Romanian Defender

ベッケンバウアー以前の幻のリベロ
 アレクサンドル・アポルザン - Alexandru Apolzan
46-49 CFRブカレスト 60-1
50-62 CCAブカレスト 236-2
1927年2月26日生まれ 初代表:1949年10月23日アルバニア戦
22試合−無得点 ラスト:1960年5月22日チェコスロバキア戦
ルーマニア代表史上においてもベロデディチやポペスクと同様のレベルでプレーできたフルバックの一人とみなされていて、リベロやスイーパーのポジションの開祖はドイツのベッケンバウアーと広く認知されているが、それ以前のCCAブカレストでの彼のプレースタイルこそ先駆者だと評価されているクレバーな選手。残念な事に彼の選手人生がちょうど世界の大舞台と離れていたルーマニアの暗黒期だったために知る人は多くない。シビウのユースチームで成長しながら大戦後にCFRブカレスト(現ラピド)でデビューすると3シーズン後にCCAブカレスト(現ステアウア)へと移る。CCAでは13シーズンを過ごして1951年からの3連覇を含む6度のリーグ制覇とカップ戦3連覇をキャプテンとして牽引した。代表では1949年のデビューから22試合出場と少ないが、これは当時年間の試合が5試合未満だったことから順当な数字とも言える。大舞台へは2度のワールドカップと1度の欧州選手権をすべて予選敗退したことからついには手の届かないものとなっている。しかし、当時無敵を誇ったハンガリー代表(俗に言うマジック・マジャール)を作り上げたグスタフ・セベシュ監督は1954年ワールドカップ後のインタビューで「アポルザンとヴォイネスクとオゾンの3選手は我がハンガリーの選手と同等の能力を持っている。」と評価している。(2009.11.9更新)

1960年代ディフェンスリーダーでラピド初優勝の立役者
 ダン・コエ - Dan Coe
61-71 ラピド・ブカレスト 202-9
71-74 ロイヤル・アントワープ(BEL) -
74-75 FCガラツィ 35-3
1941年9月8日生まれ 初代表:1963年5月12日東ドイツ戦
41試合−2得点 ラスト:1971年5月16日チェコスロバキア戦
無尽蔵のスタミナと信頼できるプレーでDFラインを統率して代表に安定をもたらしたディフェンスリーダーで67年以降はキャプテンも務めている。64年の東京オリンピックでは5試合に出場し、1970年メキシコワールドカップ予選でもレギュラーとして32年ぶりの本選出場に貢献した。しかし不運にも本選ではメンバーに名を連ねながら、絶好調を維持していたディヌにポジションを奪われてまったくプレーしていない。クラブでは10シーズンをラピドで過ごし、1967年にはコエをセンターに置きリーグ随一の堅固を誇った守備力を武器にクラブ初となるリーグ優勝に輝く。引退後は極秘裏に西ドイツに移住してコーチのキャリアを積むが成功はしなかった。妥協の許さない厳格な性格のためこの失敗に我慢できず、82年の誕生日にケルンの自宅で首をつって自殺した。この彼の死には様々な謎があり、秘密警察として悪名高いセクリターテの仕業という噂が広まっているが、真実は闇の中へ。彼の父、デュス・コエもサッカー選手で37年にスポルツールが1部に昇格した時に活躍した。(2005.6.20更新)

1970年W杯に出場した屈強右サイドバック
 ラジョス・サトマレアヌ - Lajos Ludovic Satmareanu
62-63 クリシャナ・オラデア 1-0
63-64 フラムラ・ロジエ・アラド(B) -
64-65 ASAトゥルグ・ムレシュ(B) -
65-75 ステアウア・ブカレスト 271-11
75-76 FCオラデア 14-1
76-77 プログレシュル・ブカレスト 20-0
1944年2月21日生まれ 初代表:1967年1月4日ウルグアイ戦
44試合−1得点 ラスト:1973年10月14日フィンランド戦
長身で屈強さをメインとしたステアウアのフルバック。ハードタックラーとして形容される選手ではあったが、主にポジションは右サイドで攻撃時のオーバーラップを得意とした。オラデアのユース出身で62/63シーズンに1部デビューを果たした後に2部のクラブにたらいまわしにされる。しかしそこでのプレーが評価されるようになると1部のステアウアに拾われ、初年度からクラブに順応してみせてカップ制覇に貢献。翌年には主力となりカップ戦を連覇。3年目となる67/68シーズンにはようやく念願のリーグ制覇を果たした。しかし当時は絶対的強豪とまではいかなかったステアウアだったことから翌年からカップ戦を3連覇するものの、10シーズンの在籍において優勝は1度だけで平均順位は5位といったものであった。リーグ制覇の前後に5度のカップ制覇の恩恵で国際経験は豊か(チャンピオンズカップ1度、カップ・ウィナーズ・カップ5度で20試合に出場)。代表においてはユースで8試合に出場した後、67年のウルグアイ戦でデビュー。すぐに主力に名を連ねると70W杯予選全6試合に出場して本戦出場に貢献。本戦も全3試合に出場し、大会後からも72年欧州選手権予選6試合と74年W杯予選にも全試合に出場。予選敗退後に代表引退したものの、6年半を若手で臨んだ試合以外はほぼ出場してすべてスタメンというポジションを維持し続けた。(2009.7.2更新)

1970年代表が誇る不動のボランチ
 コルネル・ディヌ - Cornel Dinu
  1948年8月2日生まれ   182cm 76kg   通算代表歴:75試合−7得点
  初代表:1968年5月1日オーストリア戦   最終代表:1981年4月15日デンマーク戦
万能多彩な選手でセンターバックとボランチを高い能力でこなせる守備のスペシャリストでFKにも非凡な才能を見せた。70年代の主要大会の予選にはほとんど出場し、特に予選全試合出場して本選出場した1970年メキシコワールドカップでは21歳ながらレギュラーであった。経験豊富な29歳のコエからそのポジションを奪い全試合出場。その甘いマスクと背が高くスマートな容姿でエレガントなパフォーマンスをこなす姿は万人に人気があり、代表キャプテン44回を数えるぐらい人望にも厚かった。18歳の時ディナモで1部デビューを果たして以来、引退まで17シーズンをこのクラブで過ごしたバンディエラで総試合出場数454はリーグでも歴代5位の記録。この間に6度のリーグ優勝と2度のカップを勝ち取り、ルーマニア最優秀選手には1970、72、74年の3度輝いている。引退後は監督キャリアを積んで94年W杯予選で監督を務めたが、チェコスロバキア戦での大敗により引責辞任している。ルーマニアのスポーツ大臣に任命されたこともある。(2005.6.21更新)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
63〜66 メタルル・トゥルゴビシュテ - B
66-67 ディナモ・ブカレスト 16-0 A2
67-68 ディナモ・ブカレスト 26-6 A3
68-69 ディナモ・ブカレスト 30-6 A2 2-0(2G)
69-70 ディナモ・ブカレスト 23-4 A5
70-71 ディナモ・ブカレスト 24-4 A1 4-0(4G)
71-72 ディナモ・ブカレスト 26-2 A7 4-0(4G)
72-73 ディナモ・ブカレスト 23-2 A1
73-74 ディナモ・ブカレスト 32-3 A2 3-1(4G)
74-75 ディナモ・ブカレスト 30-3 A1 4-2(4G)
75-76 ディナモ・ブカレスト 25-2 A2
76-77 ディナモ・ブカレスト 31-6 A1
77-78 ディナモ・ブカレスト 24-7 A5
78-79 ディナモ・ブカレスト 31-4 A2
79-80 ディナモ・ブカレスト 28-3 A5 4-0(4G)
80-81 ディナモ・ブカレスト 31-1 A2
81-82 ディナモ・ブカレスト 29-0 A1 6-0(6G)
82-83 ディナモ・ブカレスト 25-0 A1 6-0(6G)
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1970年ワールドカップ出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:1970年 1972年 1974年

クライオバ・マキシマのディフェンスリーダー
 コスティカ・シュテファネスク - Costica Stefanescu
  1951年3月26日生まれ   178cm 77kg   通算代表歴:66試合−無得点
  初代表:1977年8月14日チェコスロバキア戦   最終代表:1985年11月13日トルコ戦
生まれ持ったリーダーシップと難攻不落と言われた鉄壁の守備能力で15年以上君臨した選手。ベロデディチの手本となったエレガントなスイーパー・リベロとして知られる。もとはステアウアユース出身で5シーズンをステアウアで過ごしたが、ここでは絶対的存在ではなくカップ優勝2度に留まった。クライオバには73年に移籍して初年度にリーグ優勝を経験。13シーズンにわたりそのポテンシャルを発揮し、キャプテンとして80年、81年のリーグ2連覇、82年のチャンピオンズカップベスト8、83年のUEFAカップベスト4、4度の国内カップ優勝と“クライオバ・マキシマ”と呼ばれる黄金期の象徴として歴史に残る選手になった。リーグ総出場490試合は歴代1位(2012年10月に24年ぶりにダンチウレスクに抜かれ現在2位)で欧州戦53試合は歴代6位の記録になっている。代表では26歳の遅咲きデビューとなったが、ベテランDFサメシュのパートナーとしてすぐにフィットした。80年代初頭からはキャプテン(合計44回)としてチームを率いて82年のワールドカップは得失点差でイングランドに本選出場を奪われ涙を呑んだが、チームはバラチとシュテファネスクを残して若返りを図り、84年欧州選手権本選に初出場。86年メキシコワールドカップ予選敗退後に代表引退したがそれまでの大会予選にはほぼ全試合に出場。(2005.6.21更新)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
68-69 ステアウア・ブカレスト 4-0 A4
69-70 ステアウア・ブカレスト 28-6 A3 1-0(2G)
70-71 ステアウア・ブカレスト 23-2 A3 4-1(4G)
71-72 ステアウア・ブカレスト 12-1 A9 3-0(6G)
72-73 ステアウア・ブカレスト 10-0 A6
73-74 ウニベルシタテア・クライオバ 20-0 A1 2-0(4G)
74-75 ウニベルシタテア・クライオバ 34-3 A3 2-0(2G)
75-76 ウニベルシタテア・クライオバ 33-1 A6 2-0(2G)
76-77 ウニベルシタテア・クライオバ 34-1 A3
77-78 ウニベルシタテア・クライオバ 31-0 A6 4-0(4G)
78-79 ウニベルシタテア・クライオバ 29-0 A4 2-0(2G)
79-80 ウニベルシタテア・クライオバ 30-1 A1 6-0(6G)
80-81 ウニベルシタテア・クライオバ 31-2 A1 1-0(2G)
81-82 ウニベルシタテア・クライオバ 32-1 A2 6-0(6G)
82-83 ウニベルシタテア・クライオバ 29-1 A2 9-0(10G)
83-84 ウニベルシタテア・クライオバ 29-0 A3 1-0(2G)
84-85 ウニベルシタテア・クライオバ 31-0 A4 6-0(6G)
85-86 ウニベルシタテア・クライオバ 15-0 A5 4-0(4G)
86-87 FCブラショフ 23-0 A13
87-88 FCブラショフ 12-0 A8
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1984年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:1978年〜1985年の8年間で2位4回 3位4回

シュツットガルトも認めた唯一の北米リーグ経験者
 アレクサンドル・サトマレアヌ - Alex Satmareanu
69-71 FCオラデア 46-8
71-80 ディナモ・ブカレスト 206-17
80-82 シュツットガルト(GER) 32-3
82-83 フォート・ローダーデイル(US) 35-0
84-85 FSVサムルロール(GER・C) -
1952年3月9日生まれ 初代表:1974年7月23日日本戦
30試合−無得点 ラスト:1978年5月31日ブルガリア戦
長身と飄々とした表情からは想像できないテクニカルなプレーでディナモの黄金期と代表の低迷期を支えたセンターバック。ハンガリー国境近くのオラデアで生まれ、ユース時代を過ごすと18歳に1部デビューし、早々に活躍を見せた。2シーズン目の2部降格を機にディナモへ移籍すると主力として72/73シーズンからは5年間でリーグ優勝、準優勝を繰り返してチャンピオンズカップだけでも10試合に出場した。代表ではディナモに移籍した頃からユースで16試合を経験。1974年にはついに日本戦でA代表に昇格した。以降は76年欧州選手権予選、78年W杯予選共に全試合スタメン出場し、4年間の代表生活ではあったが、変えのきかない存在として一時代を築いた。80年にはルーマニアを去り(詳しい文献がないため詳細はわからないが、当時の政治情勢から亡命と思われる)、ドイツのシュツットガルトへ入団。2シーズンを過ごして初年度のリーグ3位の成績から自身4度目となるUEFAカップに出場して通算国際試合は22試合になった。この後は短い期間ではあったがペレ、ベッケンバウアー、ベストら各国のスーパースターを金でかき集めて当時世界を賑わしていた米国の「北米サッカーリーグ(NASL)」にルーマニア選手として唯一の参加をして、ペルー代表の黒豹として名高いクビジャスと同僚だった。またトリビアとしてハンガリーの市民権も保有していたことからハンガリー名でSzatmariとも称され、同じくオラデア出身で同ハンガリー名を持っていたラジョスとの区別でSzatmari Uとも呼ばれた。ちなみにアメリカ時代はアレキサンダー・ザトマリでの登録。(2009.7.2更新)

ルチェスクが重用したターゲットマン
 ジーノ・ヨルグレスク - Gino Iorgulescu 
73-75 ドゥナレア・ガラツィ(B) 32-0
75-89 スポルツール・スツデンテスク 357-47
89-90 GBA(BEL) 2-0
1956年5月15日生まれ 初代表:1981年11月11日スイス戦
48試合−3得点 ラスト:1986年3月26日スコットランド戦
クラブでも代表でもその191センチの長身を生かしペナルティエリア内の制空権を掌握し続けたセンターバック。ルチェスク代表監督のデビューとなる1982年スイスワールドカップ敗退決定後の予選最終戦で彼の愛弟子であるレドニク、アンドネらと共に初キャップを記録した。その後もルチェスクに重宝され23試合連続スタメンをはり、84年の欧州選手権出場に貢献。ルチェスク政権終了と共に代表引退したが、4年半で代表全試合で欠場は7試合だけで48キャップの内、47試合にスタメン出場した。短期ではあったが代表不可欠な存在であった。クラブではルーマニア1部リーグにデビューして以来、スポルツール一筋で守備の要としてクラブを上位に押し上げた。ハジが在籍時の83年から87年はリーグ優勝争いに絡むも結局美酒を味わうことはなかった。ちなみに86/87シーズンのUEFAカップではターゲットマンとしてハジと2トップを組む奇策に起用され、2得点を記録している。(2007.11.26更新A)

安定度抜群を誇ったいぶし銀の左サイドバック
 ニコラエ・ウングレアヌ - Nicolae Ungureanu 
75-77 エレクトロプテーレ(B) -
77-87 ウニベルシタテア・クライオバ 284-17
87-92 ステアウア・ブカレスト 136-10
92-93 ラピド・ブカレスト 17-2
1956年10月11日生まれ 初代表:1981年4月8日イスラエル戦
57試合−1得点 ラスト:1989年11月15日デンマーク戦
地味ながらルーマニアの左サイドを15年間支配した屋台骨テクニシャン。彼は左サイドプレイヤーだが、利き足は右足という稀有な技量を持っているため、試合の流れに応じて右サイドに流れて遜色なくプレーでき、対戦相手を混乱に陥れることができた。84年欧州選手権にも出場している。クラブではウニベルシタテアでデビューしてリーグ2連覇カップ3度と欧州カップでの躍進に貢献した“クライオバ・マキシマ”のメンバー。87年にステアウアに移籍した1年目にはリーグ・カップの2冠とチャンピオンズカップベスト4、2年目にも2冠とチャンピオンズカップ準優勝に輝いて栄光を味わった。その2つのクラブで不可欠の選手だったためにリーグの総出場数438試合は歴代8位、そして15年連続して欧州カップ戦に恵まれたために歴代欧州戦出場数4位の71試合に出場している。これはペトレスクやベロデディチよりも上の記録である。(2005.6.21更新)

