のストライカーではあるが、年齢からか海外再挑戦は厳しいとみられていた中でのデュイスブルグに移籍。さほど活躍はできずに2部降格の憂き目にあった。(2008.11.6更新A)

坂を転がり続ける内弁慶のシュテリスト
 クラウディウ・ラドゥカヌ - Claudiu Nicu Raducanu
94-98 エレクトロプテーレ 54-3
98-00 エクステンシブ・クライオバ 46-15
99-04 ステアウア・ブカレスト 106-52
03-04 エスパニョール(SPA) 11-3
04-05 A・ビーレフェルト(GER) 5-0
05-06 FCヴァスルイ 15-1
2006 広州医薬(CHI・B) 18-5
06-07 ネア・サラミア(CYP) 8-1
07-08 ソレント・カルチョ(ITA・C) 0-0
07-08 U・クルージュ 9-0
08-09 ハザル・レンコラン(AZE) 9-1
09-10 ポブレ・セック(SPA・E) 7-6
09-10 CFガヴァ(SPA・C) 9-0
10-11 CEプレミア(SPA・C) 0-0
11-12 PSMマッカサル(IDN) -
12-13 ASミルコフ(D) -
1976年12月3日生まれ 初代表:2003年4月30日リトアニア戦
2試合−無得点 ラスト:2003年11月16日イタリア戦
華麗なというよりは抜群のポジショニングで効率よくゴールを量産したステアウアの内弁慶なストライカー。クライオバの2クラブで過ごした6シーズンは内4シーズンが2部だったこともありさほど注目はされない存在であったが、冬の移籍マーケットで2000年にステアウアに加入すると翌シーズンは12得点を記録してリーグ制覇に一役かった。次のシーズンも2期連続クラブ得点王となる14得点を記録するもエースとしてはまたもやディナモ、ラピドの後塵を拝する結果に。所詮その程度の実力と思われた02/03シーズンに前半こそ4得点と期待を裏切ったが、後半戦に怒涛のラッシュで17得点を奪い、念願のリーグ得点王に輝いた。同時期に代表デビューも果たし海外挑戦の機運が高まるとUEFAカップ3戦連続ゴールを手土産にスペインのエスパニョールへ移籍する。しかしこれが彼の人生を狂わせることに。後半70分から出場したデビュー戦こそいきなり決勝ゴールを決め、その週のリーガMVPに選ばれたが、コンスタントに活躍することができずにわずか半年でドイツにレンタル放出。そこでもインパクトを残せずに結局は契約解消とされ、国内ならばと昇格してきたヴァスルイに入団するもわずか1得点の体たらくで屈辱のサテライト送りになる。極めつけは弱小リーグの中国のしかも2部でプレーという転落人生で、今は見る形もないほどに落ちぶれている。(2008.11.6更新A)

失意の中国移籍が付きまとう屈指のハンター
 イオネル・ダンチウレスク - Ionel Daniel Danciulescu
93-95 エレクトロプテーレ 31-8
95-97 ディナモ・ブカレスト 64-22
97-98 アルタイ・イズミル(TUR) 7-1
97-02 ステアウア・ブカレスト 129-53
01-02 ポイアナ・クンピア(B) 1-1
01-05 ディナモ・ブカレスト 81-51
2005 山東魯能(CHI) 26-10
05-10 ディナモ・ブカレスト 115-52
09-10 ヘルクレス(SPA・B) 25-10
10-12 ディナモ・ブカレスト 61-20
12-13 ディナモ・ブカレスト -
1976年12月6日生まれ 初代表:1999年3月3日エストニア戦
8試合−2得点 ラスト:2009年8月12日ハンガリー戦
セカンドタイプのFWでペナルティエリア内では無類の勝負強さを見せた国内屈指のプレイヤーながら、当時ルーマニア最優秀選手の称号を手土産にサッカー後進国の中国に活躍の場を求めおおいに失望を与えた選手。弱小エレクトロプテーレで頭角を現してディナモに拾われた95/96シーズンに早くも14ゴールを決め、そのポテンシャルを証明してみせると海外進出のチャンスが訪れる。トルコではその異国文化に馴染めずに半年で離脱という辛酸を舐めたが、国内復帰したステアウアでは14試合で13ゴールを決めてリーグ制覇の原動力に。その後も2年連続して2試合に1ゴールの確率で得点を決め、クラブのゴールゲッターとなった。2002年1月には当時ステアウア監督のピツルカと犬猿の仲にあったエージェントと契約をしたため、ユースチームに追放され、その後に売りに出されると、01/02シーズンのウインターブレイクにディナモと4年契約を結ぶ。これがさらなる上昇への転機となった。初年度こそ禁断の国境越えと言われる移籍とあって味方からさえもブーイングを浴びたが、翌3シーズンにはニクレスクとの黄金コンビ“N&D”でゴールを量産し続けてリーグ2度制覇、カップ戦3連覇、特に03/04シーズンには得点王となり、2冠に大いに貢献してファンからも愛される存在になった。そして今まで海外選手偏重のヨルダネスク代表監督に無視されていた代表への門も開かれて、2004年3月のスコットランド戦で5年ぶりに代表復帰を果たした。それから5試合連続でスタメンを任されて、ドイツ戦では2ゴールを挙げるもその後は結果が伴わずにケガで辞退を機に呼ばれなくなっていき、翌シーズンはフランスのナントからオファーがあったものの、クラブがチャンピオンズリーグ本選出場のため放出を拒んでいる内に皮肉にもラピドのブラトゥがナントに移籍してチャンスを失ってしまった。そのため序盤はスランプに陥り、代表FWの座もマリカに奪われるが、持ち直して前半戦で11ゴールを記録すると、国内選手としては14年ぶりにルーマニア最優秀選手に選ばれた。しかしその直後に金銭面で中国にレンタル移籍するという暴挙に出たために、その称号の重みを落としてしまった。国内復帰後は強力ディナモ攻撃陣の一角としてあいかわらずのプレーを見せているものの代表への道は閉ざされてしまった模様。しかしラズヴァン・ルチェスク体制になった2009年6月に5年ぶりに復帰している。(2009.6.9更新B)

