ルーマニアの歴史



古代:

 ルーマニアの地に人々が定住するようになったのがいつなのかは、よく分かっていません。しかし、ムンテニア地方では旧石器時代、 新石器時代の遺跡が発見されています。また、ドブロジャ地方のヒストリア遺跡からも石器時代の遺物が出土しています。注目すべきものは、二体の表現力豊かな像(「座る女」と「考える人」)、それにククテニの陶器であります。数千年も前からこの地では人々が生活していたと思われます。 当時の遺物はヒストリア博物館などに収蔵、展示されています。

 このヒストリアが歴史書に具体的な地名で登場するのは紀元前7世紀にギリシャ人の移民が住み付いてからのことです。この町はその後ローマに支配され、外敵の侵略や自然条件の変化で7世紀ごろには滅亡してしまいました。当時の門や住居跡の石組みなどが今でも残っています。

 ルーマニア人の起源は、ダキア人またはトラキア人であると言われています。ダキア人は現在のヨーロッパ各国の祖先に当たる人々と同じ種族です。紀元前7世紀にはトランシルバニアやモルドヴァ、ムンテニア地方に住み付いていました。ダキア人はヒストリアなどギリシャの植民地との交流を通じて独自の文化圏=国家を形成していきました。

 紀元1世紀にはダキア人のデケバルス王が、現在のルーマニアの領土を支配しました。そしてこの古代ダキア王は、紀元106年ローマのトラヤヌス帝によって征服されました。ローマ帝国は、271年には撤退するものの、約3世紀にわたるダキア人とローマ人の混在、混血の結果、ローマの公用語であったラテン語を用いるルーマニア民族が次第に形成されていきました。そしてこの頃、この地域にキリスト教が広まっていきました。使徒アンドレの墓はルーマニアにおいて最も崇拝される場所となっています。

 ローマ化した人々は、6世紀から12世紀の間に繰り返された異民族の侵略(ゴート、フン、ゲピデ、アバール、スラブ、クマン、ペチェネーギ並びにタタール)の中でも生き延びてきました。そしてこの期間にルーマニア語が発達し、10世紀以降には農業を主体とした村落中心の封建国家が次第に成立していきました。ハンガリー王ベラの書記官で、有名ながら氏名不詳の人物の書物の中に、トランシルバニアにおけるルーマニア人の共同体の存在が記録されています。


中世:

 初めの千年紀の終わり頃、共通の言語、宗教、文化を有する三つの国が興りました。トランシルバニア、モルダヴィア、ワラキア(ムンテニア)の三国です。そして、ルーマニア国々は協力しあい、時には別個に、何世紀にもわたってオスマン・トルコ、ハプスブルグ及びロシア諸帝国の拡大に抵抗して闘いました。この時代、偉大な支配者として、ミルチャ老公(1386〜1418年、ワラキア)、ヤンク・デ・フネドアラ(1441〜1456年、トランシルバニア)、ブラド・ツェペシュ(1448、1456〜1462、1476年、ワラキア)、ステファン・チェル・マーレ大公(1457〜1504年、モルドヴァ)らが活躍しました。

 ミハイ・ビテアズル勇敢公(1593〜1601年、ワラキア)は、1600年にルーマニア三国を統一したが、近隣の列強勢力(オスマン帝国、オーストリア、ポーランド)がルーマニア人による強大国の建設に抵抗したため、この統一は長く続きませんでした。ミハイ勇敢公はオスマン帝国に対する偉大な勝利が称えられて「キリスト教の勝利者」の称号を得たにもかかわらず、1601年に彼の盟友の裏切りによって暗殺されました。しかし、三国の統一は、その後数世紀にもわたりルーマニア人すべてにとって象徴としての価値を持つようになりました。


近現代:

 1821年独立国家への道を目指しオルテアから火の手があがったワラキア、モルドヴァ両公国の革命は失敗に終わり、1848年には、トランシルバニアを含む三国が革命を起こして鎮圧されましたが、近代化への道を開きました。そして、1859年にはモルドヴァ公のアレクサンドル・クーザーが二公国の共通君主として選出され、ワラキアとモルドヴァが統一しました。1862年には新国家が正式にルーマニアと称されて後、1866年ルーマニアを立憲君主国として制定する憲法が採用され、ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のカロル一世がルーマニア公(1881年に王位)となりました。

 1877年5月9日、ルーマニアは国家としての独立を宣言し、オスマン帝国に対する独立戦争によってこれを確実なものとし、サン・ステファノ条約と1878年ベルリン協定で国際的に承認されました。そして、第一次世界大戦末期の1918年12月1日にトランシルバニアがルーマニアと統合し、ほぼ同時にベッサビア(旧モルドヴァの一部で、以前ロシア帝国の支配下にあり、現モルドヴァ共和国の大部分)が完全に統合しました。

 1939年にナチスドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が結ばれた後、1940年トランシルバニアの大部分がホルティ政権下のハンガリーによって占拠されました。一方、ベッサビア及び北部ブコビナ(旧モルドヴァの一部、現ウクライナの一部)はソ連に占拠されてしまい、翌年にはナチスドイツの圧力により、ルーマニアは第二次世界大戦に参加した結果、ソ連の占領支配下になってしまいました。

 そして1947年12月30日にルーマニアは人民共和制を宣言し、1965年には、チャウチェスクが党の第一書記に就任しましたが、彼の独裁政治は国民の不満を買い、1989年12月にチャウチェスク政権打倒を目指して民主改革が起こりました。これにより共産主義に終わりを告げ、再び民主主義国の仲間入りをすることができました。1991年には新しい憲法が承認されました。その中には、ルーマニアは資本主義経済に基づく言論、宗教、所有の自由がある共和国であると記載されています。

 1993年、ルーマニアは欧州評議会に加盟、1995年には欧州連合(EU)の準加盟国となり、NATOの平和のための協調協定(PFP)に加盟しました。

 
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