代表黎明期を駆け抜けたフネドアラの英雄
 ミカエル・クライン - Michael Klein
  1959年10月10日生まれ   177cm 76kg   通算代表歴:90試合−5得点
  初代表:1981年9月9日ブルガリア戦   最終代表:1991年11月13日スイス戦
ルチェスク監督のコルビヌル・フネドアラでその才能を見出されて、そのルチェスク代表政権発足と共に代表スタメンデビューを果たし、後に移籍したディナモでもルチェスクの指導を仰いだ「ルチェの弟子三人衆」の一人で、80年代を代表するプレイヤー。フネドアラではルチェスクと三人衆のアンドネ、レドニクが去った後もこの中堅クラブに残って忠誠心を示した。その後ディナモに移籍した89/90シーズンには自身初のリーグチャンピオンとカップ戦の2冠を経験した。またカップ・ウィナーズ・カップではベスト4進出に貢献。民主化後にドイツにその活躍の場を求めた。代表レベルでは84年欧州選手権、90年W杯は左DFとして出場。退場も辞さない荒っぽい性格のため一時期代表を外されるが、不可欠な存在としてすぐに呼び戻される。主要大会に退場以外はほとんど出場。92年欧州選手権予選のスイス戦で負傷退場により開始3分でムンテアヌと交代してからは代表を離れることに。そして93年2月2日、クラブの練習中に突然倒れてそのまま死去。享年33歳。そのポジションと魂はD・ムンテアヌが引き継ぎ、同じく不動のものとした。(2005.8.3更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
77-78 コルビヌル・フネドアラ 2-0 A8
78-79 コルビヌル・フネドアラ 16-2 A16
79-80 コルビヌル・フネドアラ 31-3 B1
80-81 コルビヌル・フネドアラ 32-5 A6
81-82 コルビヌル・フネドアラ 30-5 A3
82-83 コルビヌル・フネドアラ 32-3 A6 4-1(4G)
83-84 コルビヌル・フネドアラ 28-2 A12
84-85 コルビヌル・フネドアラ 31-4 A8
85-86 コルビヌル・フネドアラ 32-4 A5
86-87 コルビヌル・フネドアラ 32-4 A9
87-88 コルビヌル・フネドアラ 31-2 A7
88-89 コルビヌル・フネドアラ 16-3 A15
ディナモ・ブカレスト 15-0 A2 2-0(6G)
89-90 ディナモ・ブカレスト 23-2 A1 7-1(8G)
90-91 ディナモ・ブカレスト 2-0 A3
B・ウルディンゲン(GER) 26-0 A17
91-92 B・ウルディンゲン(GER) 25-0 B1
92-93 B・ウルディンゲン(GER) 11-0 A17
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(4試合)
1984年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:1985年・5位

栄光のステアウアに鎮座したエースキラー
 アドリアン・ブンベスク - Adrian Bumbescu 
78-80 ウニベルシタテア・クライオバ 25-0
80-82 ディナモ・ブカレスト 36-0
82-84 FCオルト 67-0
84-92 ステアウア・ブカレスト 188-4
92-95 ステアウア・ミズィル(B) 28-1
1960年2月28日生まれ 初代表:1986年6月4日ノルウェー戦
15試合−1得点 ラスト:1989年5月17日ブルガリア戦
ヘディングの強さと強烈なタックルが売り物で、容赦ないファウルも平気で犯す典型的な「殺し屋」タイプのストッパー。クラブではウニベルシタテアとディナモでリーグ優勝を経験した後に移籍したステアウアでリーグ5連覇とカップ戦3度制覇、そして86年チャンピオンズカップ優勝、89年同カップ準優勝に貢献。一方、代表ではクラブの同僚ベロデディチとコンビを組んでユーロ88予選5試合スタメンで活躍したが敗退、W杯90予選でも出場するもベロデディチがユーゴに亡命して代表を去ると、イエネイ代表監督はレドニク、アンドネのディナモコンビにセンターバックを任せるようになり、20年ぶりのワールドカップ本大会には選考漏れでサブにも選ばれなかった。(2005.8.3更新A)

チャウシェスクに抵抗したディナモの英雄
 ヨアン・アンドネ - Ioan Andone 
78-83 コルビヌル・フネドアラ 105-15
83-90 ディナモ・ブカレスト 163-22
90-91 エルチェ(SPA・B) 40-1
91-93 ヘーレンフェーン(NED・B) 39-4
1960年3月15日生まれ 初代表:1981年11月11日スイス戦
54試合−2得点 ラスト:1990年10月17日ブルガリア戦
ルチェスク監督のコルビヌル・フネドアラでその才能を見出されて、そのルチェスク代表政権発足と共に代表スタメンデビューを果たし、後に移籍したディナモでもルチェスクの指導を仰いだ「ルチェの弟子三人衆」の一人で、80年代を支えたセンターバック。しかしスタメン定着とはならず、86年W杯予選まではシュテファネスクとヨルグレスクの控え、それ以降はブンベスクとベロデディチの控えで甘んじたが、90年W杯ではスタメンとしてプレー。しかしスピードなさが災いして、若手に奪われるように消えていった。クラブではコルビヌルからディナモへ移籍したシーズンにリーグ・カップ2冠とチャンピオンズカップでベスト4に進出。そしてクラインが加入した89/90シーズンにも2冠とカップ・ウィナーズ・カップのベスト4に貢献している。またプレー以上にディナモでは今でも英雄として扱われている。89年にステアウアとの地獄のダービーマッチにおいて、DFながら得点を決めた時、ステアウアに対する積年のストレスが一気に解放されハイになったまま、スタンドで観戦していたステアウアのパトロンのヴァレンティンに背中を向けて一気にパンツを下ろすという行動に出た。当時恐怖政治を強いていたチャウシェスク大統領の長男に見せた侮蔑行動は死刑を意味していたため、本人より周囲が凍りついたその状況でそのままアンドネは軍に拘束される事態になったが、友人であったステアウアのスーパースター、ラカトシュがヴァレンティンに対して必死に温情を願いでたため、何とか許された。民主化のヒーローとしてファンの心には深く刻まれているのである。また史上唯一の本大会出場で快進撃のままに3位になった81年ワールドユースのメンバーでもある。(2005.8.3更新A)

チャンピオンズカップを掲げた攻撃的DF
 シュテファン・ヨヴァン - Stefan Iovan 
77-81 FCMレシツァ(B) -
80-91 ステアウア・ブカレスト 285-18
90-92 ブライトン(ENG・B) 6-0
92-93 ステアウア・ブカレスト 6-0
92-95 ラピド・ブカレスト 63-2
95-96 エレクトロプテーレ(B) 8-0
96-97 FCMレシツァ(B) 13-0
1960年8月23日生まれ 初代表:1983年6月1日ユーゴスラビア戦
35試合−3得点 ラスト:1990年12月5日サンマリノ戦
堅固なディフェンス能力と類まれなスピードで80年代のステアウア復権に一役買ったマルチなプレイヤー。少年期はグロリア・ビストリツァのジュニアチームで過ごすと1977年に故郷のレシツァで1部デビュー。翌年には協会の先導により国内の若手で作られたルチェアファルール・ブカレストに参加して十分なアピールと12キャップを記録したU-21代表のパフォーマンスにより強豪ステアウアに加入した。10年間でリーグ5連覇をはじめ欧州チャンピオンズカップ86年優勝、89年準優勝に全試合出場し、86年欧州制覇したファイナルでは出場停止のストイカに代わりキャプテンとしてカップを掲げる栄誉に授かる。クラブ、代表ともに本来はセンターバックだったが、後に突出した攻撃力により右サイドバックにコンバート。右からヨヴァン、ブンベスク、ベロデディチ、バルブレスクのディフェンスラインは歴史上でも最も堅固なものとしていまだに評価されている。予選敗退したが全試合出場したユーロ88予選での初戦オーストリア戦では2得点を挙げる活躍を見せている。W杯90予選では5試合にスタメン出場して本選でも期待されたが、直前のケガにより大舞台を棒に振ってしまった。彼の右サイドの魂はこの頃代表で頭角を表わしてきたペトレスクに受け継がれることになる。その後2部のイングランドクラブに移るも活躍はできなかった。36歳まで現役を続けた後、ピツルカが代表監督になるたびにアシスタントコーチを務めている。(2007.5.5更新B)

豊富な経験値でベルギーでも活躍したマルチロール
 ミルチェア・レドニク - Mircea Rednic
  1962年4月9日生まれ   175cm 70kg   通算代表歴:83試合−2得点
  初代表:1981年11月11日スイス戦   最終代表:1991年5月23日ノルウェー戦
ルチェスク監督のコルビヌル・フネドアラでその才能を見出されて、そのルチェスク代表政権発足と共に代表スタメンデビューを果たし、後に移籍したディナモでもルチェスクの指導を仰いだ「ルチェの弟子三人衆」の一人で、80年代を代表する右サイドバック。代表デビュー以来2年間を22試合にわたり連続スタメン出場をはたし、その勢いのまま84年欧州選手権の予選と本選合計11試合全てに出場した。大会後にはヨヴァンやウングレアヌのサブとして活躍。また右MFやCBとしてもプレーした。89年頃からはペトレスクの台頭により彼のポジションはないと思われたが、直前のヨヴァンとペトレスクの怪我により90年W杯では右のスタメンとして4試合に出場。クラブではアンドネと一緒でディナモの2度の2冠と欧州カップでのベスト4を経験後にベルギーに渡り、優勝はなかったものの常に優勝争いをするスタンダールで核としてプレーして93年のベルギーカップを獲得。6シーズンをベルギーで過ごした後にラピドで国内復帰し3シーズンを主力で活躍し、リーグとカップの優勝をそれぞれ経験し、余力のあるまま引退を決意した。アンドネ、バリント、ガボールらと共に81年ワールドユースで3位を収めたメンバーでもある。(2005.8.6更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
79-80 コルビヌル・フネドアラ - B
80-81 コルビヌル・フネドアラ 6-0 A6
81-82 コルビヌル・フネドアラ 26-0 A3
82-83 コルビヌル・フネドアラ 31-4 A6 4-0(4G)
83-84 ディナモ・ブカレスト 33-2 A1 8-1(8G)
84-85 ディナモ・ブカレスト 31-0 A2 4-0(4G)
85-86 ディナモ・ブカレスト 30-3 A4 2-1(2G)
86-87 ディナモ・ブカレスト 30-3 A2 2-0(2G)
87-88 ディナモ・ブカレスト 25-2 A2 2-0(2G)
88-89 ディナモ・ブカレスト 30-5 A2 6-0(6G)
89-90 ディナモ・ブカレスト 19-1 A1 8-1(8G)
90-91 ディナモ・ブカレスト 15-0 A3 4-0(4G)
ブルサスポール(TUR) 14-0 A8
91-92 スタンダール・L(BEL) 17-0 A3
92-93 スタンダール・L(BEL) 28-1 A2
93-94 スタンダール・L(BEL) 34-1 A6 1-0(4G)
94-95 スタンダール・L(BEL) 32-0 A2
95-96 スタンダール・L(BEL) 29-1 A6 2-0(2G)
96-97 サン・トロイデン(BEL) 10-0 A11
97-98 ラピド・ブカレスト 31-0 A2
98-99 ラピド・ブカレスト 32-1 A1 2-0(2+2G)
99-00 ラピド・ブカレスト 26-1 A2 2-0(2+0G)
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(4試合)
1984年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:1983年・5位 1984年・4位

初めてチャンピオンズカップ2度制覇した東欧のベッケンバウアー
 ミオドラグ・ベロデディチ - Miodrag Belodedici
  1964年5月20日生まれ   185cm 75kg   通算代表歴:55試合−5得点
  初代表:1989年7月31日中国戦   最終代表:2000年10月7日イタリア戦
冷静沈着な判断力でルーマニア黄金期の攻守を巧みに操ったエレガントなリベロで「東欧のベッケンバウアー」のニックネームに恥じない活躍を見せた。86年の欧州チャンピオンズ・カップではステアウアの一員として決勝戦でシュスター率いるバルセロナの猛攻を無失点で抑えてPK戦で勝利し初の戴冠となった。その後、代表では88年欧州選手権予選に全8試合でレギュラーで出場するなど不動の地位を得ていたが、あの有名な89年のルーマニア革命時に父親がルーマニア軍部に勤めていたため、その余波を恐れて両親の祖国であるユーゴスラビアにワールドカップ予選途中にもかかわらず亡命した。しかしルーマニア当局はこれを認めず、彼の父親不在のまま軍事法廷で禁固10年の刑を宣告。この影響で彼はルーマニアのユニフォームに袖を通すことができずに期待された90年W杯は不出場。この動乱により彼のサッカー人生はダメージを負ったように見えたが、まだツキには見放されてはいなかった。当時ユーゴスラビアの強豪として世界的にも認知されていたレッドスター・ベオグラードに入団してチームのリベロとして1年目からすんなりフィットし、プロシネツキ、サヴィチェビッチ、ユーゴビッチらのタレント選手にも負けない存在感をかもし出していた。そして91年の欧州チャンピオンズ・カップでクラブ初の決勝に進出してフランスの強豪マルセイユをまたもや無失点に抑えて優勝。2つのクラブで欧州チャンピオンズカップを制覇した最初の選手となった。しかし今度はユーゴスラビアが国内で民族独立の動きが高まり内戦状態になり、故郷を離れてスペインにその活躍の場を求めた。スペインでは外国人枠の問題やスタイルの違いに戸惑い目立った活躍はできなかった(6ヶ月の浪人時代も経験)が、東欧の民主化により92年に3年半ぶりに代表復帰してからは96年まで不動のスタメンとして活躍した。特に94W杯ではカウンター戦術のキープレイヤーとしてチームの躍進と共にその評価をさらに深めた。これ以降は客観的に見ても落ち目になっていき、ついにはメキシコにまでその活躍の場を求めてカンポスの所属するアトランテに加入して全試合にスタメンで活躍。1年目はグループリーグでは1位になったが、チャンピオン・トーナメントで敗退。2年目には同郷のドゥミトレスクが加わりタイトルを狙ったが、タイトルには手が届かなかった。ステアウアに復帰後の2000年の欧州選手権では36歳にして控えとして驚きの追加召集を受けたが、それだけではなくポペスクのケガによって2試合に出場している。その後も召集され3試合に出場したが2002年W杯予選第2戦イタリア戦でスピードの衰えを顕著に露呈して3-0の大敗。代表での最後の試合となった。(2005.8.6更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
78-81 コネルル・モルドバ−ノウア
81-82 ルチェアファルル・ブカレスト
82-83 ステアウア・ブカレスト 17-0 A5
83-84 ステアウア・ブカレスト 20-0 A2
84-85 ステアウア・ブカレスト 25-3 A1
85-86 ステアウア・ブカレスト 32-3 A1 9-0(9G)
86-87 ステアウア・ブカレスト 32-5 A1 2-0(2G) 86欧州S
87-88 ステアウア・ブカレスト 31-3 A1 8-0(8G)
88-89 ステアウア・ブカレスト 17-5 A1 4-0(9G)
89-90 ユーゴに亡命
89-90 レッドスター(YUG) 14-1 A1
90-91 レッドスター(YUG) 34-1 A1 9-0(9G)
91-92 レッドスター(YUG) 23-0 A1 8-0(10G) 91TOYOTA
92-93 バレンシア(SPA) 20-0 A4 2-0(2G)
93-94 バレンシア(SPA) 29-1 A7 4-0(4G)
94-95 バジャドリッド(SPA) 8-1 A19
95-96 浪人
95-96 ビジャレアル(SPA) 4-0 B15
96-97 アトランテ(MEX) 33-0 A5
97-98 アトランテ(MEX) 30-1 A5
98-99 ステアウア・ブカレスト 27-2 A3 4-1(4+0G) 2-0(2G)
99-00 ステアウア・ブカレスト 20-0 A3 1-0(2+6G)
00-01 ステアウア・ブカレスト 14-1 A1
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1994年ワールドカップ出場(5試合)
1996年欧州選手権出場(2試合)・2000年欧州選手権出場(2試合)
ルーマニア最優秀選手:1986年・3位、1987年・2位、1988年・3位。