ドイツで一瞬輝いたゴールの双子
 セルジュ・ラドゥ - Sergiu Radu
96-98 ジウル・ペトロシャニ 14-0
97-98 オリンピア・サトゥマーレ 23-12
98-01 ラピド・ブカレスト 54-14
00-03 ナシオナル・ブカレスト 68-25
03-05 ル・マン(FRA) 13-0
04-05 ナシオナル・ブカレスト 15-7
05-07 エネルギー・コットブス(GER) 67-26
07-08 ヴォルフスブルグ(GER) 11-2
07-08 シュツットガルト(GER) 2-0
08-09 1FCケルン(GER) 22-2
09-11 エネルギー・コットブス(GER) 30-3
10-12 アレマニア・アーヘン(GER) 41-5
12-13 アレマニア・アーヘン(GER) -
1977年8月10日生まれ 初代表:2007年9月8日ベラルーシ戦
1試合−無得点 ラスト:2007年9月8日ベラルーシ戦
ドリブル、パスにおいてはずば抜けたという能力までは持ち合わせていないが、一瞬のゴールの匂いを嗅ぎわけて結果を残すストライカー。国内ではペトロシャニでデビューするも2シーズンに渡ってノーゴールで終わり、ストライカー失格の烙印と共に2部に送られる。しかしオリンピアでは20歳ながらクラブのエースとして12ゴールを奪い、2部リーグで優勝したことにより国内の雄ラピド・ブカレスト入りが叶った。その1年目にクラブはリーグ制覇するも個人成績は2ゴールと散々な結果に終わり、翌年こそ11ゴールを記録するが、期待が大きいクラブでのFWとしては寂しいものとされてナシオナルに放出される。そこでの3シーズンは中堅クラブとしての次第点をクリアし、2年目はリーグ2位に貢献、3年目は得点ランキング4位の13得点を記録した。その活躍がフランスリーグで昇格を果たしたル・マンに認められて初の海外移籍を経験するが、1年半の生活は完全に失敗と言える散々なもので、失意のままにナシオナルに復帰。後半戦からの出場だったが、7得点を奪う活躍でリーグを4位まで押し上げ、カップ戦では4強と完全に失敗を払拭。そうすると結局フランスを去ってから半年でまたもや海外のチャンスを得た。05/06シーズンに1部昇格を願うドイツのエネルギー・コットブスに請われると期待通りの12得点でクラブ念願の1部昇格に貢献し、翌年には同郷のヴラド・ムンテアヌが入団してくると1部残留が目標という予想を跳ね除けて、最終3連敗までは7位と余裕の残留に貢献。特にラドゥ14得点、ムンテアヌ11得点という記録はクラブ総得点の7割になり、ドイツ国内でも「ゴールの双子」として注目の的になった。しかし代表では長らくの国内の起用論に反してピツルカ監督がもはや個人的好みとしか言えない矛盾した理由によって、絶好中での起用はならずにシーズンオフの2007年9月にようやく急遽の代役として1試合のみの出場だった。翌シーズンは財政的に厳しいクラブにあってこの注目のコンビを売ることは止むを得ず、揃ってヴォルフスブルグに迎えられたが、共にインパクトを与えられず別のチームにレンタル放出され輝きを放ったコンビは解散。現在までもレンタル生活の日々が続いている。(2009.2.24更新)

低迷期に代表を支えた真のオールラウンダー
 ダニエル・パンク - Daniel Gabriel Pancu
94-97 ポリテニカ・ヤシ 60-4
96-99 ラピド・ブカレスト 68-22
99-00 チェゼーナ(ITA・B) 34-3
00-02 ラピド・ブカレスト 44-28
02-06 ベシクタシュ(TUR) 80-16
05-06 ラピド・ブカレスト 13-2
06-08 ブルサスポール(TUR) 32-3
07-08 ラピド・ブカレスト 8-2
08-09 テレク・グロズヌイ(RUS) 33-10
09-10 CSKAソフィア(BUL) 6-2
10-11 ヴァスルイ 5-0
10-12 ラピド・ブカレスト 37-10
12-13 ラピド・ブカレスト -
1977年8月17日生まれ 初代表:2001年10月6日グルジア戦
27試合−9得点 ラスト:2005年6月5日オランダ戦
足に吸い付くようなボールコントロールを駆使したドリブルで一気に独力でフィニッシュまでもっていくことができるストライカーであり、実直を絵に描いたような真面目な性格でチーム内での信頼度は抜群に高い選手。95年に地元のポリテニカ・ヤシで1部デビュー。そこでの活躍が首都のラピド・ブカレストの目に留まり、翌シーズンに移籍。97/98シーズンには11ゴールを挙げてチームを前年の8位から2位に引き上げると同時に国内カップを獲得する。翌年にリーグタイトルを獲得すると、セリエBのチェゼーナへ1年間のレンタル修行に出るが、時期尚早のためまったくと言っていいほど活躍できなかった。ラピドへの復帰後はエースとして抜群の得点感覚で熱烈なサポーター達の心を再び手中にし、開幕5試合で6得点を記録したのを機に2002年ワールドカップ予選を戦うハジ監督の下で代表デビュー。02年夏の移籍期間には、かつての恩師であるミルチェア・ルチェスク監督率いるベジクタシュと3年契約を結ぶ。リーグ戦で7ゴールを挙げるなど、期待通りの活躍を見せ、ベジクタシュはリーグタイトル獲得し、UEFAカップでは4ゴールを決めてベスト8進出に貢献した。代表でも欧州選手権予選のこの頃からゆるぎない中盤のスタメンとして君臨し、翌年にはチャンピオンズリーグに出場して2ゴールを決める。2006年ワールドカップ予選では暗雲立ち込めたヨルダネスク政権時に召集されなかったとか出場時間が短い等の起用法を巡って様々な選手がわがままともとれる代表拒否を示唆したが、代表に長くとりまく温室的なネガティブの雰囲気に対してスタメン安泰ながら監督に反旗を翻したのは彼だけであり、それが彼の実直な性格をあらわしている。後のピツルカ政権に代わってもそのプレー面、精神面共に評価され起用され続けたが、05年のケガをきっかけに以前のようなコンディションにまでは回復せず、現在まで代表から遠ざかっている。クラブでも同様にベシクタシュで干され始めたため、代表復帰を叶えるために一念発起し、半年間の国内復帰を果たした。その後は1部昇格したブルサスポールに移籍するもケガの影響を引きずって十分な出場機会は得られなかった。またルーマニアを代表するマルチロールで、当初のストライカーから、後に代表でもクラブでも主に攻撃、守備共にすべてのMFポジションを経験。ベシクタシュではさらにすべてのDFポジションを経て、2005年4月のフェネルバフチェ戦では、80分に退場になった正GKの代わりにゴールマウスに立ち、敵の圧倒的攻撃力をナイスセーブの連発で勝利に導き、見事MVPに選ばれている。日本では3大会連続で本選を逃した下りの時期にあって日の目を見なかったが、当時の数少ない安定した主力であり、代表を支えてくれた選手。(2008.11.6更新A)