黄金期に唯一逃した92年大会の幻のセンターバック
 エミール・サンドイ - Emil Sandoi 
83-95 ウニベルシタテア・クライオバ 268-42
95-96 SCOアンジェ(FRA・B) 30-2
96-98 アルジェシュ・ピテシュティ 42-4
97-99 ウニベルシタテア・クライオバ 40-3
1965年3月1日生まれ 初代表:1987年10月7日ギリシャ戦
30試合−無得点 ラスト:1993年4月14日キプロス戦
攻撃力も兼ね備えた統率力抜群の80年代後半を代表するセンターバック。83年にリーグデビューして徐々にリーグ屈指のDFとして注目され始めて87年に念願の代表デビューを果たす。80年代はほとんどが控えとして代表キャップ数を稼ぎ、90年ワールドカップにもメンバーに選ばれるも出場は無し。迎えた90/91シーズンにはDFながら13得点を記録してウニベルシタテアのリーグとカップの2冠に貢献し、同時にこの頃から代表でのポジションもヨヴァン、アンドネからスタメンを奪い、92年の欧州選手権予選には7試合出場。特にルーマニア代表が1991年におこなった10の国際試合全てに出場したのはこのサンドイのみというぐらい不動の地位を築いた。全盛期のこの時に大舞台でもポペスクと共に最終ラインを守っていたはずだっただけに、本選を逃したのは非常に悔やまれることとなった。代表キャリア終盤の93年代表中南米ツアーでは4試合でキャプテンに任命されている。その後93/94シーズンにはシーズン全てを棒に振るケガで空白の1年間を経験したが、99年に引退するまで安定した力でクラブを支えた。(2005.8.13更新)

ギリシャの造詣が深い遅咲きのディフェンスリーダー
 アントン・ドボシュ - Anton Dobos 
87-89 ウニベルシタテア・クルージュ 46-5
89-92 ディナモ・ブカレスト 47-3
91-96 ステアウア・ブカレスト 134-6
96-98 AEKアテネ(GRE) 41-5
98-99 トリカラ(GRE・B) -
99-00 エスニコス(GRE・B) 2-0
1965年10月13日生まれ 初代表:1993年9月22日イスラエル戦
23試合−1得点 ラスト:1998年6月26日チュニジア戦
クラブでのキャプテンとしての統率力を買われて、31歳で代表のセンターバックに定着した遅咲きのプレイヤー。ディビジョンBのクラブを経てクルージュでリーグデビューしてから移籍したディナモで初年度にリーグとカップの2冠、カップ・ウィナーズ・カップでもベスト4進出に貢献した。禁断の国境越えをしたステアウア時代に代表に呼ばれるようになり、リーグ4連覇後には96年欧州選手権に出場。大会後にはギリシャの強豪AEKアテネに移籍し、優勝はならなかったがカップ戦と2連連続の欧州カップベスト8に貢献。ベロデディチに代わる新たなディフェンスリーダーとして期待されたが、98年W杯では台頭してきたチョボタリウとコンバートしたポペスクのサブとして1試合のみの出場に終わる。その後もギリシャの2部クラブで過ごして、よほどその生活が気に入ったのか引退後には母国のポリテテニカ・ティミショアラのオーナーになってからチーム名をポリテニカ・AEK・ティミショアラとかつて所属したギリシャのクラブの名前を入れている。(2005.8.13更新A)

躍進の94年大会に重宝された希少なハードマーカー
 ゲオルゲ・ミハリ - Gheorghe Mihali 
84-90 FCオルト 140-0
89-91 インテル・シビウ 43-3
91-95 ディナモ・ブカレスト 123-10
95-98 ギャンガン(FRA) 66-4
98-01 ディナモ・ブカレスト 31-3
1965年12月9日生まれ 初代表:1991年12月21日エジプト戦
31試合−無得点 ラスト:1996年6月10日フランス戦
テクニックのない分をパワーで補った古いタイプの選手だったが、重宝されたストッパー。クラブでは長くオルトで過ごした後にシビウを経て移籍したディナモで初年度に30試合に出場してリーグ制覇に貢献。そしてスタメン8人が初キャップだったエジプトとの親善試合で代表デビュー。その後ミハリの1人だけが生き残り、94年ワールドカップ予選前半の5試合を含む11試合に連続してスタメンCBに名を連ねるほど不動の地位を築いた。しかしステアウアで逸材と評価されていた若きプロダンが召集されると徐々にポジションを奪われていった。それでも94年W杯ではベロデディチを中心として評価されたDF陣の一角として4試合に出場。計4シーズンを過ごしたクラブでの活躍と並行するようにサブとしてではあるが、代表キャリアも積んだ。大会後にはフランスのギャンガンでも主力としてプレー。96年欧州選手権にもプロダンの控えとして1試合に出場している。国内復帰後のディナモでは国内2冠を果たしている。(2005.8.13更新A)

黄金期最強のナンバー2でバルサのキャプテン
 ゲオルゲ・ポペスク - Gheorghe Popescu 
  1967年10月9日生まれ   184cm 75kg   通算代表歴:115試合−16得点
  初代表:1988年9月20日アルバニア戦   最終代表:2003年3月29日デンマーク戦
身体能力に優れ、正確な技術と広い視野、旺盛なファイティング・スピリットと冷静な判断力を持つ、フットボーラーとしての全ての資質を備えた選手で中盤でもリベロでも一流のプレーができる。90年代に入ってW杯3大会連続出場を果たし、いずれもグループリーグを勝ち抜き、94年大会ではあと一歩でベスト4というところまで進んだのも、天才ハジの存在と、ポペスクの攻守にわたる貢献があってこそであった。彼のサポートのおかげでハジの現在があると言っても過言ではない。主要大会にはほとんどスタメンで出場し、遂に2000年欧州選手権ポルトガル戦で歴代3人目の100キャップを記録した。その後代表引退するが、2002年W杯予選中のハジ代表監督就任に伴い復帰。ルーマニア初の4連続W杯出場を狙っていたが、惜しくもスロヴェニアとのプレーオフで敗戦。日本でその雄姿を見ることはなかった。その後もキャプテンとしてチームを引っ張ったが、2004年欧州選手権予選デンマークで2-5の歴史的敗退の戦犯になり代表引退している。クラブでは国内のウニベルシタテア・クライオバに長く在籍してから、オランダの強豪PSVに移籍し初年度から活躍して、リーグ2連覇の原動力に。トッテナムを経てスペインの名門バルセロナでは2シーズンを過ごし、怪我がちだったハジよりも評価され、2年目には名だたるスタープレイヤーの中でキャプテンを任された。30歳を迎える直前からはトルコのガラタサライでまたもやハジと共にプレーし、3年連続で同国のリーグ、カップのタイトルを独占。2000年にはUEFAカップ決勝でアーセナルを破ってトルコのクラブ初の欧州制覇。同年のチャンピオンズリーグ優勝クラブであるレアル・マドリッドとの欧州スーパーカップも制してビッグクラブに成長させた。その後全盛期を過ぎたものの驚きのセリエA挑戦に始まり、翌年には国内復帰するもミスを強烈なファンからたびたび戦犯扱いされるなど散々な目にあい半年で離脱、ドイツでは35歳と思えないプレーで全スタメン出場してクラブを中位に押し上げ、惜しまれつつ引退を決意。このように各国の一流クラブで中心選手としてタイトルに貢献した。人間的にもできており、キャプテンを任されることが多かった。ルーマニア最優秀選手には6度選ばれている。(2005.8.6更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
84-85 ウニベルシタテア・クライオバ 2-0 A4
85-86 ウニベルシタテア・クライオバ 13-0 A3 3-0(4G)
86-87 ウニベルシタテア・クライオバ 25-2 A5 4-0(4G)
87-88 ウニベルシタテア・クライオバ 14-1 A5 2-0(2G)
ステアウア・ブカレスト 13-1 A1 3-0(8G)
88-89 ウニベルシタテア・クライオバ 33-8 A5
89-90 ウニベルシタテア・クライオバ 23-11 A3
90-91 PSVアイントホーヘン(NED) 30-5 A1 2-0(2G)
91-92 PSVアイントホーヘン(NED) 29-7 A1 3-0(4G)
92-93 PSVアイントホーヘン(NED) 24-6 A2 6-0(10G)
93-94 PSVアイントホーヘン(NED) 23-5 A2 1-1(2G)
94-95 PSVアイントホーヘン(NED) 2-0 A3
トッテナム・ホットスパー(ENG) 23-3 A7
95-96 バルセロナ(SPA) 30-5 A3 8-1(10G)
96-97 バルセロナ(SPA) 29-4 A2 8-1(9G)
97-98 ガラタサライ(TUR) 32-2 A1 8-0(2+6G)
98-99 ガラタサライ(TUR) 29-1 A1 8-0(2+6G)
99-00 ガラタサライ(TUR) 24-2 A1 8-0(2+6G) 6-0(9G)
00-01 ガラタサライ(TUR) 24-0 A2 14-0(2+14G) 00欧州S
01-02 ガラタサライ(TUR) 1-0 A1 3-0(4+12G)
レッチェ(ITA) 28-3 A16
02-03 ディナモ・ブカレスト 8-0 A6
ハノーファー96(GER) 14-1 A11
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1990年ワールドカップ出場(4試合)・1994年ワールドカップ出場(5試合)・1998年ワールドカップ出場(4試合)
1996年欧州選手権出場(3試合)・2000年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:13年連続ベスト5に名を連ねて1989年から92年まで4年連続1位、95、96年も1位

世界最高の右サイドバックと支持された代表の誇り
 ダン・ペトレスク - Dan Vasile Petrescu 
  1967年12月22日生まれ   177cm 70kg   通算代表歴:95試合−12得点
  初代表:1989年3月29日イタリア戦   最終代表:2000年10月7日イタリア戦
ダイミングのいいオーバーラップを得意とし、自らゴールも奪える90年代最高の右サイドバック。20歳で代表にデビューし、すぐにレギュラーを獲得したが、期待された90年W杯は怪我のため出場できず。その後は国内でDFとして驚異的な得点能力を開花し、世界最高リーグセリエAへ移籍。クラブはいずれも中堅クラブだったが、三浦和良のジェノア加入に伴い外国人枠のためイングランドへ渡るまでは、個人的な評価は上昇していった。特にゼーマン監督率いるフォッジアではシニョーリ、シャリモフ、セーノ、らと快進撃を見せた「ミラクル・フォッジア」の一員としてその地位は不動のものを得た。そして快進撃を見せた94年W杯で全試合スタメン出場し、負ければまさかのグループリーグ敗退だった第3戦USA戦では素晴らしいオーバーラップから得点を決めてホスト国相手に勝利し、首位通過を果たした。チェルシーでの5年間は初の現役イタリア代表ディマッテオに象徴されるように多国籍軍と呼ばれるクラブの中で常にそのポジションを譲ることはなかった。ここでチームの戦術から右ウイングバックを務めるようになってから、その攻撃力にも磨きがかかり、左ならマルディーニ、右ならペトレスクとして世界最高の称号を得ている。98年W杯でもイングランド戦のロスタイムにオーバーラップからまさかというところにポジションをとっていて、DFながら2大会連続の得点を決めている。その後クラブでは能力の高さを維持したものの、ケガによりコンスタントには出場できなくなり、2000年欧州選手権を境に当時急成長してきたコントラに代表でのポジションを奪われていった。2002年W杯予選中にはハジが監督してからは、本人も目前に迫った代表100キャップを目指していたが、やはりコンディション不足のため念願の大台には届かなかった。(2005.8.13更新A)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
85-86 ステアウア・ブカレスト 2-0 A1
86-87 FCオルト 24-0 A7
87-88 ステアウア・ブカレスト 11-1 A1 1-0(8G)
88-89 ステアウア・ブカレスト 28-4 A1 7-1(9G)
89-90 ステアウア・ブカレスト 23-9 A2 4-1(4G)
90-91 ステアウア・ブカレスト 31-13 A2 3-2(4G)
91-92 フォッジア(ITA) 25-4 A9
92-93 フォッジア(ITA) 30-3 A11
93-94 ジェノア(ITA) 24-1 A11
94-95 シェフィールド・W(ENG) 29-3 A13
95-96 シェフィールド・W(ENG) 8-0 A15
チェルシー(ENG) 24-2 A11
96-97 チェルシー(ENG) 34-3 A6
97-98 チェルシー(ENG) 31-5 A4 7-2(9G)
98-99 チェルシー(ENG) 32-4 A3 6-0(8G)
99-00 チェルシー(ENG) 29-4 A5 5-1(2+8G)
00-01 ブラッドフォード(ENG) 17-1 A20
サウサンプトン(ENG) 9-2 A10
01-02 サウサンプトン(ENG) 2-0 A11
02-03 ナシオナル・ブカレスト 22-0 A8
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
1994年ワールドカップ出場(5試合1得点)・1998年ワールドカップ出場(4試合1得点)
1996年欧州選手権出場(3試合)・2000年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:90年・3位、97年・2位、99年・2位。
プレミアリーグ創設10年記念外国人ベスト11(2004年6月)

若きキヴにポジションを奪われたベテラン
 シュテファン・ナヌー - Stefan Dumitru Nanu 
91-95 エレクトロプテーレ 93-0
94-97 ファルル・コンスタンツァ 52-0
96-99 ラピド・ブカレスト 60-1
99-03 フィテッセ(NED) 61-1
03-04 ステアウア・ブカレスト 5-0
03-05 オツェルル・ガラツィ 33-0
05-06 FCヴァスルイ 0-0
06-07 ポイアナ・クンピナ(B) -
07-08 FCMクンピナ(B) -
1968年9月8日生まれ 初代表:1999年4月8日ベルギー戦
7試合−無得点 ラスト:2000年4月26日キプロス戦
98/99シーズンにラピドの32年ぶりのリーグ優勝に左サイドバックとして貢献したことにより、30歳にして海外移籍と代表デビューを果たした遅咲きの選手。2000年欧州選手権予選で代表での左のポジションを任されたが、若きクリスティアン・キヴの台頭により、サブメンバーに。本選では選考から漏れメンバーにすら入れなかった。国内ではキヴよりベテランのナヌーを起用せよという声も少なからずあったが、現在の状況をみればどちらが正しかったかは明らかだった。その後もオランダリーグの中堅クラブのフィテッセで中心選手として活躍するが、最後のシーズン前に重傷のケガを負ってしまい、プレーできないままに国内へ帰還した。03/04シーズン途中から加わったガラツィでは前線のタレント不足を代表のソリン・ギオネアとのコンビでステアウアに次ぐ鉄壁ディフェンスで補い、リーグでは5位の大躍進とカップ戦で初の決勝戦に進んだ。(2005.9.2更新A)

泥臭くピッチを疾走した左サイドの労働者
 ティボール・セリメシュ - Tibor Selymes 
87-90 FCブラショフ 64-3
90-93 ディナモ・ブカレスト 83-6
93-96 S・ブルージュ(BEL) 83-4
96-00 アンデルレヒト(BEL) 65-3
99-02 S・リエージュ(BEL) 35-1
01-02 ハラダス(HUN) 8-0
02-04 デブレチェニ(HUN) 37-4
04-05 AELリマソル(GRE) 8-1
1970年5月14日生まれ 初代表:1992年8月26日メキシコ戦
46試合−無得点 ラスト:1999年3月10日イスラエル戦
スピードと豊富な運動量と闘争心がキーワードの左サイドバック。右のペトレスクと正反対のプレースタイルでテクニックには欠けたが、その縦横無尽な動きにより広域をカバーした。94年W杯予選途中で代表デビューし、すぐにスタメンに定着。96年欧州選手権予選にもほとんど出場して、本選では不調と言われた代表チームの中にあって個人的には評価を高めた。98年W杯予選は全試合出場するも、本選前の怪我の影響で出場できず。その後はフィリペスクにポジションを奪われ、キヴも台頭してきたため、不必要とされていった。黄金世代の左と言えばこの人。クラブではディナモで91/92シーズンにリーグチャンピオンに輝くと翌々シーズンから9年間に渡ってベルギーで活躍して名声を残した。96/97シーズンにはアンデルレヒトの主力としてUEFAカップでベスト8まで進出している。(2005.9.2更新A)

黄金期後期に抜擢されたハイタワー
 リビウ・チョボタリウ - Liviu Ciobotariu 
92-94 プログレシュル・ブカレスト 60-4
94-98 ナシオナル・ブカレスト 114-15
97-00 ディナモ・ブカレスト 47-4
99-02 S・リエージュ(BEL) 42-1
02-04 モンス(BEL) 46-1
03-04 アントワープFC(BEL) 14-0
04-05 ディナモ・ブカレスト 8-0
1971年3月26日生まれ 初代表:1997年8月20日マケドニア戦
32試合−3得点 ラスト:2001年6月6日リトアニア戦
マンマークと空中戦に定評がある長身のセンターバック。92年に1部デビューしてから、国内各クラブでスタメンをはり、ベルギーのクラブに移籍するまでの7年間はシーズン平均30試合出場を誇った。95/96、96/97の2シーズン連続でナシオナルを2位に押し上げた功績が、当時ケガのプロダンの代わりを探していた代表監督の目にとまり、98年W杯予選第7戦のマケドニア戦で26歳の遅咲きで代表デビューを果たした。本選でもそのままスタメンに名を連ねて全4試合に出場。2000年欧州選手権にも予選と本選でプレーしたが、以降はラドイなどの若手主体に切り替えられたため、召集は無くなっていった。それまでクラブではリーグ・カップ共に優勝経験がなかったが、最後のシーズンには頼れるベテランとしてディナモに迎えられて、国内カップを獲得して有終を飾った。(2005.9.7更新A)

惜しくもケガで世界的名声がついえた若き才能
 ダニエル・プロダン - Daniel Claudiu Prodan 
92-96 ステアウア・ブカレスト 109-10
96-98 アトレティコ・マドリッド(SPA) 31-1
98-00 G・レンジャーズ(SCO) 0-0
99-00 ステアウア・ブカレスト 1-0
00-01 G・レンジャーズ(SCO) 0-0
00-01 ロカル・ブカレスト 15-3
01-02 ナシオナル・ブカレスト 5-0
01-02 メッシーナ(ITA・B) 5-1
02-03 ナシオナル・ブカレスト 7-0
03-04 ポリ・AEK・ティミショアラ 0-0
1972年3月23日生まれ 初代表:1993年6月2日チェコスロバキア戦
54試合−1得点 ラスト:2001年6月2日ハンガリー戦
94年W杯時に22歳ですでに代表キャップ30以上あり、ベロデディチに代わるディフェンスリーダーとして10年間は安泰だと言わしめたストッパー。身長は高くはなかったが、高いジャンプ力と粘り強いマークと激しいフィジカルコンタクトを得意とした。94年W杯でのベロデディチと組んだ堅固な守備はカウンターサッカーの礎となり、全5試合に出場。96年欧州選手権予選では全10試合に出場して本選出場に貢献した。クラブではステアウアの92/93から96/97までのリーグ5連覇に貢献し、95年のルーマニア最優秀選手の3位にランクされた。その後、スペインのアトレティコへ移籍して怪我がちながらも、97年のアトレティコのUEFAカップ・ベスト4進出に貢献。代表でも98年W杯予選に9試合出場したが、この無理がたたりケガを悪化させて本選には召集されなかった。レンジャーズでは2年間をリハビリに費やし、出場は無し。回復したとたんレンタルでロカル・ブカレストに出されたが、そこでの好調ぶりにより2001年に代表復帰した。しかし、移籍のゴタゴタでまた呼ばれなくなっていく。もしケガさえなければ今頃は世界レベルのセンターバックとして認知されていた可能性が高かったと予想される選手だったためその離脱の痛手は図りきれないほど大きいと私は現在も思うのです。(2005.9.7更新A)

大抜擢の本戦栄誉と挫折を味わった代表戦士
 クリスティアン・ドゥルカ - Cristian Alexandru Dulca 
92-95 CFRクルージュ 33-3
95-96 グロリア・ビストリツァ 12-0
96-99 ラピド・ブカレスト 79-10
98-00 浦項スティーラーズ(KOR) -
00-01 チェアラウル・ネアムツ 12-1
00-01 ガス・メタン・メディアシュ 3-0
01-02 U・クルージュ(B) 4-0
01-03 キスペスト・ホンベト(HUN) 30-0
02-03 ポリ・AEK・ティミショアラ 0-0
1972年9月25日生まれ 初代表:1997年11月19日スペイン戦
6試合−無得点 ラスト:1998年6月26日チュニジア戦
98年W杯予選後のテストマッチで安定した守備を披露してから期待されてケガのプロダンに代わるDFの一人として本選メンバーに選ばれたストッパー。しかし、チュニジア戦のおそまつな守備で先制点となるPKを与えてしまい、その後に途中交代を告げられたため、わずか32分のワールドカップとなった(代表最終試合)。クラブでは代表デビューしたシーズンにラピドでカップを制覇。98年大会後には首位を走るラピドのスタメンとして活躍していたが、魅力的なオファーを提示してきた韓国クラブにシーズン途中で移籍した。この移籍においてFIFA無許可の代理人を介して成立させたため、ラピドには対外試合の禁止が言い渡される。彼個人的にもそれほど活躍できずに国内復帰後もコンディションは上がらなかった。そして2003年3月には心臓疾患が原因で30歳の若さでその現役生活にピリオドをうつことになった。(2005.9.7更新A)

イスラエルでもプレーした代表のパートタイマー
 コルネリウ・パプラ - Corneriu Papura 
91-96 ウニベルシタテア・クライオバ 101-4
96-98 レンヌ(FRA) 26-2
98-01 ウニベルシタテア・クライオバ 53-3
00-02 ナシオナル・ブカレスト 12-1
01-02 ベイタル・エルサレム(ISR) 25-1
02-05 ウニベルシタテア・クライオバ 59-6
04-05 AELリマソル(CIP) 10-1
04-05 ウニベルシタテア・クライオバ 12-0
2005 長春亜泰(CHI・B) 11-2
2006 広州医薬(CHI・B) 18-3
06-07 ナシオナル・ブカレスト 9-0
1973年9月5日生まれ 初代表:1994年2月13日アメリカ戦
12試合−無得点 ラスト:1996年9月18日アラブ首長国戦
ボランチとDFラインのどこでもプレーできる多様性でチームを支えたいぶし銀の選手。94年W杯予選終了後に香港で行われたカールスバーグカップで代表デビューし、本選メンバーにも選ばれた。本大会では黄金時代にあって2試合に出場する機会を得る(しかし実質プレー時間は合計4分)。クラブでは優勝経験はないものの、1部デビューから最初のクライオバで例年優勝争いをするチームのスタメンとして常時出場した。その活躍からフランスリーグのレンヌに移籍。その後は3度のクライオバ復帰時とイスラエルに活躍の場を求めた2001年にもベテランとして安定したプレーを発揮した。中国2部リーグでは長春でS・イリエ、広州でC・ラドゥカヌとなぜか落ちぶれたかつての国内リーグ得点王とプレーする縁がある。(2005.9.7更新)

31歳にして代表デビューした安定のラテラル
 ペトレ・マリン - Petre Marin
92-93 スポルツール・ブラニシュテア -
93-95 スポルツール・スツデンテスク 53-1
95-01 ナシオナル・ブカレスト 169-4
00-01 ラピド・ブカレスト 14-0
01-04 ナシオナル・ブカレスト 77-4
04-10 ステアウア・ブカレスト 136-2
10-11 ウニレア・ウルズィチェニ 4-0
10-11 コンコルディア・キアジナ 19-0
1973年9月8日生まれ 初代表:2004年5月27日アイルランド戦
9試合−無得点 ラスト:2007年9月12日ドイツ戦
両サイドを安定した能力でこなし、30歳になってからいちやく脚光を浴び始めたラテラル。7歳の頃にスポルツール・スツデンテスクのユースチームでキーパーとして頭角を現したが、腕の骨折をきっかけにフィールドプレイヤーにコンバートした。最初はFWやMFとして、最後には右もできる左サイドバックに落ち着いた。そして1993年10月にスポルツールで1部にデビューしてから、95年から加入したナシオナルでは途中半年間ラピドにレンタルされるも9期に渡って活躍し、中堅クラブを3度のリーグ準優勝に導いている。特に後期4年間はキャプテンとして若手選手たちのプレーや生活面において良き手本を見せていまだにその人望は厚いものがあるという。現在まで300試合以上に出場し、今だ優秀な選手としても知られている。特に2004年の夏に加入したステアウアではリーグ2連覇、翌年のチャンピオンズリーグ予備予選3回戦のスタンダール・リエージュ戦ではアウェーで貴重な同点ゴールを決めて、10年ぶりとなる本選出場を引き寄せた。代表においては30歳になってようやく2004年のアイルランド戦で代表デビューを果たし、以降は年1試合の出場ペースで控えとして招集され続け、当初はコントラ、ストイカン、バドイ、ラツなどがケガした時の保険としての遥かなる後番手の位置づけではあったが、近年は代表での実績を上げ、コントラに次ぐ2番手の右サイドとしてケガがちな前者の代わりに出場する機会が多くなっている。しかしピツルカ監督のオガラル嫌いという幸運に助けられているのは公然の事実であり、今後オガラルに代表の門が開かれると同時に彼の代表は終わりを告げることになりそうである。そして実際にそうなりましたとさ。(2008.11.6更新A)

ガラタサライとベティスで名を馳せた長身サイド
 ユリアン・フィリペスク - Iulian Sebastian Filipescu 
92-96 ステアウア・ブカレスト 66-8
96-99 ガラタサライ(TUR) 58-0
98-03 ベティス(SPA) 126-8
03-04 ベティス(SPA) 0-0
03-06 FCチューリヒ(SWI) 60-1
06-08 デュイスブルグ(GER) 52-1
1974年3月29日生まれ 初代表:1996年3月27日ユーゴスラビア戦
52試合−1得点 ラスト:2003年3月29日デンマーク戦
長身を生かしたフィジカルの強さと左ならDF・MFをこなせるユーティリティーさが重宝されたセンターバックでFKも得意だった。国内1部リーグデビューしたステアウアで主力としてリーグ4連覇(最後の年はカップも制して2冠)。翌年途中にガラタサライへ移籍し、ハジ、ポペスクと共に2年連続のリーグ制覇に貢献したことにより所属クラブ6年連続優勝を味わっている。よってこの時期にはチャンピオンズリーグにも6度出場。スペインのベティスではスタメンを得るも2シーズン目には十分な戦力でまさかの2部降格を経験。翌年に即昇格するもこの頃からたびかさなるケガでクラブと代表で出場機会が減っていった。代表では98年W杯本選にセリメシュに代わって3試合出場してからは不動で、2000年欧州選手権も全4試合に活躍した。とうにコンディションの限界が見られていたその後の予選でも保守的なヨルダネスクによって召集を受けていたがついに2004年欧州選手権予選の「コペンハーゲンの悪夢」ではポペスクと共に戦犯になっている。この試合で代表引退を宣言して後にそれを撤回するも今のところ呼ばれていない。05/06シーズンには首位バーゼルに勝点3差で追う2位の位置で勝てば得失点差で優勝という大一番で迎えた直接対決の最終節でロスタイムに決勝点を決めてヒーローになっている。(2006.10.23更新B)

長きのセリエB生活からドイツ3部まで地味ながら海外を経験したDF
 ヴァレンティン・ナスターセ - Valentin Vasile Nastase
93-94 グロリア・ビストリツァ 11-0
94-99 アルジェシュ・ピテシュティ 130-2
99-02 ディナモ・ブカレスト 64-2
01-03 ジェノア(ITA・B) 15-0
02-04 パレルモ(ITA・B) 22-1
04-06 ボローニャ(ITA) 34-0
06-07 アスコリ(ITA) 28-0
07-08 ディナモ・ブカレスト 2-0
07-09 ブラウンシュバイク(GER・C) 25-7
09-12 グロリア・ビストリツァ 64-4
12-13 グロリア・ビストリツァ -
1974年10月4日生まれ 初代表:1999年4月28日ベルギー戦
4試合−0得点 ラスト:2005年2月9日スロバキア戦
スピードこそなかったが、屈強なフィジカルと老練な読みで5年半の間、イタリアでプレーしたセンターバック。若き頃からその体躯は将来性を感じさせ、グロリアでデビューしてからアルジェシュへ移るとスタメンとして頭角を現して、中堅のクラブを最後の2シーズンは優勝争いするまでに安定させた。もちろんそんな逸材を首都クラブが放っておくはずなどなく、99/00シーズンにディナモへとステップアップ。初年度にいきなりリーグとカップの2冠に輝き、翌年はリーグ2位とカップ連覇。3年目にはクラブがリーグ制覇する中において前半戦のみプレー。冬の移籍マーケットでイタリア2部の古豪ジェノアに入団して海外デビューした。後半戦を全試合出場して上々の滑り出しだったが、翌年は開幕前のケガで半年間プレーできず。しかし回復を見込まれてオーナーと共に2部の上位クラブだったパレルモに移る幸運を得て、翌シーズンはサブながらセリエBで優勝。昇格組となったパレルモは金満クラブで強かったが、開幕前に後のイタリア代表のザッカルドとのトレードでセリエAながら落ち目のボローニャに移る。当然ながら初のセリエAシーズンは降格の憂き目にあい、また1年間2部での戦いを余儀なくされた。しかし06/07シーズンに1部のアスコリに拾われて再度A復帰。スタメンとして奮闘したが、最下位となりついに古巣のディナモへと帰還すると最大の試練が待ち受けていた。前年の優勝で予備戦3回戦からの出場となったチャンピオンズリーグで本戦までの最後の壁としてマッチアップされたのが強豪ラツィオ。アウェイでゴールを奪いドローを演じて優勢に進めたが、ホームの第2戦で早々に先制点を挙げるもその後3失点し、本戦の夢は儚く消えた。そのきっかけとなったPKを与え、グダグダな守備で戦犯となったナスターセには容赦ないブーイングで、結局2ヶ月の在籍で逃げるようにドイツの3部クラブに去っていった。(2009.2.25更新)