国内で活躍するエリア内の軽業師
 ムグレル・ブガ - Mugurel Mihai Buga
96-00 FCブラショフ 98-14
00-01 ラピド・ブカレスト 3-0
00-05 FCブラショフ 101-33
04-08 ラピド・ブカレスト 94-20
08-09 FCブラショフ 12-1
09-10 ラピド・ブカレスト 14-6
09-11 スコダ・クサンシ(GRE) 23-4
11-12 FCブラショフ 25-3
12-13 FCブラショフ -
1977年12月16日生まれ 初代表:2006年5月27日北アイルランド戦
6試合−1得点 ラスト:2007年2月7日モルドバ戦
得点は多くないが、ゴール前での小技テクニックとサイドに開いてのチャンスメイクに秀でたセカンドストライカーで「ジュレシュティのペレ」と呼ばれている選手。故郷ブラショフで97年に1部デビューすると4年間を2部とのいったりきたりで不遇であったが、そのテクニックが認められ2000年にラピドで半年を過ごす。帰還後には大幅にスキルアップし、弱小クラブを3位に導いて翌年には予選での連続ゴールでブラショフを27年ぶりのUEFAカップ本選出場させる貢献。その後も変わらず6位、4位ともはや強豪とも言える結果の牽引力となり、ブラショフ躍進の立役者としてリーグを席巻した。代表にも出場はならなかったが、何度かヨルダネスク監督に召集されている。05年にはラピドに移籍して翌年にはカップ戦制覇。そしてなんといってもこの年のUEFAカップでは同国のステアウアに敗れるもののベスト8進出、ブガは予選から全16試合に出場して多くの決勝点を含む9得点。D・ニクラエの8得点と合わせて各国の脅威の的となった。フェイエノールト、レンヌ、シャフタルと続き、シュツットガルト、ヘルタ、ハンブルガーでは3連続ゴールを含むパフォーマンスで撃破。特にハンブルガー戦では右サイドからの速く低いクロスを股の下を通し、カカトでゴール左隅にゴールというかつてマンチーニやゾラといったプレイヤーが得意としたファンタジーでドイツ紙にもデカデカと掲載された。代表ではこの後のトライアルを兼ねた2006年の北米ツアーでようやく代表初キャップを記録するとゴールを含め次第点の内容で以後起用されていった。しかし翌シーズンのラピドではD・ニクラエの去ったチームにあって前年ほどの輝きは見せることができず、UEFAカップでもグループリーグで全4試合を引き分けるのがやっとで敗退。代表でもいまだ途中出場要員でしかなく、強豪とのビッグマッチでは出場機会が与えられていない。前線のコマの充実と年齢からかこれから目覚しい活躍は厳しいが一矢報いて欲しい。(2007.4.28更新)