近代ラピドの栄光を守った遥かなる壁
 アドリアン・イエンクシ - Adrian Mihai Iencsi
93-97 チェアラウル・ネアムツ 43-2
96-03 ラピド・ブカレスト 178-17
03-04 ラピド・ブカレスト 13-2
04-06 スパルタク・モスクワ(RUS) 53-2
06-07 チェアラウル・ネアムツ 10-1
07-08 アポロン・リマソル(CYP) 21-2
08-09 カプフェンベルガー(AUS) 4-0
08-10 ラピド・ブカレスト 22-2
10-11 コンコルディア・キアジナ(B) 10-0
10-12 FCMトゥルグ・ムレシュ 31-2
12-13 FCMトゥルグ・ムレシュ -
1975年3月15日生まれ 初代表:2000年11月15日ユーゴスラビア戦
30試合−1得点 ラスト:2006年5月27日北アイルランド戦
その守備での献身が認められて代表でキヴと共にDFラインの中核を担うラピドのキャプテンで、アスリートのように鍛えられた肉体により、技術的にも柔軟に対応できる能力を備えている。コーナーからのヘッドも有名であるが、30ヤード以上のロングシュートもけっこう決めている。ラピドの象徴として通算234試合に出場し24得点を挙げた。代表選手として修羅場をくぐり抜けた経験は国内で圧倒的な存在感を示し、次々に海外進出を果たしていたズィクやラドゥカヌといったツワモノですらイエンクシの壁を破るのは困難だったと後に発言している。97年にラピドに移籍後、2度のリーグ優勝、2度のカップ優勝、スーパーカップ3回制覇と抜群の実績を誇ったが、不思議と海外移籍が実現しなかった。その破談のほとんどがラピドが放出に難色を示したためである。ようやく2004年にロシアに移籍することができたものの、徐々に出場機会が減っていき、以降は目立った活躍を見せていない。(2007.11.26更新B)

爽快無比のドリブルで魅了した超攻撃的右サイドバック
 コスミン・コントラ - Cosmin Marius Contra
  1975年12月15日生まれ   176cm 71kg   通算代表歴:73試合−7得点
  初代表:1996年4月24日グルジア戦   最終代表:2010年9月3日アルバニア戦
1対1にも強く、カバーリングも申し分ない超攻撃的右サイドバックで、その攻撃的ドリブルスキルと強烈なミドルからMFとしても多く起用されている、見ていて金になる選手。故郷のティミショアラでデビューし、ディナモでの4シーズンで優勝こそならなかったものの国内レベルを超越する活躍。海外ビッグクラブからオファーが殺到したが、結局は外国人枠の問題でサインまでにはいたらず、99年に昇格したばかりのアラベスに移籍した。初年度に降格必至と言われたクラブをその闘志で鼓舞して見事にUEFAカップ出場圏内の6位に押し上げてクラブのアイドルに。この年のリーグベストイレブンにも選ばれ(翌年も2年連続で受賞)、スペインリーグの注目株になった。特に現在までの彼のハイライトと言われる翌年のUEFAカップではインテル、カイザースラウテルンといった強豪を撃破し、決勝でリバプールに延長ゴールデンゴールで4-5で敗れるもその攻撃的スタイルは見るものを魅了し、彼の貢献度も大きかった。この活躍でイタリアの名門ACミランからオファーを受けて迎えたシーズンはそのドリブルスキルでガンガン抜いていくスタイルにファンも増え、大活躍を見せたが、そこはDFの国。シーズン中盤で攻撃的スタイルのテリム監督が更迭されると、後任のアンチェロッティ監督からは守備能力の不足を理由に徐々に信頼度は落ちていった。そして翌シーズン前の恒例のTIMカップトーナメントでユベントスのダービッツと大乱闘を起こし開幕3試合の停止処分になったことがきっかけでついにアトレティコへ放出された。しかしその後ミランは右サイドの代わりを務められる選手を見つけることができず、コントラの買戻しを画策するなどその放出の失敗を認めている。アトレティコに移ってからは1年目こそまずまずだったが、翌年はケガでシーズンほとんどを棒に振って、レンタルされたイングランドのウエストブロムウィッチでもコンディション不足で指揮官の信頼を得られず、冬のマーケットが閉まった後のロシアかルーマニアの2択しかない状況に陥った。そして半年レンタルでまさかの国内復帰を飾ると、オイルマネーで強豪へと変身したばかりのFCUポリをキャプテンとして上位に押し上げた。次のレンタル先である05/06シーズンのヘタフェでは、当時左サイドバックを務めたマリアーノ・ペルニアとによるサイド攻撃が功を奏しチームは躍進、彼自身も再び脚光を浴びることとなる。翌シーズンはヘタフェへの完全移籍を勝ち取り、現在に至っている。代表ではユースでの活躍を経て96年にデビュー。国内での評価は上がっていたが、98年ワールドカップでは右サイドの伝説の世界的選手のペトレスクの牙城を崩すまでには至らず、予選にも出れなかった。アラベスでの注目もあり、2000年欧州選手権予選途中で定着。ペトレスクがウイングバックにポジションを移したため共存も可能となり、本選では3試合に出場し、キヴと共にビッグクラブの目にとまりミラン移籍の一因に。この大会でペトレスクの不在を埋め、完全に世代交代を果たした。2002年日韓大会でも順調に予選で活躍するもプレーオフでスロヴェニアにまさかの敗北。2戦目のホームで劣勢状況での意地のミドルシュートは今でも多くのルーマニアファンの脳裏に焼きついている。その後は前述のアトレティコ以降でのケガにより代表を長期間離れたりして、その間にストイカン、バドイ、マリンなど代役の台頭を許したものの、2008欧州選手権予選前半戦はピツルカ監督にスタメンとして起用されて2得点を記録。再びのケガで後半戦は出場できずオガラルへの世代交代が明らかな状態となったが、幸運にもオガラルがアヤックスで不思議と起用されなくなって、本選メンバーから漏れたため、なんとかスタメンとして3試合に出場した。しかしオガラルに続きサプナルまでもが台頭してきたため、2010年W杯予選途中での世代交代は周知の事実となっている。(2008.11.6更新C)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
93-94 ポリテニカ・ティミショアラ 12-0 A17
94-95 ポリテニカ・ティミショアラ 28-1 B1
95-96 ポリテニカ・ティミショアラ 11-0 A7
ディナモ・ブカレスト 12-1 A5
96-97 ディナモ・ブカレスト 32-2 A3
97-98 ディナモ・ブカレスト 28-3 A6 2-0(2+0G)
98-99 ディナモ・ブカレスト 29-0 A3
99-00 アラベス(SPA) 33-2 A6
00-01 アラベス(SPA) 33-4 A10 11-3(13G)
01-02 ACミラン(ITA) 29-3 A4 10-1(12G)
02-03 アトレティコ・マドリッド(SPA) 31-0 A12
03-04 アトレティコ・マドリッド(SPA) 3-0 A7
04-05 WBA(ENG) 5-0 A17
FCUポリ・ティミショアラ 14-0 A6
05-06 ヘタフェ(SPA) 30-0 A9
06-07 ヘタフェ(SPA) 21-0 A9
07-08 ヘタフェ(SPA) 13-1 A14 9-3(12G)
08-09 ヘタフェ(SPA) 26-2 A17
09-10 ヘタフェ(SPA) 3-0 A6
FCティミショアラ 13-3 A5
10-11 FCティミショアラ 9-1 A2 4-0(4+0G)
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
2000年欧州選手権出場(3試合)・2008年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:
2001年・1位2002年・3位
スペインリーグベストイレブン右サイドバック部門 99/00,00/01の2年連続受賞
2001年UEFAベストイレブンDF部門受賞

息切れることなく走り続けたラピドのステイヤー
 ヴァレンティン・バドイ - Emanoil Valentin Badoi
93-00 トゥリス・マグレレ -
00-02 FCMバカウ 59-13
02-07 ラピド・ブカレスト 151-22
07-08 ステアウア・ブカレスト 10-0
07-08 ポリ・ティミショアラ 15-1
08-09 FCティミショアラ 28-2
09-10 ウニベルシタテア・クライオバ 18-0
10-11 FCブラショフ 11-0
11-12 ヴィトルル・ドムネシュティ -
1975年12月16日生まれ 初代表:2005年2月9日スロヴァキア戦
10試合−無得点 ラスト:2006年8月16日キプロス戦
「無事、これ名馬」を地で行く耐久性抜群の右サイドのスペシャリスト。長く2部と3部を行き来する地方クラブに属していたため、まったく日の目を見なかったが、25歳で1部の弱小FCMバカウに拾われると一転して対戦相手の監督を引き付ける評価を得るようになった。そこで2シーズンを過ごしラピドに移籍すると初年度にスタメンとしてリーグ優勝を味わう。以降はリーグ優勝こそならなかったが、右サイドであれば鋭い突破といった武器はないものの4バック、中盤、3トップの一角として機能する利便性で5シーズンを欠場したのは1試合のみ。バカウの頃も1試合のみだったため、1部デビューしてから7年でリーグ戦欠場は2試合というのは驚異的。05年には30歳で代表にもデビューし、この年のUEFAカップではステアウアに敗れるまで脅威の快進撃でベスト8に輝く。もちろん予選から含めて全16試合に出場。代表では右の後半終盤の守備固めという起用であり、同じく遅咲きのペトレ・マリンの台頭により、06年W杯予選の時期から久しくキャップ数を伸ばせずにいる。しかし07/08シーズンにオガラル以降、次第点の右サイドを得られなかったステアウアから声がかかり、ついに栄光のチャンピオンズリーグに出場を果たした。リーグではさすがに層の厚い中にあって出場機会が限られてきているが、遅咲きでここまで上り詰めることができたのはある意味で彼のサクセスストーリーと言っても良いのではないだろうか。(2007.12.2更新)

有能戦士の狭間で苦しんだ悩み多き左サイドバック
 ダニエル・フローレア - Daniel Florea
93-97 オテルル・ガラツィ 84-2
97-01 ディナモ・ブカレスト 94-3
01-05 シャフタル・ドネツク(UKR) 55-1
04-05 メタルル・ザポリスジア(UKR) 13-0
05-06 メタルル・ドネツク(UKR) 13-0
05-06 ディナモ・ブカレスト 9-0
06-09 アポエル・ニコシア(CYP) 51-0
1975年12月18日生まれ 初代表:1999年3月3日エストニア戦
3試合−無得点 ラスト:2002年8月21日ギリシャ戦
黄金世代にあって海外組の牙城は崩せなかったが、スピードとテクニックを武器に当時国内最高と言われた左サイドプレイヤーでMFもそつなくこなせる。17歳で1部デビューしてから翌3シーズンに渡って安定したプレーで若くしてレギュラーに定着。ちょうどこの頃ユース代表にも選ばれる。特に最後のシーズンは万年下位のオテルルをサイドラインからのチャンスメイクで4位に押し上げ、それを置き土産に97/98シーズンからディナモの一員に。22歳ながらディナモでもスタメンを奪取し、代表にもデビューした。しかしセリメシュの後継としてはフィリペスク、ナヌー、キヴの海外組が重視されたために戦力としては諦める形に。ディナモでは99/00に2冠を経験し、翌年はカップのみを獲得してウクライナのシャフタールへの海外挑戦に挑み、後々に続くルーマニア選手のウクライナ流出の先駆者となる。初年度にいきなりリーグとカップの2冠、タイトル獲得はならなかったが、翌年もアグレッシブな攻撃参加で多くの人を魅了し、同郷のルチェスクが監督に就任するとすべては安泰に見えた。しかし03/04シーズンになり同じポジションにラピドの将来性溢れるラズヴァン・ラツが移籍してくると、出場機会が激減してわずか10試合の出場に終わる。もはや戦力とは言い難く、翌年ついに放出されて各地を転々とする。現在はキプロス在籍3年目になりリーグとカップを1度づつ獲得。弱小リーグながらつねに上位争いのクラブである恩恵からチャンピオンズリーグやUEFAカップの予備戦チャンスが毎年訪れている。(2009.2.26更新)

自身の問題児ぶりでそのチャンスを早熟で終わらせたディフェンダー
 ユリアン・ミウ - Ilie Iulian Miu
93-94 プログレシュル・ブカレスト 1-0
94-96 フォレスタ・フェルティチェニ(B) 31-0
96-03 ステアウア・ブカレスト 149-4
02-03 FCMバカウ 15-1
03-07 ブルサスポール(TUR) 32-1
07-08 UTAアラド 2-0
07-08 コンコルディア・キアジナ(B) 5-0
1976年1月21日生まれ 初代表:2001年10月6日グルジア戦
8試合−無得点 ラスト:2003年6月7日ボスニア・H戦
ステアウアの若きDFリーダーとして、3度のリーグ制覇に貢献したセンターバック。その才能を買われて、2002年W杯予選の大事な最終4試合でラドイの離脱したDFラインにいきなりスタメンで使われた。この点が当時の代表チームの限界だとも言われたが、選手個人の評価としては明るい未来を期待された。しかし海外移籍への数少ない窓口との評価を受けていたI・ベカリと契約したことにより状況は暗転していく。このエージェントのI・ベカリと仲の悪かったステアウアのピツルカ監督は「ベカリと契約した選手は誰であろうとチームから追い出す」と発言。しかし海外移籍志向の強かったミウは強行に契約を結んだため、2002年1月にレギュラーメンバーにもかかわらず、ユースチームへの降格と大幅な給料削減を言い渡された。その後の謹慎中には幹部批判を繰り返したり、素行の悪さでディナモ・キエフ移籍が失敗したり、高給取りのムトゥに悪態をついたりでマイナスのイメージが合うようになっていった。泥沼化したステアウアとの問題はLPFの仲裁により晴れて自由契約選手になり、バカウへと移籍した。元々能力の高さには定評があり、ここでの活躍もあって代表復帰した。翌シーズンにはハジが監督に就任したブルサスポールに請われて移籍するが、半年あまりで辞任するとチームは2部降格。そして2年後にようやく昇格するも構想外となり国内復帰している。(2007.11.26更新C)

親善試合でのみ価値を見出した小柄な重戦車
 ポンピリウ・ストイカ - Pompiliu Stoica
93-98 グロリア・ブザウ(B) 60-1
97-00 アストラ・プロイエシュティ 76-4
00-05 ステアウア・ブカレスト 108-3
04-08 FCモスクワ(RUS) 90-0
2008 トム・トムスク(RUS) 13-0
08-09 アルキ・ラルナカ(CYP) 7-0
09-12 P・プロイエシュティ 72-2
1976年9月10日生まれ 初代表:2000年2月2日ラトビア戦
8試合−1得点 ラスト:2006年5月28日コロンビア戦
身長は低いが体格がゴツイため、威圧感のある重戦車ドリブルで左サイドのDFとMFをそつなくこなしたプレイヤー。18歳で2部のブザウでデビューしてから下位で5シーズンを過ごすも、同じ2部のアストラに移籍すると幸運にもその年に2部優勝を果たして1部への切符を手に入れた。アストラは中位が定位置だったが、その活躍が認められて国内組で臨んだ2000年のキプロストーナメントで代表デビューし、3試合に出場した。そしてステアウアでも4シーズンを不動のサイドバックとして過ごしてリーグ優勝を味わっている。開幕直後の2004年にはロシアに移籍したため代表の門戸はよりいっそう遠くなったというか本人もその点は最初から考えにはなかったと思うが、2005年のオランダとのW杯予選にケガのラツに代わり召集されて5年ぶりの驚きの代表復帰となった。以後の3キャップは選手の見極めとしての北米親善試合ツアーだったが、ピツルカ監督には質実剛健な選手として出場までにはいかないが召集され続けていた。(2006.12.13更新)

コントラの居ぬ間に一瞬の輝きを放った中堅ディナモヴィスト
 フラヴィウス・ストイカン - Flavius Vladimir Stoican
95-02 ウニベルシタテア・クライオバ 109-4
02-03 ディナモ・ブカレスト 21-0
03-04 ディナモ・ブカレスト 8-1
03-07 シャフタル・ドネツク(UKL) 48-1
06-07 メタリスト・ハルキフ(UKL) 1-0
07-08 ディナモ・ブカレスト 7-0
1976年11月24日生まれ 初代表:1999年8月18日キプロス戦
19試合−無得点 ラスト:2005年11月16日ナイジェリア戦
若くからその才能を認められてユース代表で活躍した精力的な右サイドバック。ウニベルシタテアで頭角を現し、フル代表では23歳の時に欧州選手権直前にキヴと共にデビューしたが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの世界的プレイヤーであったコントラの前にポジションは奪えなかった。今期ディナモの一員として出場したUEFAカップでの活躍でその勝利を収めた相手のシャフタル・ドネツクから高い評価を得て念願の海外移籍を果たした。また2004年欧州選手権予選後半頃からコントラのケガによる長期離脱で代表右サイドのポジションをようやく得て、コンスタントにスタメン出場を重ねたが、2005年にコントラが復帰すると再びサブ扱いに。シャフタルではスタメンとして昨シーズンの優勝に貢献してみせた。若い頃にアヤックスのトライアルを受けた経験があるが、フィジカル面で要求される水準に達していなかった。しかし、今やフィジカルの強さはストイカンの最大の武器の一つとなっている。しかし06年以降はクラブでの出場試合は寂しいものになっていき、早めに見切りをつけて監督業に進出した。(2010.11.26更新C)

トルコの中堅クラブで活躍し続けたディナモのキャプテン
 ジアニ・キリツァ - Giani Stelian Kirita
96-03 ディナモ・ブカレスト 151-8
03-05 サムスンスポール(TUR) 52-6
05-07 ガジアンテプスポール(TUR) 60-2
07-08 アンカラグチュ(TUR) 24-5
08-12 ブルサスポール(TUR) 30-1
11-12 FCMトゥルグ・ムレシュ 12-0
12-13 FCMトゥルグ・ムレシュ -
1977年3月3日生まれ 初代表:2000年8月16日ポーランド戦
4試合−無得点 ラスト:2001年10月6日グルジア戦
ユース代表時にセンターのMFとDFでチームの核としてプレイした選手で、国内ではディナモの生え抜きとして重宝された。99/00シーズンに自身初のリーグ制覇を経験して2000年欧州選手権後の代表にデビュー。当時群雄割拠のセンターDF状況だったため定着はならなかったが、2002年W杯予選でも2試合に出場するチャンスに恵まれた。そして01/02シーズンにはキャプテンとして2度目のリーグ制覇を果たす。03年の念願の海外進出当初はガラタサライのブラトゥ、タマシュ、O・ペトレ、ベシクタシュのパンク、ブルサスポールのガネア、ミウのような、現役代表クラスのルーマニアンを抱えるクラブにスポットがあたっていたためにどこか地味な印象が拭えずに本人もその点を嘆いていたが、意外にも前述の6選手はしばらくしてそれぞれ構想外となりトルコを離れることに。キリツァだけが持続して結果を残すこととなってついにはブルサでリーグ優勝を果たした。(2011.11.26更新A)

度重なる海外移籍のチャンスが潰れまくった精密クロスマシン
 フローレンティン・ドゥミトル - Florentin Dumitru
96-98 スポルツール・スツデンテスク 62-5
98-00 アストラ・プロイエシュティ 58-0
00-06 ステアウア・ブカレスト 137-7
05-06 ジウル・ペトロシャニ 4-0
06-07 ナシオナル・ブカレスト 18-0
07-10 コンコルディア・キアジナ(B) 35-2
10-12 P・プロイエシュティ 54-4
1977年5月23日生まれ 初代表:2000年2月2日ラトビア戦
17試合−無得点 ラスト:2004年5月27日アイルランド戦
小さな体でライン際を疾走するステアウア不動の右サイドバックでMFもこなすことができる。サイドから正確無比なクロスを上げ、必要とあらば中央に切れ込みFWにアシストするのが得意で、「ルーマニアのベッカム」と呼ばれる。アストラで活躍した頃の国内組だけで臨んだキプロストーナメントで代表デビューしたが、その後も国内組だけの親善試合や、コントラ不在時の緊急措置としての召集がほとんどだった。そのうちコントラ不在状況においてのポジションをストイカンに奪われると、2003年2月のキプロストーナメントではさらにそのストイカンの代役として緊急召集を受けたが、かたくなに拒否してプライドを見せ付けた。その後はクラブでもプレーしているMFとして召集を受け、ディナモのF・ペトレとそのポジションを争っていたが、2005年5月からはケガにより召集もされていない。結局このケガによって何度も報じられた海外移籍は叶わなかった。その後はクラブも転々として急激にレベルダウンと思われたペトロルルではP・ストイカやオプリツァらの元代表トリオで1部昇格の原動力となった。しぶとくいまだ現役を続けている。(2012.11.26更新B)

点取り屋からの奇策コンバートで代表にも返り咲いたマルチロール
 コスミン・バルカウアン - Cosmin Barcauan
94-99 ビホール・オラデア(B) 44-7
98-02 ウニベルシタテア・クライオバ 96-16
02-04 ディナモ・ブカレスト 51-19
04-06 シャフタル・ドネツク(UKL) 20-1
2005 クリリア・ソヴィエトフ(RUS) 4-0
05-06 シャフタル・ドネツク(UKL) 2-0
05-06 ディナモ・ブカレスト 8-0
06-07 PAOKサロニカ(GRE) 26-0
07-10 OFIクレタ(GRE) 49-2
09-12 チェアラウル・ネアムツ 21-0
1978年8月5日生まれ 初代表:2000年11月15日ユーゴ戦
8試合−2得点 ラスト:2004年11月17日アルメニア戦
テクニックはないがその冷静さでストライカーとセンターバックという異なるポジションをこなすことができるルーマニア史上稀有のマルチロールな選手。10代は2部昇格と3部降格を繰り返すオラデアにおいてユース代表選手として活躍し、1部のクライオバに移籍すると得点こそ少なかったが、運動量と献身的な姿勢でゴールチャンスを演出した。そしてワールドカップ日韓大会予選途中の親善試合でフル代表デビュー3戦連続出場を果たす。デビュー戦のユーゴスラビア戦では後半途中出場ながら決勝点を決め、1ヶ月後のアルジェリアとの2連戦でも1得点を決めてモルドヴァンの後継者に名乗りを上げるが、ディナモのヤングスターであったマリウス・ニクラエに内容のインパクトで劣り、FWとしての代表は3試合2得点という立派な数字を残し終了。クラブではチームメイトで親友のフラヴィウス・ストイカンと共に02/03シーズンからディナモに加入すると自己最高の14得点を決め、16得点を記録した同僚のダンチウレスクと形成した最強のB&Dデュオでライバルチームから恐れられ、リーグ順位こそ6位と低迷したが、カップ優勝を勝ち取った。翌シーズンには国内復帰したクラウディウ・ニクレスク加入の影響でサブにまわると思われたが、アンドネ監督の奇策でセンターバックにコンバートされると見事にフィット。攻撃力のあるDFとしてその地位を築いてリーグとカップの2冠に貢献した。またこの年のUEFAカップでの活躍により、勝利したシャフタルからのオファーを受けて、またもストイカンとチームメイトになった。計5人のルーマニアンを抱えるこのチームで初年度にチャンピオンズリーグでグループリーグ進出とウクライナリーグ優勝を飾る。代表でもケガがちのキヴの代役として2004年5月に3年半ぶりの復帰を果たし、06年ワールドカップ予選序盤の4試合にスタメンとして出場。それがキャリアのピークだった。(2006.10.23更新A)

国内最高DFとの評判も代表には定着できなかった旧タイプ
 ソリン・ギオネア - Sorin Ghionea
97-98 ドゥナレア・ガラツィ 15-0
98-02 オテルル・ガラツィ 62-2
02-03 ステアウア・ブカレスト 6-0
03-04 オテルル・ガラツィ 26-0
04-09 ステアウア・ブカレスト 111-2
09-10 ステアウア・ブカレスト 12-0
2010 FCロストフ(RUS) 18-0
10-11 FCティミショアラ 15-0
11-12 FCMトゥルグ・ムレシュ 21-0
12-13 コンコルディア・キアジナ -
1979年5月11日生まれ 初代表:2002年3月27日ウクライナ戦
13試合−1得点 ラスト:2008年9月10日フェロー諸島戦
ラドイの不在時に懸念となった代表CBでキヴのパートナーを務めた長身のデフェンダーで、空中戦の強さで一時代を築いた国内屈指の選手。出身であるドゥナレア・ガラチで97/98シーズンに1部デビューすると、翌シーズンにはライバルチームであるオテルル・ガラチに移籍。それでも際立った存在ではなく、3シーズンの出場時間は半分にも満たないものであったが、オテルルでの4年目となった01/02シーズンには空中戦における無類の強さに磨きをかけスタメンとして26試合に出場し、クラブをリーグ5位に躍進させた。この頃初代表にも選ばれたその活躍から翌年にステアウアに迎えられるもスタメン奪取に手こずり、また不運にも半年後に肝炎にかかり完全に構想外となる。失意の1年からオテルルにレンタルで放出されると元代表のシュテファン・ナヌーと共にリーグ屈指のディフェンスで残留争い必至のチームをリーグ5位とカップ戦決勝進出の原動力となり見事にUEFAカップ出場権を手に入れ、代表にも2年ぶりに返り咲く。再度ステアウアに認めさせて復帰すると、04/05シーズンはスタメンとしてリーグ優勝とUEFAカップの躍進。代表でもキヴの代役で交替出場や不在時のフル出場など数少ない代表レベルのセンターバックとして重宝されて06年W杯予選にも出場。翌年には新加入したゴイアンと鉄壁のコンビでリーグ2連覇と同カップでベスト4と国内屈指のDFに成長した。06/07シーズンにはステアウア10年ぶりとなるチャンピオンズリーグに全6試合出場し、キエフ戦ではゴールも決めている。しかし08欧州選手権予選では序盤こそキヴのMFへのコンバートが模索される中でタマシュとのコンビ候補としてファーストチョイスだったが、2006年10月のベラルーシ戦前に負傷すると代替で出場したゴイアンが以降の間に急成長し、その二人が不動のポジションとなった。たびたび召集はされるも出場は3試合どまりに。今シーズンはケガにより長期離脱が重なり、欧州選手権本選出場を勝ち取った中においてその姿はなかった。(2007.12.20更新)

いくら活躍せども何度もピツルカの強権に跳ね返された不遇の「オガラル論争」
 ジョルジェ・オガラル - George Cristian Ogararu
98-00 ステアウア・ブカレスト 12-0
00-01 CSMレシツァ(B) 25-1
01-02 オテルル・ガラツィ 20-1
02-06 ステアウア・ブカレスト 95-3
06-08 アヤックス(NED) 48-0
08-09 ステアウア・ブカレスト 20-0
09-10 アヤックス(NED) 0-0
10-12 FCシオン(SWI) 31-2
1980年2月3日生まれ 初代表:2005年3月26日オランダ戦
11試合−無得点 ラスト:2009年2月11日クロアチア戦
全盛期のコントラほどのドリブルスキルはないがDF能力、攻め上がりのポジショニング等で総合的には上回るとの評価を持つ右サイドの後継者。国内ではステアウアユースを経て、18歳になる98/99シーズンに1部デビューを飾る。最初の2年間はサブメンバーとしてスタメン定着は時期尚早だったが、翌2年の地方クラブでのレンタルを経て着実に成長し、02/03シーズンに復帰するとレギュラーにも定着し、2月に行われたキプロス国際トーナメントにステアウアの同僚で同ポジションのドゥミトルが召集拒否したことによる代替出場で非国際Aマッチながら代表ユニフォームに袖を通すことになった。その4ヶ月後の6月には2004欧州選手権予選中の代表監督ヨルダネスクにA代表初召集されたが、合同練習初日に姿を現さず、クラブと代表関係者総出の捜索の結果、極秘入籍していた夫人とスペインでバカンス中という失態でしばらくは代表から遠ざかる。そして迎えた03/04シーズンでも序盤こそはスタメンとしてその能力をアピールしたものの、PKを献上するプレーの連発で当時のステアウアの監督であったピツルカを激怒させてシーズン終了後には放出候補となっていった。このまま都落ちかとも思われたが、04/05シーズンに監督がゼンガに代わると全幅の信頼に応えるように国内では敵なしの不動の右サイドに成長して、3月には元ステアウアのピツルカが監督就任した代表の2006W杯予選オランダ戦にも出場してついに初キャップを刻むことになる。リーグでも優勝を飾り、UEFAカップではバレンシアを破りベスト16の中で全10試合に出場して国外クラブからも注目を浴びる存在となった。翌年もリーグ優勝、UEFAカップベスト4にあって全14試合に出場と国内での地位を築いたものの、なぜかコントラとの交代で後半の守備堅めという存在でしかないラピドのバドイを重宝し続けたピツルカ監督に召集すらされないシーズンだった。06/07シーズンになると歴代ハジに次ぐ高額な移籍金(400万ドル)でアヤックスに移籍。この頃の代表では3回連続召集候補に挙げながらも直前でカットされる不運。12月になるとクラブでもスタメンを勝ち取りしかもそのほとんどでMVP級の活躍というもはや言い訳できない結果を残したが、1月のモルドバ戦では逆に召集候補にすら挙げられずメディアからの批判も大きくなっていった。それから8試合においてアヤックスで絶好調のオガラル(27歳)対相変わらずケガがちのコントラ(32歳)、バドイ(32歳)、マリン(34歳)体制のピツルカという図式でもはや私的感情で相計れないもので、2008欧州選手権中にあって成績好調の勢いにその話題もしょうがないものとして薄れていった。しかし2007年10月の予選大一番であるオランダ戦に2年半ぶりの召集、そしてスタメン出場で予選突破を事実上決める勝利。その召集理由は今でも謎で「オガラル論争」と呼ばれている。以降現在まで連続でスタメンに名を連ねており、ようやく世代交代が行われることとなった。あとはステアウアで夢見たチャンピオンズリーグに彼がアヤックスに移籍してからステアウアが2大会連続で出場。逆に移籍したアヤックスが常連だったその大会を2年連続で逃すという不運を払拭するところか。(2007.12.16更新)