世界的実力とマイナスイメージを提供し続ける諸刃の剣 −現代表候補
 アドリアン・ムトゥ - Adrian Mutu
  1979年1月8日生まれ   178cm 72kg   通算代表歴:75試合−34得点
  初代表:2000年3月29日ギリシャ戦   最終代表:2012年10月16日オランダ戦
持ち前のスピードとドリブルテクニックで相手DFを翻弄し、そのまま執念で得点を奪う超エゴイストのゴールハンター。チームの窮地を救うFKも特筆すべき武器で、ポジションは違えどハジと同じく扱いづらい天才肌の選手である。地元ピテシュティのユースで頭角を現し、チャンスメーカーとしてアルゲシュを上位に押し上げた功績から、国内の強豪ディナモ・ブカレストに移籍。翌年の2冠を果たした99/00シーズンには前半戦を18試合18得点とハイペースでゴールを量産し、セリエAのインテルからのオファーを受けてスター軍団の一員になる。ファンやリッピ監督からは評価を得るが、リッピ政権が終了すると共にレンタルでヴェローナに放出されると、1年目こそ目立った活躍はなかったが、2年目には降格の憂き目にあうチームの中で12得点を挙げてユベントスの興味を引くことに。シーズン終了後の移籍マーケット最終日にユベントスに去ったディバイオの後釜として、玉突き現象的にパルマへ移籍。前年のエースであったディバイオに劣る評価でクラブからは不安視されたが、いざ開幕すると右のナカータ・センターのアドリアーノ・左のムトゥで攻撃トライアングルを形成して、得点とアシストで共にチームトップの成績を残し、メディアからの評価点ではMVP級となるセンセーショナルを巻き起こした(得点・アシスト共にリーグランキングでは2位だが、合計の数字ではリーグトップ)。欧州カップ戦でもロスタイムでゴールを奪うなど4試合4得点の印象的な活躍を見せた。この活躍でこの年のルーマニア最優秀選手にも選ばれている。翌年はパルマの新キャプテンにも選ばれ期待されたが、オイルマネーで大物選手をかき集めていたチェルシーに移籍してしまう。加入序盤こそ片鱗を見せたが、選手層の厚さからか交代出場が多くなると、ストレスからか、奥さんへの暴力(後に離婚)、代表戦前夜のパブで豪遊、ポルノ女優との浮名、ユニフォーム問題舌禍事件等の度重なる問題を起こし、極めつけは2004年10月の代表チェコ戦後にクラブのドーピング検査にコカイン陽性で引っかかり、サッカー界に嵐を巻き起こした。そのまま7ヶ月の長期出場停止の裁定と共にチェルシーからの解雇通告。しかし移籍金ゼロになったこの大物FWを獲得しようと目論むクラブは多く、チェルシーとの違約金問題の末にユベントスとの契約に成功したのである。停止処分が切れたセリエA最終戦にギリギリでユベントスの一員として出場。スクデットを取ったこのクラブに貢献してはいないが、チームメイトと共に戴冠式で喜びを分かち合う姿に来季の奮起が期待された。そのとおり翌年は交代要員ながらチームの重要なチャンスメーカーとして連覇に貢献。しかし世界を揺るがしたカルチョスキャンダルの影響でフィオレンティーナへ移籍して、課されたマイナス17ポイントからの残留を果たすべく奮闘し、スコアリングリーダーとしてUEFAカップ出場権を獲得。翌年にはチャンピオンズリーグ出場権も得ることに成功。代表では2000年欧州選手権予選後のギリシャ戦でいきなりスタメンデビューすると残り3試合もスタメンで存在感をアピールして、キヴらと共にそのまま本選にも出場した。2001年のハジ政権からガネアとのコンビでチームに定着したが、20キャップの迎える頃のゴール数はたった2ゴールと振るわなく、日韓大会を逃した中で代表FWとしての得点能力を疑われた。しかしパルマでの躍進後の2003年8月のウクライナ戦の2ゴール以降は1試合1ゴール近くのハイペースで代表の窮地を救い、その後は残念ながら2004と2006年の大舞台には僅差で出場を逃したが、2008年欧州選手権予選からはチームも熟成して攻撃の大黒柱として牽引し、8年ぶりの本戦出場に多大な貢献をみせた。現在のところ大きな問題は出ていないが、いずれ何かしらのいざこざは覚悟されている。しかし現在のルーマニアの象徴であることには変わりない。(2008.11.6更新B)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
96-97 アルジェシュ・ピテシュティ 5-0 A7
97-98 アルジェシュ・ピテシュティ 21-4 A3
98-99 アルジェシュ・ピテシュティ 15-7 A4 6-3(4+2G)
ディナモ・ブカレスト 15-4 A2
99-00 ディナモ・ブカレスト 18-18 A1 3-4(2+2G)
インテル(ITA) 10-0 A4
00-01 ヴェローナ(ITA) 25-4 A15
01-02 ヴェローナ(ITA) 32-12 A15
02-03 パルマ(ITA) 31-18 A5 4-4(4G)
03-04 チェルシー(ENG) 25-6 A2 6-0(2+12G)
04-05 チェルシー(ENG) 2-0 A1
ユベントス(ITA) 1-0 A1
05-06 ユベントス(ITA) 32-7 A1 8-1(10G)
06-07 フィオレンティーナ(ITA) 33-16 A5
07-08 フィオレンティーナ(ITA) 29-17 A4 10-6(14G)
08-09 フィオレンティーナ(ITA) 19-13 A4 7-2(2+6G) 2-0(2G)
09-10 フィオレンティーナ(ITA) 11-4 A11 6-3(2+8G)
10-11 フィオレンティーナ(ITA) 20-4 A9
11-12 チェゼーナ(ITA) 28-8 A20
12-13 アジャクシオ(FRA) - A
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
2000年欧州選手権出場(3試合)・2008年欧州選手権出場(3試合1得点)
02/03シーズンセリエAベストイレブン(パルマ)
02/03シーズン得点ランキング2位、アシストランキング2位

ルーマニア最優秀選手:
2003年・2005年・2007年・2008年

06/07シーズン得点ランキング7位、アシストランキング1位
06/07シーズン・ガゼッタ・デロ・スポルト紙選出セリエA年間最優秀選手

ステアウアに踊りステアウアに泣かされた男
 アドリアン・ネアガ - Adrian Constantin Neaga
97-99 アルジェシュ・ピテシュティ 5-1
98-99 ダチア・ピテシュティ(B) 20-10
99-01 アルジェシュ・ピテシュティ 47-14
01-03 ステアウア・ブカレスト 40-8
03-04 アル・ナスル(S.A) 0-0
03-05 ステアウア・ブカレスト 39-18
05-06 全南ドラゴンズ(KOR) 28-8
06-07 城南一和天馬(KOR) 21-4
07-09 ステアウア・ブカレスト 33-3
08-10 ネフツチ・バクー(AZE) 41-16
10-11 ウニレア・ウルズィチェニ 6-0
10-11 ヴォリン・ルーティク(UKR) 4-0
11-12 CSミオヴェニ 14-0
12-13 CSミオヴェニ -
1979年6月4日生まれ 初代表:2000年12月5日アルジェリア戦
6試合−無得点 ラスト:2004年11月17日アルメニア戦
ステアウア黎明期後半にその勝負強さでエースストライカーの称号を得たこと以上に波乱万丈の人生がいまだに語り継がれる選手。98年にリーグデビューしたアルジェシュではムトゥ、コマンらと悪童3人衆と名を馳せ、ムトゥのディナモ移籍後もクラブを引っ張り、2期連続5位と強豪へと躍進させた。そしてその活躍から01年にステアウアに移籍すると直後にルーマニアリーグ初のドーピング陽性反応選手として脚光を浴びた(しかしクラブの裏取引があったのかお咎めなし)。そのシーズンこそ出場機会に恵まれたが、翌シーズンになると靭帯の大怪我でほとんどを棒に振ってしまい、復帰した3シーズン目には昨年のリーグ得点王に輝いたラドゥカヌや代表デビューを果たしたオプリツァの陰でベンチを暖める毎日が続いた。冬には代表スタメンでアルジェシュのディカが加入したことでついにレドニクが新監督に就任したサウジアラビアのクラブへ去るも、まったく馴染めずわずか20日間でステアウアに復帰することに。幸いにもラドゥカヌがスペインに去ったこともあり、途中出場ながら出場機会が与えられ、8試合8得点を記録するなど、ステアウアのエースに返り咲いた。リーグでも最も恐れられるFWとして好調を維持した結果、04年4月のドイツとの親善試合で4年ぶりに代表復帰。そこから半年間にW杯予選3試合を含む4試合でキャップ数を刻むも11月の「アルメニアの悪夢」によってヨルダネスクが更迭されて以来召集はされていない。代表復帰頃からレバークーゼン、フェイエノールト、パリ・サンジェルマン等の海外から注目を受けるようになり、UEFAカップでも8試合5得点と12年ぶりの春の欧州へのキップを手にして2004年ルーマニア最優秀選手2位にランクされるほどの栄光を手中にした。しかしバレンシアとの大一番直前にオーナーが今季で契約が切れるネアガを早く放出しようと韓国のクラブと独断に契約を交わし、すでに金銭の半分を受け取ったことが発覚。バレンシア戦ではメンバーから急遽外されて人目もはばからず号泣したとのこと。そして不運にもネアガが韓国に旅立った後、8強をかけたステアウアはバレンシアに奇跡の逆転勝ち。しかもその2得点を決めたのが以前からベカリがネアガを外して彼を使えと愛してやまなかったアンドレイ・クリステアだった。しばらくは国内でクリステア・フィーバーが起こったことから彼の離脱は静かに忘れ去られていった。韓国では2シーズン目の途中に移籍した城南一和で自身初のリーグチャンピオンになったことがせめてもの慰めなのか。(2006.11.29更新)