ケガさえなければが代名詞の各クラブ必涎の世界的旗手 −代表引退
 クリスティアン・キヴ - Cristian Eugen Chivu
  1980年10月26日生まれ   176cm 70kg   通算代表歴:75試合−3得点
  初代表:2000年4月26日キプロス戦   最終代表:2010年11月17日イタリア戦
攻守のバランスが素晴らしく、スピード、スタミナ、正確な左足、強靭な体など恵まれた能力で期待されるルーマニアの星。センターバックとレフトバックを高いレベルでこなし、クラブと代表で彼のFKは貴重な得点源となっている。ウニベルシタテアでのプレシーズンマッチでアヤックスのスカウト網にかかり、99年にわずか18歳で無名クラブから名門アヤックスの門を叩くことに。当初、荒々しいプレーで警告・退場を連発していたが、驚異の成長で2000年欧州選手権前の親善試合で代表デビューすると素晴らしいパフォーマンスを見せて、当確視されていたナヌーからポジションを奪い、本選メンバーに滑り込んだ。大会では「若き日のマルディーニを彷彿させる」と大絶賛され、ハジ引退後のルーマニアの凋落の心配を過去のものにし、ルーマニア最優秀選手の2位にランクされた。アヤックスでも精神的成熟を見せて22歳にしてキャプテンとして個性的集団をまとめ上げると、そのシーズン国内2冠を達成。この頃からインテル、ACミラン、ASローマ、パルマ、レアル・マドリッド、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッド、バイエルン、などの世界中のビッグ中のビッグクラブからオファーの耐えない存在となり、翌年はその評判どおりにヤング・アヤックスを率いてチャンピオンズ・リーグで大会の話題となる快進撃を披露してベスト8。ACミランにロスタイムで失点しなければ、ベスト4だったことを考えると残念だった。代表ではチームは2002年W杯、2004年欧州選手権と2つ続けて神様のいたずらでわずかの運の差で本選出場はならなかったことにより、黄色いユニでの露出は減ったが、2003年にアヤックスとルーマニア選手と両方で過去最高記録となる移籍金2100万ドルでASローマに移籍してクラブでのTV露出は増加。厳しいセリエAではその評判を落とすのではという評論家も少なくなかった中で、キヴがサムエルとの鉄壁DFラインを組んだおかげで、チームの安心感が増大し、前半戦で優勝候補と目された。後半戦になるとキヴのケガによる離脱や、ACミランのASローマを上回る驚異的なハイペースによってスクデットはならなかったが、総得点と総失点は共にリーグナンバー1の成績だったことからも、満足いく結果と言えるだろう。翌年はケガのため10試合の出場に留まるも、以降はメクセスとのセリエA最強コンビでイタリアでの地位を不動のものにした。代表ではこの時期の2008欧州選手権予選でキャプテンとしてムトゥと共にチームを鼓舞し続けて、首位で予選を突破。守備的MFポジションへの適正がいまや彼の新境地になりつつある。予選半ばの07/08シーズンに向けての移籍マーケットではレアル・マドリッド、バルセロナ、インテルが死力の争奪戦を繰り広げ、その2転3転ぶりに世界中が踊らされたのも記憶に新しい。その後はフィオレンティーナのムトゥがルーマニア代表のイメージを下げる中で、インテルでルーマニア代表のイメージ降下に歯止めをかけ続けた。09/10にはついにリーグ3連覇とカップ制覇、念願のチャンピオンズリーグ制覇の3冠達成で頂点を味わう(イタリア・スーパーカップとクラブワールドカップを含めて5冠)。しかしラズヴァン政権下の最低最悪状況のもとでもキャプテンとして不満を公にせず、じっと絶え続けたことがついに許容量を超えたのか、30歳にして、またまだまだ核として機能する能力のまま代表引退を決断した。(2011.6.18更新C)
シーズン 所属クラブ 出−得 順位 C CHAMPIONS L UEFA/EUROPE L CUP WINNERS C 代表
96-97 CSMレシツァ 1-0 B1
97-98 CSMレシツァ 23-2 A7
98-99 ウニベルシタテア・クライオバ 26-3 A13
99-00 ウニベルシタテア・クライオバ 6-0 A13
アヤックス(NED) 23-1 A5 4-0(6G)
00-01 アヤックス(NED) 26-5 A3 4-0(4G)
01-02 アヤックス(NED) 32-1 A1 2-0(2+0G) 4-0(4G)
02-03 アヤックス(NED) 26-6 A2 12-0(14G)
03-04 ASローマ(ITA) 22-2 A2
04-05 ASローマ(ITA) 10-2 A8 1-0(6G)
05-06 ASローマ(ITA) 27-2 A5 4-0(10G)
06-07 ASローマ(ITA) 26-0 A2 8-0(10G)
07-08 インテル(ITA) 26-0 A1 6-0(8G)
08-09 インテル(ITA) 20-0 A1 2-0(8G)
09-10 インテル(ITA) 20-1 A1 9-0(13G)
10-11 インテル(ITA) 24-1 A2 6-0(10G) 10クラブWC
11-12 インテル(ITA) 14-0 A 6-0(8G)
12-13 インテル(ITA) - A
ルーマニア代表の主な成績と個人タイトル
2000年欧州選手権出場(4試合・1得点)・2008年欧州選手権出場(3試合)
ルーマニア最優秀選手:
2002年・2009年・2010年
01/02 オランダリーグMVP
2002年UEFAベストイレブンDF部門受賞

その存在感でセットプレーでも相手を恐れさせた巨漢DF −現代表
 ドリン・ゴイアン - Nicolae Dorin Goian
97-98 フォレスタ・ファルティチェニ(B) 14-0
99-00 フォレスタ・スチェアバ(B) 2-0
99-00 グロリア・ブザウ(B) 19-0
00-02 フォレスタ・スチェアバ 26-2
01-04 チェアラウル・ネアムツ 45-2
03-05 FCMバカウ 26-2
04-09 ステアウア・ブカレスト 105-6
09-11 パレルモ(ITA) 30-1
11-12 G・レンジャーズ(SCO) 33-0
12-13 G・レンジャーズ(SCO・D) 2-0
12-13 スペツィア(ITA・B) -
1980年12月12日生まれ 初代表:2005年11月16日ナイジェリア戦
49試合−5得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
最終ラインで圧倒的な存在感を示す長身DFで、守備では真正面からことごとくボールを弾き返し、攻撃でのセットプレーでは得意のヘディングでゴールを量産する貢献度抜群の選手。故郷のスチェアヴァでキャリアをスタートすると5シーズンに渡って2部リーグを主戦場とし、01/02のウィンターブレイクにチェアラウル首脳陣にその長身からなる堅固なDF能力が認められるとそこで2年を過ごした後にバカウに引き抜かれることとなる。強さを身に付けたゴイアンの評判は国内に広がり、翌年11月には出場はなかったがあのアルメニアで代表初召集を受けるまでに成長した。その直後のステアウアとのリーグ戦で主将として臨んだゴイアンは相手の強烈な攻撃陣に対して真っ向勝負で多大なインパクトを残すと試合は2-2のドローで終わったが、その類まれな素質はステアウアのターゲットとなり、そのまま冬に国内頂点のステアウア移籍を実現させた。しかしこのシーズン後半は代表戦士であるラドイとギオネアのコンビを越えることはできず4試合出場と苦しんだ。このまま首都クラブの重圧に負けると思われたが、翌05/06シーズンにプロタソフ監督が就任すると人生最大の転機が訪れる。ラドイを守備的MFにしてギオネアとゴイアンのツインタワーで試されたUEFAカップ1回戦ヴァレレンガ戦で攻守に大活躍すると以降のスタメンの地位を確立。結局このシーズンはリーグで優勝、UEFAカップでは全14試合に出場してFWも真っ青の5得点を記録してベスト4の原動力に。代表でも11月のナイジェリア戦でデビューしてから親善試合でサブとして6試合連続出場し、キヴ、タマシュ、ギオネアに続く第4CBとしてピツルカ認めさせた。06年11月の欧州選手権予選ベラルーシ戦からは累積警告1試合を除いて現在まで13試合連続出場を果たし、特筆すべきはもはやベンチではもったいない存在としたピツルカの判断でタマシュとのコンビでスタメンに昇格し、層の薄い守備的MFにキヴのコンバートを可能にしたことだろう。注目の中のオランダ戦では第1戦で無失点に抑え、予選突破を賭けた終盤の第2戦では値千金の決勝ゴールを決めていちやく時の人となった。本戦でも守備的システムの中心として堅固な守備で死のグループの中で存在を示した。クラブでも06/07、07/08、08/09と連続してチャンピオンズリーグに出場して、世界中のクラブから国内最高移籍金額でのオファーが殺到した。(2008.11.6更新)

ピークを過ぎてからラズヴァンの縁故で代表に連ねる疑惑の戦士
 ヴァシレ・マフテイ - Vasile Maftei
00-01 トラクトルル・ブラショフ(B) 6-1
00-09 ラピド・ブカレスト 211-9
09-10 ウニレア・ウルズィチェニ 30-1
10-11 ウニレア・ウルズィチェニ 15-2
10-12 CFRクルージュ 18-2
12-13 CFRクルージュ -
1981年1月1日生まれ 初代表:2006年2月28日アルメニア戦
11試合−1得点 ラスト:2010年9月7日ベラルーシ戦
気分が乗り次第で更新予定

良くも悪くもプライドの高き元ルーマニアリーグの皇帝 −代表引退
 ミレル・ラドイ - Mirel Matei Radoi
99-00 ドロベタ・セヴェリン(B) -
99-00 エクステンシブ・クライオバ 14-0
00-09 ステアウア・ブカレスト 186-12
08-11 アル・ヒラル(S.A) 49-10
11-12 アル・アイン(UAE) 19-0
12-13 アル・アイン(UAE) -
1981年3月22日生まれ 初代表:2000年12月5日アルジェリア戦
67試合−2得点 ラスト:2010年10月9日フランス戦
10代でセヴェリンのスポーツアカデミーで頭角を現し、ユースの各世代でDFの軸として多くの経験を積んで将来はルーマニアDFの要となるであろうと早くから目をつけられていた原石。エクステンシブの2部降格に伴い、ソリン・キルツ監督の推薦でステアウアと5年契約を結んでからは即座にチームにフィットして、当時国内に戻ってきていたベロデディチとコンビを組んで徐々に名声を得てきた。そのベテランの元で学んだことで持ち前のスピード、インテリジェンス、空中戦の強さ、ゲームを読む能力にさらに磨きをかけて、現在では国内ナンバー1プレイヤーとして君臨し、安心して海外ビッグクラブに送り出せる数少ない選手と言われる。というか一つしか年齢の違わないキヴが数々の栄光を手にしてることを思えば、その海外移籍は遅すぎるぐらいで、早く海外で活躍させることがルーマニアサッカー全体のプラスになるとは周知の事実となっている。インテル、アーセナル、レアル、バイエルン等から国内選手としては破格のオファーがきているにもかかわらず、ステアウアのオーナー、ジジ・ベカリが毎年チャンピオンズリーグ上位進出を狙っているという名目で手放そうとしない。また本人も洗脳されているのか強烈なステアウア愛でそれも良しとしている。こうみると優等生のイメージがあるが、2001年にはディスコで民間人を殴ったとして告発されたり、クラブでも練習中にチームメイトを殴ったりとけっこう荒い性格で有名。そしてケガがちであるという代名詞を利用して、正念場であった2006年W杯予選オランダ戦前日に辞退。これが仮病であったことが発覚して大問題になり、一時は代表無期限追放になったが、2006年2月にピツルカ監督と和解。国内ではあいかわらず皇帝の名に恥じないオーラでステアウアを牽引し、やっと念願のチャンピオンズリーグ出場を手に入れたと思いきや、直後に手術に踏み切ったため終盤の2試合にしか出ていない。翌年もリーグで無理して活躍し、2年連続のチャンピオンズリーグでようやく本領発揮して海外進出の足がかりかという青写真は恒例の直前のケガで絶望視。代表でも3大会ぶりの予選突破を果たした2008欧州選手権でも激突により途中離脱と不運がつきまとう。モウリーニョから名指しでラブコールを送られて、本当に寸前までいったインテル移籍は引き続き翌年の期待となったが、この持越しが本人にとってショックだったか、焦りもあってタイミング良くオファーしてきた中東に去ったことでサプライズを巻き起こした。世間的評価とは別に本人の納得のもとで現在も中東でプレーし英雄的扱いを受けている。さすがに弱小リーグでのプレーで質は落ちていき、フランス戦後に協会幹部のルペスクに咎められたことに憤慨し、代表引退している。(2011.6.18更新E)

守備の不安を攻撃のバランスの良さでカバーする左サイドの重鎮 −現代表スタメン
 ラズヴァン・ラツ - Razvan Dinca Rat
98-01 ラピド・ブカレスト 28-1
00-01 FCMバカウ 14-2
01-02 エレクトロマグネティカ(B) 1-0
01-03 ラピド・ブカレスト 55-3
03-12 シャフタル・ドネツク(UKL) 158-6
12-13 シャフタル・ドネツク(UKL) -
1981年5月26日生まれ 初代表:2002年2月13日フランス戦
86試合−1得点 ラスト:2012年10月16日オランダ戦
U-21代表の頃からMFもDFできるユーティリティーとその左サイドでのスピードと正確なクロスで攻撃能力を高く評価されている選手で現在までフル代表で代えの利かない不動の左サイド。17歳でラピドに入団するといきなりリーグ優勝を味わうが、00/01シーズンはラピドにサバウとルプが君臨していたためレンタルでバカウに出された。金銭面で折り合いが付かなかったが、アヤックスが獲得を狙ったのもちょうどこの頃。それからは攻撃能力に磨きをかけて、ステアウアのラドイと並んで最も海外で活躍できる若手として国内でも注目されるようになる。2002年W杯予選終了後の代表からフル代表にも呼ばれるようになり、安定したパフォーマンスで現在まで定位置を不動のものにした。リーグを制した02/03シーズン頃からアヤックスやガラタサライのような強豪クラブからオファーが殺到し、中でも本人も強く願っていたインテルからの移籍交渉には合意するものと思われたが、実現はせずに東欧のシャフタルでルチェスクと再会。現在までのシーズンでリーグとカップの優勝とチャンピオンズリーグ3度出場の栄光を味わっている。2008年欧州選手権では予選と本戦で不動のスタメンとして相変わらずのプレー。守備的な部分では若手のS・ラドゥに猛追されているもののまだまだスタメンは安泰のようである。2009年にはシャフタルでUEFAヨーロッパリーグを制覇して、監督のミルチェア・ルチェスクと共に美酒を味わっている。ちなみに奥さんのリンダ・クロイトルはルーマニアのトップモデル。(2011.6.18更新D)