限界が見えている国内安堵のスコアラー
 フローリン・ブラトゥ - Florin Daniel Bratu
00-01 トラクトルル・ブラショフ(B) 27-8
01-02 ラピド・ブカレスト 18-2
01-02 エレクトロマグネティカ(B) 2-0
02-04 ラピド・ブカレスト 30-12
03-04 ガラタサライ(TUR) 23-5
04-05 ナント(FRA) 13-2
05-06 ディナモ・ブカレスト 23-6
06-07 ヴァランシエンヌ(FRA) 22-1
07-10 ディナモ・ブカレスト 44-22
10-11 リテックス・ロベチ(BUL) 7-2
10-12 ガス・メタン・メディアシュ 11-1
12-13 グロリア・ビストリツァ -
1980年1月2日生まれ 初代表:2003年2月13日スロバキア戦
14試合−2得点 ラスト:2008年9月10日フェロー諸島戦
ずば抜けた走力と技術を持ったスピードスター。ラピドユース生え抜きでレンタル先のブラソフから帰還後からその韋駄天ぶりを発揮して注目され始めた。2年後の02/03シーズンにはエースとしてクラブ史上3度目のリーグ制覇に貢献し、若手だったD・ニクラエとのコンビは「ルーマニアの華」と呼ばれるほどの華麗さを誇った。同時期に代表にも選出される活躍でトルコのガラタサライへO・ペトレ、G・タマシュらと共に移籍。確実にルーマニアの明るい未来として輝きを放っていた。しかし過激なサポーターで知られるトルコの地ではプレッシャーの中、さほど活躍できずに批難を浴びたまま、モルドヴァンの後継者としてフランスのナントに迎えられる。しかしそこでも同郷のユース代表ケシェルにポジションを奪われるなど散々なものだった。失意のまま国内復帰した時はラピドのオファーを蹴り、金銭面でディナモを選んだために怒号の対象となる。交代出場が多いなかである程度の成績は残したが、その起用法に不満を持ち、途中出場を拒否したことからユースチーム送りにされる一幕も。結局はラピドのリーグ制覇時もエースながら実は10ゴール。FWとして今でもこの数字を越えてないのは物足りないし、代表ゴールも弱小相手の時。そしてなんといっても本選出場を賭けた2003年9月の欧州選手権予選最終戦のデンマーク戦で、2-1と逆転に成功した73分から95分に失意の本選出場を逃す同点ゴールを許すまでの20分間にカウンターからの3度のGKとの1対1という決定的チャンスを全てセーブされるといったミスは現在まで響いている。どうもメンタルに問題がある過大評価の選手としてのイメージが拭えない。(2008.11.6更新A)

リーグを舞台に固め打ちしまくるスコアリングマシン
 ゲオルゲ・ブクル - Ghorghe Bucur
98-05 スポルツール・スツデンテスク 169-76
05-08 FCUポリ・ティミショアラ 77-27
08-10 FCティミショアラ 47-25
10-12 クバン・クラスノダル(RUS) 70-15
12-13 クバン・クラスノダル(RUS) -
1980年4月8日生まれ 初代表:2005年2月9日スロバキア戦
23試合−4得点 ラスト:2011年9月6日フランス戦
持ち前のスピードとテクニックを武器に、現在国内リーグ最高峰のストライカー。波に乗ったら止められないタイプで堅め打ちを得意にしており、代表2得点も1試合での記録。18歳でスポルツールのトップチームに昇格した98/99シーズンは2部で13位と散々な戦力値だったが、翌年にマズィルやラザールなどの有望な若手が入団してくると常に給料未払いで揉める貧乏クラブにあって3位まで上昇、次のシーズンにはめでたく2部リーグを制した。初の1部となった01/02シーズンは自身も12得点を決めて目標の1部残留を果たし、途中加入で司令塔のT・バランが加わったこともあり来季への期待は持てるようになった。しかしブクルがケガで長期離脱するとエースを失ったクラブは当然のように降格。復活した翌年には2部ながらブクルが29得点で2部得点王の活躍で2部優勝というようにクラブの主体が若手なため、安定感に欠けるエレベーターチームだった。再度の1部挑戦となった04/05についに快進撃を見せて、7位でフィニッシュ。ブクルをはじめマズィルやバラン、ラザール等の選手にもスポットライトが当たり、イケイケの攻撃スタイルが見るものを楽しませた。当のブクルはこのシーズンに21得点でディナモのニクレスクと共に得点王に輝き、A代表にもデビューしてドイツW杯予選に4試合出場したことから、ついに安定したクラブであるポリ・ティミショアラへ引き抜かれた。残念ながらポリでの1年目は新クラブの重圧とスタイルの違いに苦しみ、極度のスランプに陥ってたったの2得点しか奪えずに2006年には代表からも姿を消すことに。翌年も以前の圧倒的な得点力は身を潜めたが、徐々に復調を見せて代表にも復帰。迎えた3年目の07/08シーズンには完全復調して16ゴールをマーク。しかしやはりブランクの時期が影響して欧州選手権の予選には本戦決定後の最終戦の1試合のみ、当然本戦メンバーには選ばれなかった。現在は代表戦力としても復帰しているが、2得点を決めた2005年のアルメニア戦だけが唯一のスタメン出場であり、残りの10試合は後半途中からの短い時間でのチャンス。堅めうちが得意なように90分出場してその流れから得点の匂いを嗅ぎ分けるタイプなので、スタメンで起用する覚悟ができれば意外に得点不足は解消されるのではと推測する評論家も少なくなかった。(2009.3.2更新)

稀有な体躯で抜群の得点率を誇った未完の大器 −現代表
 マリウス・ニクラエ - Marius Constantin Niculae
96-01 ディナモ・ブカレスト 100-44
01-05 スポルティング・L(POR) 59-14
05-06 スタンダール・L(BEL) 26-4
06-07 マインツ(GER) 5-0
07-08 インヴァーネス(SCO) 33-8
08-11 ディナモ・ブカレスト 60-19
10-11 カヴァラ(GRE) 12-4
11-12 ディナモ・ブカレスト 29-19
12-13 ヴァスルイ -
1981年5月16日生まれ 初代表:2000年2月2日リトアニア戦
43試合−15得点 ラスト:2012年9月7日エストニア戦
ロディオン・カマタル以来久しく現れなかった念願のビッグマンで、恵まれた強靭な体躯を生かした突破力の他にも柔軟なボールテクニックにも定評があった10年に1度の逸材。ディナモにのトップチームにデビューした1996年時点でなんと15歳で、2年後にはすでにチームの戦力として頭角を現していた。19歳で迎えた99/00シーズンにはUEFAカップで4得点、リーグでも13得点を記録してチームの国内2冠に貢献。注目を浴びる中、翌年にはリーグこそ2位に終わるが、カップ戦で2連覇。自身も20歳に合わせてリーグ20得点を記録して得点王に輝いた。もはや将来が約束された逸材に対して殺到したオファーはインテル、ACミラン、リバプール等のビッグクラブばかり。しかし本人が望んだイタリアやスペイン行きは加入時期において隔たりがあり、エージェントの策謀と即戦力確約により元代表のボローニ率いるポルトガルのスポルティングに入団。いずれのステップアップは本人も予想していたが、初年度に重傷を負ってしまい、16試合7得点という平凡な記録で、いちおうリーグとカップの2冠は制覇するも残念な結果に終わってしまった。以降3シーズンはそのケガの影響をモロに浴びて再発と復帰を繰り返して出場と得点共に数字を伸ばせなかった。もちろんクラブ側からの信用もガタ落ちでサブが定位置になって、最後のシーズンのUEFAカップ決勝での途中出場を置き土産にベルギーのスタンダールにレンタル放出。契約終了後の06/07にはついに半年間所属クラブ無しという底辺を味わう。マインツとの短期契約で残留目標を果たせず、レベル的に疑問のスコットランドにたどり着いた07/08シーズンは身の丈に合ったのか、褒められる成績ではないが公式戦で10得点を記録。代表ではディナモでの栄光時にデビューし、特に2000年後半から1年間はスタメン戦力として18連続出場。2002年W杯予選でも活躍して、20歳ながら18試合10得点という脅威のハイペースを記録した。しかしスロヴェニアとのプレーオフ以後にスポルティングでケガを負ってしまい、常に時代に求められながらも「健康であれば常時スタメン級。しかしだいたいがケガでコンディション不安定」というために2006年5月までの代表42試合で10試合の出場に留まった。2008年にはインヴァーネスでコンディションを維持していることから予選には出てなかったが、欧州選手権本戦に出場した。(2009.3.2更新)

返り咲きなるか貧乏クラブの得点王
 ヨヌーツ・マズィル - Ionut Costinel Mazilu
99-06 スポルツール・スツデンテスク 181-80
06-08 ラピド・ブカレスト 34-18
07-09 ドニプロ(UKR) 9-1
08-12 アーセナル・キエフ(UKR) 82-26
12-13 アーセナル・キエフ(UKR) -
1982年2月9日生まれ 初代表:2005年6月8日アルメニア戦
16試合−3得点 ラスト:2011年11月15日ギリシャ戦
どの監督も絶賛するような真面目な姿勢を持ち、水準以上のスピード、テクニック、得点嗅覚というFWとしての能力を兼ね備えていることから使い勝手のいい柔軟な選手。長く7シーズンを貧乏クラブのスポルツールで過ごし、ブクル、ラザール、バランらと若手主体にならざるを得なかったチームで昇格、降格を繰り返しながら徐々に成長していった。当初は2部デビューだったが、翌年に12得点を記録して昇格に貢献。次の2年間を残留争いの中で過ごし、自身もクラブのエースにアシストする黒子に徹したため得点こそ少なかったが、柔軟性で言えばこの経験が大いに役立ったと言ってもいい。03/04は再度2部スタートとなったものの、ここから3年間が栄光への階段となる。まず03/04には、2位クラブの得点51失点22という中でスポルツールは得点92失点15という驚異的な強さでこの若きイケイケ軍団は誰も止められず、1部でも十分に上位に食い込めたという評判の下でダントツで優勝。ブクルの29得点に次ぐ20得点をマーク。翌04/05には1部の強豪相手に対してブクルのアシストに徹してリーグ得点王を取らせる活躍。極めつけの05/06には、エースのブクルを失いながらも開幕からの快進撃でまさかの首位に立つと、リーグ終盤ギリギリまで優勝争いの渦中に。残り数試合でステアウア、ラピド、ディナモといったライバルと肩を並べての4つ巴は大いにリーグを盛り上げた。経験と地力の差で脱落して4位でフィニッシュとなるが、マズィルは念願の得点王に輝き、代表にも選ばれた。その活躍でも来季の残留を明言していたが、クラブが4位に輝きながらついに財政難となり強制2部降格すると、ラピドに移籍。ケガで出場機会が少なかったが次第点の成績で、代表にも定着したことでわずか1年半の在籍でウクライナのドニプロへ当時国内最高移籍金額で入団というサクセスストーリーを実現した。しかしながら過大評価と言われたことを証明してしまうように戦力としては開花できなかった。全盛期は06予選、08予選とピツルカのお気に入りで出場機会のあった代表の門も現在は遠くなっている。(2009.3.2更新)