召集だけは数多しラツの影武者
 ミハイツァ・ネシュ - Mihaita Mircea Nesu
01-09 ステアウア・ブカレスト 86-1
08-12 ユトレヒト(NED) 84-2
1983年2月19日生まれ 初代表:2005年11月12日コートジボワール戦
8試合−無得点 ラスト:2010年3月3日イスラエル戦
弱点とされた小柄な体格を生かしたスピードでアグレッシブに左サイドを上下動をし、良質なアシストを繰り出したステアウア黄金期のサイドバック。故郷オラデアのユースチームから2001年にステアウア入団すると8シーズンに渡りプレー。まず2シーズンはサブとして径13試合に留まったが、翌シーズンにクラブは2年連続で2位に終わるも自身の出場時間は倍増し、UEFAカップでもプレー。しかし04/05シーズンになるとクラブは久々のリーグ制覇を飾るが、自身はたった7試合しか出れずに当落線上の戦力として安定感に欠けた。放出も示唆された中で迎えた05/06シーズンでようやく実力どおりの活躍を見せてスタメンとしてクラブのリーグ2連覇に貢献でき、チャンピオンズリーグ予備戦でも本戦行きは叶わなかったが、全4試合に出場。ランス、ヘーレンフェーン、ベティス、ラピドなどの強豪を打破したUEFAカップでも12試合に出場し、海外クラブの獲得リストに載るようになった。翌年はなんと言っても予備戦で4試合に活躍して10年ぶりの出場となったチャンピオンズリーグで夢を果たす。結局その夢は2年連続で果たすのだが、3年目は予備戦のみに出場し、本戦進出決定を置き土産にオランダのユトレヒトに入団した。代表では2005年のコートジボワール戦でデビューも決定的なミスを連発し、次の試合もミスを繰り返したため、代表ではまず出番は来ない不安定な選手とみなされている。ユトレヒトでは成熟したプレーにより、「海外でコンスタントに活躍している選手」とい基準には合致しているのだが、代表には力不足。そして2011年5月にクラブの練習中に脊椎骨を骨折し、現在まで四肢麻痺からのリハビリに務めている。(2012.9.18更新)

ユーロまでの好評価からの失墜を取り戻したDFリーダー −現代表候補
 ガブリエル・タマシュ - Gabriel Sebastian Tamas
98-00 FCブラショフ(B) 1-0
00-02 トラクトルール・ブラショフ(B) 34-3
02-03 ディナモ・ブカレスト 19-4
03-04 ガラタサライ(TUR) 6-0
2004 スパルタク・モスクワ(RUS) 15-0
04-06 ディナモ・ブカレスト 27-1
2006 スパルタク・モスクワ(RUS) 3-0
06-07 セルタ(SPA) 28-0
07-08 オセール(FRA) 27-0
08-10 ディナモ・ブカレスト 34-2
09-12 WBA(ENG) 57-2
12-13 WBA(ENG) -
1983年11月5日生まれ 初代表:2003年2月12日スロバキア戦
61試合−3得点 ラスト:2012年10月16日オランダ戦
望まれてようやく出現した若き長身センターバックで、その風貌からは想像できないスピードも持ち合わせ、右サイドバックとしても機能できる。国内での急激なステップアップのまま期待されてガラタサライへ移籍。ちょっと早すぎる海外挑戦ではと危惧されたがその通りになってしまった。10代ながら当初はテリム監督に認められてリーグでいきなりスタメンで起用されて高評価を得るが、その勢いで出場したチャンピオンズリーグでは若さを露呈し、まさにチームの穴としてガンガン敵に突かれて戦犯となった。その後リーグでもその評価は急落し、激しいことで有名なトルコのプレスに毎回叩かれて失意のまま高額オファーのロシアに移籍していった。ロシアでもイエンクシ、ソアヴァ同様に徐々に出場機会を失い、期待された代表への門も閉ざされたかたちとなったが、ディナモへのレンタル復帰が最大の転機となり好調を取り戻す。そして2006年W杯予選8試合目のオランダ戦からラドイの追放で抜けたセンターバックのポジションを得ると、2年半で累積警告とケガで3試合欠場以外25試合スタメンの超不動の地位を確立し、キヴ、タマシュ、ゴイアンという安定したDFは2008欧州選手権予選突破の影の立役者と言ってもいいほどで、その活躍はラドイの不在を感じさせないレベルまでになっている。クラブではセルタ以降安定しているものと思われたが、08/09シーズン前にしてセルティックへの移籍が最後までもつれたために開幕からの構想に漏れて国内復帰。ディナモでは磐石、海外ではそれほどという評判が定着する中で選んだイングランド2部への移籍が想定しなかった再起への起点となる。圧倒的な存在感で核となり、昇格に導くと、1部でも引き続き好調を維持して、チェルシー移籍が噂されるほど復調した。2008年大会後の燃え尽き症候群からも脱却し、代表にも復帰してキャプテン候補となったが、残念ながら11/12シーズンにWBAの監督が代わってからなぜか構想外となったことが影響して、代表共に出場時間が激減している。(2012.9.18更新C)

強き意思と攻守の高性能を誇る右サイドのファーストチョイス −代表追放中
 クリスティアン・サプナル - Ionut Cristian Sapunaru
02-04 ナシオナル・ブカレスト 5-0
03-04 カスラティス・マンガリア 10-0
04-06 ナシオナル・ブカレスト 29-3
06-08 ラピド・ブカレスト 51-2
08-10 FCポルト(POR) 22-0
09-10 ラピド・ブカレスト 10-3
10-12 FCポルト(POR) 34-2
12-13 レアル・サラゴサ(SPA) -
1984年4月5日生まれ 初代表:2008年5月31日モンテネグロ戦
9試合−無得点 ラスト:2011年6月3日ボスニア戦
元々FWであったことからコンバートしたナシオナル時代にはCBながらハットトリックを記録するなどスピード、ハードマーク、攻撃力に優れたDFで、現在主戦場になっている右サイドだけでなく左も同等レベルでプレーできる高性能マルチプレイヤー。ナシオナルのユース部門からの生え抜きで18歳にトップチームに合流し、計3シーズンはユース代表にこそ3キャップの栄誉を掴むも、クラブでは2部クラブへ修行に出されるなど、平均して4試合にしか出場できないほど未熟だった。しかし4年目となる05/06シーズンになると安定感が増して両サイドとセンターバックの2つのポジションでレギュラーを務め、21歳で何試合かキャプテンを任されるほど信頼されるようになる。カップ戦では決勝で延長の末にラピドに敗れるも、これが決定打となり転機が訪れた。翌06/07からは見初められたラピドに入団し、3バックの右や左、4バックの左右サイドでユーティリティ性が重宝された。終盤にコンデションを落としたためにカップ戦を制したチームの中で決勝はベンチで過ごし、昨季のリベンジはできずじまいだったが、リーグでは19試合に出場して一定の評価は得た。翌シーズンには新レドニク監督体制で確固たるレギュラーとしてクラブの顔になるほどの活躍を見せて、リーグベストイレブンに選出。欧州選手権予選には新選手をめったに招集しないことで知られるピツルカ監督のため1試合も出場機会は無し。それでも調子を落としていたオガラルを蹴落として、本戦のメンバーに選ばれた唯一のフィールドプレイヤーとなり、直前のモンテネグロ戦でようやくA代表にデビューした。本戦では起用されなかったが、それまでの文句なしの評判でFCポルトに入団。期待通りの活躍でレギュラーとなり、チャンピオンズリーグにも出場。ピツルカ後期からスタメンとなるもケガで離脱し、ラズヴァン政権下ではラドゥと共にクラブ重視の姿勢で代表を仮病で20試合近く無駄にしている。不在でもスタメン級というのは周知で既定路線となっている。ポルトでは暴行行為でしばらく出場停止処分になるなど荒々しい性格で、一転して放出候補となるも回復して2011年のヨーロッパリーグでは優勝の原動力となった。代表ではピツルカ第3次政権でようやく復帰かと期待されるも、代表軽視の態度でついには追放処分となった。またステアウアとディナモ嫌いで有名。(2012.9.18更新A)

 スルジャン・ルキン - Srdjan Luchin
06-07 FCUポリUティミショアラ 24-2
06-08 FCUポリ・ティミショアラ 17-1
08-12 FCティミショアラ 71-4
11-12 ディナモ・ブカレスト 24-0
12-13 ディナモ・ブカレスト -
1986年3月4日生まれ 初代表:2011年8月10日サンマリノ戦
6試合−1得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
代表キャップ10以降に更新予定

 ヤスミン・ラトフリェビッチ - Iasmin Latovlevici
05-06 CFRティミショアラ 14-0
05-06 FCUポリ・ティミショアラ 2-0
06-07 FCUポリUティミショアラ 10-0
06-08 FCUポリ・ティミショアラ 9-0
07-08 FCUポリUティミショアラ 14-0
08-10 FCティミショアラ 22-0
09-10 グロリア・ビストリツァ 12-0
10-12 ステアウア・ブカレスト 49-1
12-13 ステアウア・ブカレスト -
1986年5月11日生まれ 初代表:2011年6月8日ブラジル戦
6試合−無得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
代表キャップ10以降に更新予定

広きプレーエリアの次世代マルチロール
 ラズロ・セプシ - Laszlo Sepsi
04-05 ガス・メタン・メディアシュ(B) 24-1
05-06 レンヌ(FRA) 0-0
06-08 グロリア・ビストリツァ 45-0
07-08 ベンフィカ(POR) 7-0
08-10 ラシン・サンタンデール(SPA) 23-0
09-12 FCティミショアラ 56-1
11-12 FCMトゥルグ・ムレシュ 14-0
12-13 CFRクルージュ -
1986年6月7日生まれ 初代表:2007年3月26日ロシア戦
3試合−無得点 ラスト:2010年6月5日ホンジュラス戦
マイナークラブのビストリツァからベンフィカに引き抜かれた左サイドバックの逸材。同期のラドゥに資質の高さでは劣るも、CB・左サイドバック・守備的MF・左MFと4つのポジションをこなせるポリバレントは重宝される。サバウ監督の秘蔵っ子として18歳にしてクラブを2部で2位に急成長させた原動力となり、翌年にはその若さで元代表ボローニに率いるフランスリーグのレンヌにレンタルで引き抜かれる。ゆっくり育てる意向だったために1年間をカップ戦で2試合、そして珍しいことにリーグで出場がないままUEFAカップを1試合経験した。翌年こそはテスト生の域を脱しようとするもボローニがチームを去ったため、恩師であるサバウ監督がいるグロリアに入団する。その1年半でリーグ屈指の左サイド、不動のスタメンとしてユース代表で13試合に出場、そしてユーロ本戦候補としてロシア戦でA代表にも選ばれるまでに成長した。この活躍から2008年冬の移籍マーケットでポルトガルの強豪ベンフィカと5年半の契約。当初はスタメンで順調に経験を重ね、UEFAカップでも3試合に出場して評判も上々であったが、冬のシーズンにまたもや監督交代という不運に遭遇。監督の求める即戦力が大量に入団してきたため、出場機会は与えられなくなった。よって半年でスペインのラシンにレンタル放出されるが、中堅と言えどもスペインリーグそして昨季快進撃で6位になったためUEFAカップにレギュラーで4試合出場、対戦相手もレアルやバルセロナというように災い転じて経験値を上げた。国内帰還後は勢いは沈静化してしまったが、安定したプレーで常に左サイドの構想にリストアップされている。(2011.6.18更新A)

代表よりもクラブで着実に成長し続けるキヴU世
 シュテファン・ラドゥ - Stefan Daniel Radu
04-05 ディナモ・ブカレストU(B) 7-0
04-05 ディナモ・ブカレスト 2-0
05-06 ディナモ・ブカレストU(B) 11-0
05-08 ディナモ・ブカレスト 59-1
07-12 ラツィオ(ITA) 105-0
12-13 ラツィオ(ITA) -
1986年10月22日生まれ 初代表:2006年11月15日スペイン戦
12試合−無得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
強靭なフィジカルと熟練を感じさせる技術、センターバックと左サイドをこなせることから「キヴ二世」としてもてはやされているが、1対1やカバーリングなどで見せるイエローカードをもらわない冷静沈着なプレーぶりは若き日のキヴをすでに越えている恐るべき選手。6歳からディナモの下部組織で育ち、17歳でカップ戦にてプロデビューを飾ると、04年からは見る目の無い監督達によってわずかな時間しかトップチームでの機会を与えられなかったが、満を持して臨んだ06/07シーズンにはレドニク監督の信頼の元でモツィとコンビを組みリーグ最小失点で開幕13連勝の原動力になると10月にはA代表にも初召集され、ユベントスやASローマをはじめとする各国のクラブからオファーが殺到するまでになった。UEFAカップでも予選から全12試合にフル出場し、リーグ終盤にもなると20歳とは思えない存在感で今まで国内最高のDFと知られてきたステアウアのラドイと双璧をなし、MVP級の活躍で3年ぶりのリーグ制覇に多大な貢献を示す。すでに海外移籍は避けられない状況の中、迎えた07/08シーズンはディナモのチャンピオンズリーグ出場を果たすため残留するも、予選のラツィオ戦で惨敗。念願は叶わなかったが、開幕したリーグではあいかわらず全試合フル出場して安定した能力を披露し、国内最高額となる500万ユーロでついにキヴと同じセリエAの舞台に立つことになった。代表ではデビュー以来少ないながらも4試合連続出場してはいたが、2008欧州選手権予選の後半戦はピツルカ監督がチームの骨格作りに最優先をおいたため、7試合召集されながら出場は無し。大会後はスタメンに名を連ねるが、ピツルカとの関係が悪くなると召集はなくなった。クラブでは絶好調でつねにACミランなどビッグクラブへの移籍が取りざたされる中、代表へ呼ばないラズヴァンに対して反旗を翻して以後の召集は仮病で辞退し続けたことで、実力に反してこの間の代表30試合を棒に振った。ラズヴァン政権終盤には和解とも取れる態度で召集に応じる意思を見せたのは来たるピツルカ政権への布石か。結局ピツルカ再政権ではラツィオで酷使したケガのため、数試合しか召集されていない。(2012.3.11更新B)

 フローリン・ガルドシュ - Florin Gardos
08-10 コンコルディア・キアジナ 51-1
10-12 ステアウア・ブカレスト 31-0
12-13 ステアウア・ブカレスト -
1988年10月29日生まれ 初代表:2011年2月8日ウクライナ戦
8試合−無得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
代表キャップ10以降に更新予定

 パウル・パップ - Paul Papp
06-08 ウニレア・デジ 38-3
08-09 FCボトシャニ 14-0
08-09 ヴァスルイ 1-0
09-10 ファルル・コンスタンツァ 10-0
08-12 ヴァスルイ 73-6
12-13 キエーボ(ITA) -
1989年11月11日生まれ 初代表:2011年2月8日ウクライナ戦
10試合−1得点 ラスト:2012年8月15日スロヴェニア戦
右サイドが枯渇する代表にあって、本来はCBながら代表のスタメンの座を射止めた安定度抜群のラテラル。生まれのデジでキャリアをスタートさせ、地元クルージュの少年ならば夢のクラブであるウニベルシタテア・クルージュとCFRへの入団を目指したが叶わず、隣県のG・ビストリツァの入団テストも落第。遥か遠い2部のボトシャニでプレーできたのは18歳になってからであった。この最北東部の街でパップはいきなり頭角を現し、同じモルドヴァ地方の強豪ヴァスルイの目に留まって念願の1部に到達。しかし、急激な外国人化を推し進めていたヴァスルイでは出番はなく、直ぐに2部のF・コンスタンツァへとレンタル放出された。ここでパップは守備の柱としてだけでなく、セットプレーの強さから得点源ともなり、U21代表に抜擢。そして、僅か半年でヴァスルイに呼び戻され、以後はスタメンに定着。10/11、11/12と2年連続で2位に輝いたチームで不動のCBとして活躍し、昨年にA代表デビュー。今や右SBとCBでスタメンとしてプレーしている。(2012.9.11更新)

 ヴラド・キリケシュ - Vlad Iulian Chiriches
07-08 ベンフィカ(POR) youth
08-10 インテル・クルテア 41-1
10-12 パンドゥリ・トゥルグ-ジウ 39-0
11-12 ステアウア・ブカレスト 14-0
12-13 ステアウア・ブカレスト -
1989年11月14日生まれ 初代表:2011年8月10日サンマリノ戦
15試合−無得点 ラスト:2012年11月14日ベルギー戦
代表キャップ10以降に更新予定