氷河期が続くラピドの美しきゴールハンター −現代表候補
 ダニエル・ニクラエ - Daniel George Niculae
00-01 ラピド・ブカレスト 1-0
01-02 エレクトロマグネティカ(B) 7-0
01-06 ラピド・ブカレスト 106-33
06-10 オセール(FRA) 130-19
10-11 ASモナコ(FRA) 17-4
11-12 ナンシー(FRA) 31-6
12-13 クバン・クラスノダル(RUS) -
1982年10月6日生まれ 初代表:2003年8月20日ウクライナ戦
39試合−9得点 ラスト:2012年6月6日オーストリア戦
スピード、技術、得点力と3拍子揃ったストライカーで、自身も公言するほど華麗で力強いプレーにこだわりがあり、そのほとんどがジャンピングボレーやループシュートなどの見て楽しませるアーティスト。ダニエルはラピドで1部デビューしたものの1試合に出場しただけで、次のシーズンにはBチームであるエレトロマグネティカに送られ半年間を過ごす。しかしその才能は将来を感じさせるものがあり、すぐさまトップチームに上げられると、翌02/03シーズンにはレギュラーに抜擢されていきなりリーグ優勝を飾る。そして翌シーズンと2トップのコンビを組んだブラトゥとの華麗な攻撃は「ルーマニアの華」として注目を浴び、A代表にも招集されるようになった。ブラトゥが去った04/05シーズンには新加入のブガとのコンビでさらにその華やかさをビルドアップさせて、開幕から連続で7連弾でチームを牽引すると共に得点王も十分に狙えたが、3ヶ月のケガでの離脱が響いてチームは3位と残念な結果に終わった。それでも得点ランキングでは3位となる14得点を記録した。そのコンビが最も成熟して迎えた翌年のUEFAカップではラピド史上最大の栄光とも言えるベスト8にまで進出。各国の強豪を次々と打ち負かし、ブガとのコンビで記録した得点は17点で、ドイツのスポーツ紙からはミスターUEFAとして賞賛を浴びた。またこのシーズンはリーグこそステアウアに譲ったが、カップ戦では決勝延長でゴールを決めてその才能を揺らぎないものにした。さすがにその才能を各国が放っておくことなどなく、インテル、アヤックス、ハンブルガーなどの中から早期にその意志を決めていたフランスのオセールへ当時国内移籍最高金額の330万ユーロで入団。1年目は4得点と寂しい結果に終わったが、連続となるUEFAカップでは8試合で4得点を決めて相性の良さを披露した。2年目は持ち味のダイナミックさでクラブ得点王となる11得点を決めて低迷するクラブにあってエースとして意地を見せる。代表では2006年からケガがちながらレギュラーとして落ち着き、得点こそ少ないものの欧州選手権予選で突破に貢献。しかし本戦終了後の08/09シーズンは父親の死の影響もあってか、リーグで32試合に出場しながらなんとノーゴールという絶望的なスランプに陥り、代表からも遠ざかる。翌年はクラブの新戦力補強に伴いレンタル放出寸前までいくが、その新戦力が早々にケガで離脱したためにチャンスを得て、チャンスメーカーとしての新境地を開いた。クラブは驚くほどの得点の少なさながら圧倒的守備力により、一時は首位にも躍り出る躍進を見せ、ラズヴァン政権代表にも復帰。リーグ終了時にはクラブは中堅ながらチャンピオンズリーグ出場権の3位を獲得し、自身もリーグ3位となるアシスト8を記録している。契約延長の提示もあったが、苦難のベクトルから心機一転を図るために活躍の場を移した。しかしモナコ、ナンシーと2年連続で降格の憂き目にあわせている。(2010.6.15更新)

若き評判の低迷から得点王に輝いた元スピードスター
 アンドレイ・クリステア - Andrei Cristea
01-04 FCMバカウ 35-7
04-06 ステアウア・ブカレスト 52-10
06-08 FCUポリ・ティミショアラ 35-6
07-08 ポリ・ヤシ 13-6
08-09 ディナモ・ブカレスト 8-2
08-09 ポリ・ヤシ 18-7
09-11 ディナモ・ブカレスト 40-20
10-12 カールスルーエ(GER・B) 12-6
12-13 ディナモ・ブカレスト -
1984年5月10日生まれ 初代表:2003年10月11日日本戦
9試合−無得点 ラスト:2010年6月2日マケドニア戦
気分が乗り次第で更新予定

クラブでの不遇も代表では存在感を見せる若手のベテラン −現代表スタメン
 チプリアン・マリカ - Ciprian Andrei Marica
01-04 ディナモ・ブカレスト 22-4
03-07 シャフタル・ドネツク(UKL) 73-17
07-11 シュツットガルト(GER) 93-18
11-12 シャルケ(GER) 21-2
12-13 シャルケ(GER) -
1985年10月2日生まれ 初代表:2003年11月16日イタリア戦
59試合−18得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
183cmと長身で細身ながら相手DFをスルリとかわす柔らかいボールタッチと申し分ないフィジカルを兼ね備え、判断力も素晴らしくアシストも多いチームプレーに徹する若手スター選手。裕福な家庭の出身で品行方正として各方面からの評判が高い。01/02シーズンにリーグを制覇したディナモでデビューすると自身の評価を高めながら翌年にはカップを獲得。3年目となるシーズンではディナモのスター選手であったヤニス・ズィクと共にMVPの活躍で西側ビッグクラブの目に留まることとなり、特にインテルへは入団濃厚とまでされたが、UEFAカップで撃破したウクライナのシャフタルにその溢れる才能を見初められて18歳にして電撃移籍してしまった。初年度にカップ制覇、2年目にはリーグ優勝とチャンピオンズリーグ出場を果たしたが度重なるケガにより、定位置確保にはならなかった。代表では18歳でユースのエースとして君臨していた当時に来たるW杯予選のジョーカーとしてフル代表に昇格し、予選では序盤の4試合に連続出場した。アルメニア戦では初得点も決めたが、引き分けにされてヨルダネスクが更迭。以降のピツルカ政権ではケガの時期も重なり召集されなくなったが、06年シーズンに復調すると1トップのファーストチョイスとして貴重な存在に。しかしシュツットガルトに期待されて入団してからは活躍を見せることができず苦しみ、合わせるように代表でも絶対的な存在ではなくなっていった。2008年欧州選手権予選は11試合に出場して貢献するも、評価は下降していき、本戦では直前にケガしたこともあり1試合も起用されずに苦渋を味わう。以降はシャルケに入団して完全にサブ構想となり、出場機会は激減した一方で、代表では召集基準で問題になりながらもチャンスメイカーとして活躍している。「忘れた頃のマリカ」のフレーズで有名。(2008.11.6更新B)

伸び悩んだかつての神童でフランス2部の残留請負人
 クラウディウ・ケシェル - Claudiu Andrei Keseru
02-04 FCオラデア 15-3
03-05 FCナント・ユース(FRA) 11-8
04-08 FCナント(FRA) 61-10
07-08 リブルン(FRA・B) 14-9
08-09 FCナント(FRA) 9-1
08-09 トゥール(FRA・B) 12-7
09-10 FCナント(FRA・B) 10-0
09-12 SCOアンジェ(FRA・B) 81-20
12-13 SCOアンジェ(FRA・B) -
1986年12月2日生まれ A代表歴なし
A代表歴なし A代表歴なし
16歳で国内1部にデビューし、たった3試合でフランスのナントに移籍したワンダーボーイで代表においても17歳でU-21に選出されるように各世代を飛び級で迎えられた現ユースのエース。生まれ育ったオラデアで2003年に2部にデビューし、同じくU-17代表での欧州予選で3戦8得点を叩き出して得点王。いきなり海外も注目するセンセーショナルが始まった。翌03/04シーズンに昇格したクラブで16歳にして1部に登場し、3戦目にゴールを決めると以前から目を付けていたフランスのナントに入団。まずはジュニアチームに編成されるが、2試合で5得点を決める能力で手に負えず、すんなりとBチームに昇格してここでも6試合10得点、また飛び級U-19に選出されるとマリカと2トップを組んで2試合3得点。まさに手の付けられない神童ぶりを見せつけた。04/05には17歳でU-21に選出され、クラブでは半年のBチームで11試合8得点を決めたことから、当初18歳になるまではBチームで鍛えるという方針を1年前倒しにして、降格争いに苦しんでいるAチームへの昇格を決定。トップチームでは後半途中からの短いプレー時間だったが、リーグとカップ戦で貴重なアシストとゴールを決め、十分ににやれることを証明した。しかし翌年からの2シーズンはケガやBチーム時代から寵愛されていたディゼ監督の解任などがあり、スタメンは数試合あるものの、途中交代からというポジションがほとんどで以前の鬼神のゴールラッシュには厳しい状況となる。それでもフランスカップでのベスト8、ベスト4進出の値千金のゴールは20歳の若者にしては良くやったほうだろう。翌07/08は2部スタートとなったナントで完全にサブに回されてノーゴールに終わったが、良くも悪くも複数年の契約が提示されて将来の戦力としてはまだみなされていた。その直後にレンタル修行で入団したリブルンで活躍の場が与えられて14試合で9得点を記録し、残留請負人として名を馳せた。翌シーズンに昇格したナントに復帰するもまた後期にはトゥールを残留せしめた。(2009.2.22更新)

近年珍しくステアウアが早期に手放した快男児 −現代表
 ボグダン・スタンク - Bogdan Sorin Stancu
05-06 ダチア・ミオヴェニ(B) 12-3
05-06 アルジェシュ・ピテシュティ 7-0
06-08 ウニレア・ウルジチェニ 49-11
08-11 ステアウア・ブカレスト 47-24
10-11 ガラタサライ(TUR) 14-2
11-12 オルドゥスポル(TUR) 31-10
12-13 オルドゥスポル(TUR) -
1987年6月28日生まれ 初代表:2010年8月12日トルコ戦
18試合−2得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
気分が乗り次第で更新予定

トルジェとの二枚看板で試合を決定付けるニュースター −現代表セカンドエース
 ゲオルゲ・グロザヴ - Gheorghe Teodor Grozav
07-10 ウニレア・アルバ・ユリア 62-14
09-11 スタンダール・L(BEL) 14-0
11-12 ウニベルシタテア・クルージュ 24-6
12-13 ペトロルル・プロイエシュティ -
1990年9月29日生まれ 初代表:2012年5月30日スイス戦
8試合−3得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
スピードとゴール前でのトリッキーな技術を武器に決定的なゴールを挙げる左サイドの新星で、トルジェに次ぐルーマニアの希望として同ポジションのムトゥからの世代交代を象徴する存在。叔父は元代表選手で現在はディナモの育成部門を指導するコルネル・ツァルナル。生まれ故郷の名門ウニレア・アルバ-ユリアで16才の若さでデビューを果たし、18才の時に1部昇格。準レギュラーとしてプレーし、左サイドからのスピード溢れる攻撃が多くのクラブの目に留まり、国内でのステップアップが確実視されるも、2009年冬にルーマニア人監督のボローニが指揮するベルギーの名門スタンダールに移籍。しかし、ボローニが辞任したことで早々に居場所を失い、失意の1年半を経て、11/12シーズン開幕直後に中堅のU・クルージュで国内復帰。そのシーズン後半戦で6ゴールを記録し、ベルギーでの時間が無駄ではなかったことを証明した。この活躍がピツルカ代表監督に認められ、閉幕直後の代表遠征で初召集。デビュー戦となったスイス戦でスタメン抜擢され決勝ゴールを挙げると、2ヶ月後のスロヴェニアとの親善試合でもゴールを決め、代表スタメンを確固たるものとした。極めつけは2014年W杯予選の大一番であるトルコとのアウェー戦で値千金の決勝ゴールを決めて、代表の上昇傾向に拍車をかけた立役者となった。(2012.11.12更新)